いま進行している事態は「長州史観の歴史的瓦解」ともいえる現象なのではないか。
さる5月20日の志位共産党委員長と安倍晋三首相との党首討論で、首相が「(ポツダム宣言の)その部分をつまびらかに読んでいないので承知しておりません。論評はさし控えたい」という答弁をしたことに対して、国内外で衝撃が広がっている。この人物の歴史認識に諸外国の人々も背筋の寒くなるのを感じていることだろう。
もちろん首相の本音は、「日本の戦争は正しかった。ポツダム宣言の認識は誤りである」というものであろう。そう思っているのであれば、正々堂々とそう言って欲しかった。しかし、所詮は悲しい従米ポチ。それを堂々と言うのは、アメリカの手前、口に出すこと憚られたのであろう。そこで「読んでいない」ことにして自分の判断を述べることを回避し、お茶を濁したのだろう。
しかしこんな稚拙なウソをついて逃げるやり方は、あまりにも卑怯であるし、オソマツである。「ヤルタ=ポツダム体制打倒」を唱える右翼の方々が見ても、「何で安倍首相は、『あの戦争は正しかった。ポツダム宣言が誤りだ』と堂々と言えないのだ」と悔し思いでいることであろう。
ポツダム体制を打倒し、アメリカに押し付けられた日本国憲法を廃棄し、大日本帝国憲法が支配した輝かしい長州支配の明治の御代を取り戻そう・・・・・。首相の歴史観を簡潔に述べればこういうことだ。これは安倍首相の祖父である岸信介元首相の歴史観であり、岸派の流れを汲む自民党・清和会系の政治家に広く共有されている。
ちなみに、まったくの言いがかりで朝敵の汚名を着せられて攻め滅ぼされた越後・長岡を地盤としていた田中角栄元首相が率いた自民党・田中派系の政治家にはこの歴史観は共有されていない。田中派が主流だった当時の自民党は、安倍首相のような異常な歴史認識を示すことはなかった。
私がこのブログで脱長州史観キャンペーンを始めたのは、NHKに干渉し、大河ドラマ枠を乗っ取るという異常手段を取ってまで、長州史観キャンペーンを大々的に展開し、それを改憲につなげようとする安倍政権の目論見に対し、たとえ蟷螂の斧であっても抵抗したいと考えたからであった。
ところがいざ蓋を開けてみると、進行しているのは「長州史観の歴史的瓦解」とでも呼ぶべき現象である。しかも、その瓦解を生み出したのは、完全なる敵失なのである。
だって、大河ドラマ「花燃ゆ」を視聴すればするほど、「要するに松下村塾の人たちってテロリストだよね~」とか「あんな連中が何かの間違いで権力を取っちゃったから、その後の日本は戦争まみれでおかしくなっちゃったんじゃないの?」といった感想しか生まれないからだ。実際、「花燃ゆ」視聴者の感想ツイートを見ると、そのような感想で目白押しなのである。
明治維新を会津側から描いた「八重の桜」では、吉田松陰も桂小五郎ももっとカッコ良く描いていたし、長州の威信はそれほど傷つかなかった。しかるに長州礼賛ドラマを作ろうとした結果、逆に明治維新正統史観が失墜するという奇妙な現象が発生してしまった。
その現象とパラレルに、安倍政権が推し進める安保関連法案強行への反対意見も高まっている。ウソでも何でもついて力づくで安保法制を強行しようとする首相の言動の異常さと、意にそわなければ脅迫したり暗殺したり焼き討ちしたりで片づけようとする松下村塾一党のテロ行為の異常さが完全にシンクロしてしまっているのだ。
安保法制の成立を急ぐのも、全く杜撰な法制度で自衛隊員をみすみす死地に追い込んで、長州(靖国)神社に新たな生贄を献上するのが真の狙いなのではないか、そのような疑念さえ生まれる。
NHKの大河スタッフの真意はどうなのだろう。単に強要されてモティベーションが上がらないままに惰性でドラマを作成したら結果としてこうなってしまったのか? それとも、安倍政権の言いなりになったように見せかけて逆に相手を罠にかけるという、この間、山本勘助や黒田如水から学んできたであろう高度な兵法を駆使したのか?
いずれにしても、長州史観で日本人をリ・マインドコントロールしようとした安倍政権の目論見は挫折しつつある。
さる5月20日の志位共産党委員長と安倍晋三首相との党首討論で、首相が「(ポツダム宣言の)その部分をつまびらかに読んでいないので承知しておりません。論評はさし控えたい」という答弁をしたことに対して、国内外で衝撃が広がっている。この人物の歴史認識に諸外国の人々も背筋の寒くなるのを感じていることだろう。
もちろん首相の本音は、「日本の戦争は正しかった。ポツダム宣言の認識は誤りである」というものであろう。そう思っているのであれば、正々堂々とそう言って欲しかった。しかし、所詮は悲しい従米ポチ。それを堂々と言うのは、アメリカの手前、口に出すこと憚られたのであろう。そこで「読んでいない」ことにして自分の判断を述べることを回避し、お茶を濁したのだろう。
しかしこんな稚拙なウソをついて逃げるやり方は、あまりにも卑怯であるし、オソマツである。「ヤルタ=ポツダム体制打倒」を唱える右翼の方々が見ても、「何で安倍首相は、『あの戦争は正しかった。ポツダム宣言が誤りだ』と堂々と言えないのだ」と悔し思いでいることであろう。
ポツダム体制を打倒し、アメリカに押し付けられた日本国憲法を廃棄し、大日本帝国憲法が支配した輝かしい長州支配の明治の御代を取り戻そう・・・・・。首相の歴史観を簡潔に述べればこういうことだ。これは安倍首相の祖父である岸信介元首相の歴史観であり、岸派の流れを汲む自民党・清和会系の政治家に広く共有されている。
ちなみに、まったくの言いがかりで朝敵の汚名を着せられて攻め滅ぼされた越後・長岡を地盤としていた田中角栄元首相が率いた自民党・田中派系の政治家にはこの歴史観は共有されていない。田中派が主流だった当時の自民党は、安倍首相のような異常な歴史認識を示すことはなかった。
私がこのブログで脱長州史観キャンペーンを始めたのは、NHKに干渉し、大河ドラマ枠を乗っ取るという異常手段を取ってまで、長州史観キャンペーンを大々的に展開し、それを改憲につなげようとする安倍政権の目論見に対し、たとえ蟷螂の斧であっても抵抗したいと考えたからであった。
ところがいざ蓋を開けてみると、進行しているのは「長州史観の歴史的瓦解」とでも呼ぶべき現象である。しかも、その瓦解を生み出したのは、完全なる敵失なのである。
だって、大河ドラマ「花燃ゆ」を視聴すればするほど、「要するに松下村塾の人たちってテロリストだよね~」とか「あんな連中が何かの間違いで権力を取っちゃったから、その後の日本は戦争まみれでおかしくなっちゃったんじゃないの?」といった感想しか生まれないからだ。実際、「花燃ゆ」視聴者の感想ツイートを見ると、そのような感想で目白押しなのである。
明治維新を会津側から描いた「八重の桜」では、吉田松陰も桂小五郎ももっとカッコ良く描いていたし、長州の威信はそれほど傷つかなかった。しかるに長州礼賛ドラマを作ろうとした結果、逆に明治維新正統史観が失墜するという奇妙な現象が発生してしまった。
その現象とパラレルに、安倍政権が推し進める安保関連法案強行への反対意見も高まっている。ウソでも何でもついて力づくで安保法制を強行しようとする首相の言動の異常さと、意にそわなければ脅迫したり暗殺したり焼き討ちしたりで片づけようとする松下村塾一党のテロ行為の異常さが完全にシンクロしてしまっているのだ。
安保法制の成立を急ぐのも、全く杜撰な法制度で自衛隊員をみすみす死地に追い込んで、長州(靖国)神社に新たな生贄を献上するのが真の狙いなのではないか、そのような疑念さえ生まれる。
NHKの大河スタッフの真意はどうなのだろう。単に強要されてモティベーションが上がらないままに惰性でドラマを作成したら結果としてこうなってしまったのか? それとも、安倍政権の言いなりになったように見せかけて逆に相手を罠にかけるという、この間、山本勘助や黒田如水から学んできたであろう高度な兵法を駆使したのか?
いずれにしても、長州史観で日本人をリ・マインドコントロールしようとした安倍政権の目論見は挫折しつつある。
長州史観のロゼッタ・ストーンたりうるかと、維新近代化物語の始点であるペリー艦隊来航について、軍事オタクの見方を殴り書きしてみます。
1853年に浦賀沖に姿をあらわしたペリー艦隊4隻は、外輪蒸気艦2隻と、蒸気艦のために甲板まで石炭を満載した帆走艦2隻から成っていました。外輪蒸気艦を当時「最大最新鋭のハイテク艦」と思うのは無知の極み。すでに時代遅れの使いようがない無用弱体艦であり、これを外用遠征に運用するのは無理がありすぎるものでした。
外輪方式は波のない河川やせめて近海専用のもので穏やかな水面での低速走行以外は燃料効率は最悪、波浪の高い外洋では左右のバランスが取れないため操船不能で結局帆走となり外輪が無用の抵抗となります。
対艦戦闘においては運動性は劣悪で、深刻なことは、舷側にあって狙いやすい大きな外輪が砲撃を喰らうと身動きが取れなくなることで、小型で機敏な帆走艦のほうがよほど戦闘力にまさるわけです。
ペリーは対メキシコ戦争の際に、陸地に対する艦砲射撃による威圧効果をねらって大型の外輪艦を集中投入しようとしましたが、全艦が完成する前に戦争が終わってしまい、無用の長物たちに対する非難をそらすために東洋艦隊の編成と日本遠征という壮大な計画を考えたのだと睨みます。
当時の欧米の眼は広大な市場である大陸中国を見ており、日本列島はそのためのたんなる踏み台でした(現在においてなお?)。日本列島を大陸への踏み台にする必要があったのは太平洋をはさむ米国のみで、インドを経由してくる英国にとってはそのような踏み台は無用だったのです。
しかし、波浪に弱く燃費最悪の外輪艦で一気に太平洋を渡ることはできず、ペリーは石炭を補給しながら陸づたいにはるばる来航せざるを得ませんでした。ちなみにペリー来航を奇貨として、その直後に江戸公儀は先訓をあらため外洋大型船をオランダに発注、それは時代に遅れないスクリュー船でした。船酔いで意気地なく倒れたままだった勝海舟を乗せて太平洋を一気に渡った、かの咸臨丸です。
それはそれとして、石炭を節約して帆走で海をわたり、陸地から見えるところに来て勇躍釜を焚いて黒煙をモクモクと吐いて威圧しようとしたアメリカ人らしく単純な自己肥大オツムのペリーさんの自慢的議会報告である、ペルリ提督『日本遠征記』二巻目(岩波文庫、1948年)から引用します。
p220以下(日本側のはじめての乗艦):
香山栄左衛門とその随員たちは極めて上機嫌らしく、サスケハンナ号の士官たちの供した歓待に快く甘えて、極めて立派な教養を示す洗練された態度でそれを受け、それに答えたのであった。・・・奉行は特に外国製のリキュールが好物らしく、殊にそれに砂糖を混ぜたのを賞味し、大きく舌鼓を打ちながら一滴も残さず飲み乾したほどであった。通訳たちは歓楽を尽くして気も楽になり、奉行の陶然たる姿を見て心も軽く笑ひながら、栄左衛門が飲みすぎないようにとの心遣いを述べて、『も早やお顔が赤くなっている』と注意したのであった。
彼らの知識や常識も、その高尚な態度や物腰に比して決して劣らぬものであった。・・・地球儀を面前に置いて、それに書いてある合衆国の地図に注意を促すと、すぐさまワシントンとニューヨークに指を置いた。あたかも一方が吾国の首府にして、他方が商業の中心地であることを知悉しているかの如くであった。
彼等は又地峡横断の運河がもう完成したかどうかとも訊ねた。これは恐らく当時建設中のパナマ鉄道のことを指していったのであらう。兎に角彼等はそれが両大洋を結びつけるために行われている事業たることを知っていたのであって、・・・
彼等は艦内各種の装置全部に対して理知的な興味を抱き、大砲を観察して、それは『ペーザン』型であると正確に語ったのであったが、完備した蒸気船内にある驚異すべき技術と機構とをはじめて見た人々から当然期待される驚愕の態度を少しも現はさなかった。
p204(日曜日に好奇心でペリーとおしゃべりにと出かけた高位の武士たち):
その翌日は日曜日で・・・日本役人たちとの交渉は一切行われなかった。けれどもその日、縞の旗を立てた一艘の小船が漕ぎ寄せてきた。・・・彼等はゆっくりと扇子をつかっていた。彼等は明らかに名だたる人々で、同じように聡明な顔をしており、また著しく慇懃な態度であった。舷側にやって来てから同行の通訳に通じて乗船の許しを請うた。提督へ用件があるのかと訊ねると、用件はないが唯話をしたいのだと答へたので、提督の命令によって応接することができない旨を鄭重に答へた。
p190(ファースト・コンタクト):
やがて一隻の防備船が旗艦の舷側に横付けとなった。・・・サスケハンナ号の士官はそれを受け取るのを拒絶した。・・・それはフランス語で書かれた文書で、貴艦は退去すべし・・・といふ趣旨の命令が書かれているのを発見した。・・・横付けにした防備船上の一人は甚だ立派な英語で『余は和蘭語を話すことができる』と語った。彼の英語はこれだけ云うのが精一杯らしかったから、ポートマン氏は和蘭語で彼と会話を始めた。けれども彼は和蘭語に熟達していると見えて、矢継ぎ早にいろいろな質問を浴びせかけたが、・・・。彼は艦隊がアメリカからやって来たのかどうかと尋ねた。そして、アメリカから来た船なることを期待しているようであった。
<引用以上>
いかがでしょうか。ペリー艦隊の実像と舞台裏を江戸公儀はオランダからの情報で充分に認識していたと思います。「たった四杯で夜も眠れず」という黒船神話が長薩一派のプロパガンダというより、フィクションであったことが、わずかの引用で示されると思います。
p190の記述はきわめて重大であると思います。江戸公儀は、米国からのコンタクトを読み、期待し、待っていたのです。インドで、またアヘン戦争でメチャクチャやったイギリスではなく、そのイギリスと戦って独立したアメリカと、アジア進出で出おくれながらイギリスとなんとか対抗したいアメリカと、まず最初に国交をむすびたいと。こう考えたのは、関さん、松平忠固ですね。
ペリーが浦賀にやってくると読んで、長崎から最優秀のオランダ語通訳を呼び寄せて待ち受けていたのですから。
安倍総理のポツダム宣言に対する認識ですが、過去にポツダム宣言は原爆投下後に高圧的に突きつけた物などと時系列を間違えて把握していたこと、改憲を掲げながら芦部氏を知らない上にその後も憲法に関する研究をしている気配が全くない過去を踏まえると本当にポツダム宣言の中身を知らないのが事実なのではないかと思います。
彼にとっての行動原理は自分が生まれた長州は正義、おじいちゃんは悪くない、おじいちゃんは正しい、そんな自分は正しい。たったそれだけの薄っぺらい理屈で動いているだけのように私は思います。
花燃ゆですがこの後待ち構えている萩の乱によってさらに長州の歪みが世間に露呈されるでしょう。少なくとも杉家の歴史にとって避けては通れない事案であり、更に今作の前原一誠の描かれ方を見る限り、単なる士族の反乱ではなく、彼の明治政府の富国強兵策に対する義憤から起こした反乱と概ね描かれるのは間違いないでしょう。
後ればせながら、その内容と符合する記述を日本海事科学振興財団 「船の科学館 資料ガイド4 黒船来航 ペリー艦隊の実像に迫る」に見つけました。該当部分を抜粋引用します。
念のために・・・1853年に浦賀沖に来航した4隻は、蒸気フリゲート艦の「サスケハナ」と「ミシシッピ」、帆走スループの「サラトガ」と「プリマウス」でした。翌年の再来航に加わった蒸気艦が「ポーハタン」で、この蒸気艦3隻すべて「外輪」艦です。
「ミシシッピ」は1841年の完成当時は革新的な新鋭蒸気艦でした。浦賀に来航したペリー艦隊には建造後12年目に加わったわけです。「サスケハナ」と「ポーハタン」は米メキシコ戦争(1846年~1848年)の最中1847年起工で、米メキシコ戦争終結後の1850年に完成し、米国「東インド艦隊」に配属されています。
なお、先の投稿での外輪船に関する言及をオタク的知識というのはまことに口幅ったく、外輪船・外輪軍艦の特徴と問題点はウィキペディア(「蒸気船」)を含め随所に言及されておりました。ひとりよがりを恐縮いたしますとともに、ここでは逐一の参照を略させていただきます。
<以下最後まで、首記記事からの抜粋引用です。項番と見出しは投稿者のものです>
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00915/contents/0007.htm
01 ペリー艦隊の一員として浦賀に来航する12年前に完成した当時は世界最新鋭艦だった蒸気外輪艦「ミシシッピ」:
・・・1837年になってやっと“フルトン”II(1,011排水トン)が建造されました。“フルトン”IIは沿岸警備用の軍艦ですが、・・・。この艦の艦長になったのが後のペリー提督です。彼は蒸気艦の建造に熱心で、“フルトン”II をワシントンまで回航し大統領や有力な政治家に見せて蒸気艦のPRに務めました。その努力が実って1839年に新たに2隻の大型蒸気軍艦の建造が認められました。これが “ミシシッピ” と “ミズーリ” です。・・・ペリーは蒸気軍艦の建造を熱心に推進したので、後にアメリカで「蒸気軍艦の父」と呼ばれるようになりました。
“ミシシッピ” と “ミズーリ” は排水量が共に3,220トンで、“ミシシッピ” が1841年12月、“ミズーリ” が1842年2月に完成しました。この2隻はアメリカ海軍で最初の本格的な航洋蒸気艦でした。しかし“ミズーリ”は処女航海で・・・火災が発生し焼失しました。
02 世界最初の蒸気スクリュー艦「プリンストン」は故障多発のため「ペリー来航」4年前に廃艦に;
・・・ その後1840年代には“ミシガン”(604排水トン)、“プリンストン”(1,046排水トン)、“ユニオン”(956排水トン)、“ウォーターウィッチ”(190排水トン)、“アレゲニー”(1,020排水トン)が建造されました。 “ミシガン” は1843年に完成した鉄製の外車蒸気艦ですが、五大湖の警備用に建造された艦です。“プリンストン” は1843年の完成ですが、・・・世界で最初のスクリュー艦でした。・・・“プリンストン” は故障が多く、1849年に廃艦になりました。
03 米メキシコ戦争で活躍、同戦争中に増強がきまり急きょ建造された蒸気外輪艦4隻は同戦争終結後に完成し、そのうち大型艦2隻が米海軍東インド艦隊に配属されて「ペリー来航」に参加:
・・・1846年5月に始まったアメリカとメキシコとの戦争で蒸気艦の性能が評価されて、アメリカ議会は1847年に4隻の蒸気艦の建造を承認しました。この時建造された4隻の内訳は“サスケハナ”(3,824排水トン、外車、1850年完成)、“ポーハタン”(3,865排水トン、外車、1852年完成)、“サラナック”(2,200排水トン、外車、1850年完成)、サン・ジャシント(2,200排水トン、スクリュー、1851年完成)です。“サン・ジャシント”は蒸気機関の故障が多く1854年に別の蒸気機関に換装されました。この艦もペリー艦隊に参加する予定でしたが、結局不可能になりました。
04 ペリーの日本遠征記には「ペリー艦隊」と米海軍の主力蒸気艦が時代遅れになっていたことを嘆く記述がある(記載箇所確認中):
・・・ 1840年代のアメリカ海軍は“ミシシッピ”のようなオーソドックスな設計より、一風変わった設計に肩入れする風潮があったと思われます。このため失敗作が多く、技術の進歩も停滞したのでしょう。この事実をペリーは「日本遠征日記」の中で次のように述べています。
「蒸気艦を持つ世界中のあらゆる国、あらゆる民間蒸気船会社は航洋蒸気船の改良という点については、あらゆる分野で我が海軍より進んでいるのが真実である。その事を残念ながら告白せざるを得ない。この艦(注:“ミシシッピ”)と“ミズーリ”はわが海軍に導入された最初の航洋蒸気艦であるが、一時は世界における最初の本格的な蒸気艦とまで断言された。その後我々は軍艦建造技術において進歩したというよりむしろ後退して来た」
この文から40年代の初めには世界の最先端を走っていたのにその後、技術開発の方向が横道にそれたので世界の第一線から遅れを取った状況を残念に思う気持ちがにじみ出ています。なお1850年代の後半になるとオーソドックスな設計の蒸気軍艦の建造が加速され、1850年代の末には蒸気軍艦の整備が急速に進展しました。この結果アメリカ海軍はイギリス、フランスに次いだ海軍力を誇るようになりました。
・・・外車の直径は31フィート(9.45メートル)で1分間に12回転というゆっくりしたスピードで回ります。外車の先にはフロートと呼ばれる水かき板が取り付けられていて、これが水をかいて船を動かします。蒸気機関を止めて帆だけで航走する時には、この板をそのままにしておくと水の抵抗で速力が落ちるので、これを取り外しますが、この作業は好天の時しかできません。また時間も2、3時間かかるので、・・・汽走と帆を併用して走ることが多かったようです。
なお、ペリーの「日本遠征日記」によるとイギリスの軍艦は外車の軸と蒸気機関の駆動軸の間を簡単に脱着できる装置がついており、わずか2、3分で外車を遊転させることが可能で、水かき板を取り外さなくても済むようになっていました。
以上です。思い立って取り急ぎ。「開国黒船神話」の鱗を剥がすために。
追記: 60年安保をはさむ長州史観の「開国史観」への変容について:
たまたま手もとに古書店で見つけた昭和31年(1956年)初版の『藩政改革と明治維新 ー藩体制の危機と農民分化』(關順也、有斐閣)という本があり、その「第四章 明治維新期の基礎構造」のイントロダクション(p110)は以下のように始められています。
近代日本の黎明たる明治維新の出発点を天保改革に求め、それに成功した西南雄藩が明治維新の推進力となったことは今日では常識となっている。・・・しかし、大一揆以降の藩(引用者注:長州藩を指す)権力の動揺によって農民層の分解は急速に進展し、天保改革もこれを阻止しうるものではなかった。・・・天保改革は明治維新の出発点ではあるが、其後の三十余年間の農村構造の変遷(引用者注:本百姓の没落と寄生地主の発生)と領主的対応(引用者注:有力百姓を挙藩一致体制に統合する絶対主義的施策)を抜きにして絶対主義的明治政府に結びつけては早計と言わざるを得ない。
<抜粋引用以上>
・・・と。1950年代においては、天保期に始まる農村生産力の混乱・再建の生んだ生産関係の大きな変化(小作人=農業労働者の誕生)が幕末期の始まり、つまり明治維新の始点だと一般に考えられていたわけです。幕末期に経済改革と統治の絶対主義化に成功した長薩以下西南雄藩が、それに出おくれた幕府および他藩に対して勝利を収めて倒幕維新となったと。
しかし、1960年代以降現在に至るまで、ほとんどすべての歴史研究者を含め「全国民的」に、幕末と維新の歴史的展開の中心環が「開国」とそれによる近代化、西欧化となり、「ペリー来航による外圧」が歴史展開の軸とされているやに思われます。
60年安保闘争による日米間の亀裂修復のためには日本の政財界のエスタブリッシュメントだけではなく野党・右翼活動家・左翼活動家・知識人を抱き込むこと(「異端視することなく対話を重ねる」こと)が必要であると主張し、当時就任間もないケネディ大統領の要請を受けて駐日特命全権大使として1961年に東京に赴任したエドウィン・O・ライシャワーによる、ロストウ近代化理論の導入による日本近代化論、いわば「開国近代化維新論」が、長州史観を「天保改革史観」から「開国史観に」塗り替えたものと推察します。
産経新聞の文化部にいた司馬遼太郎が作家として独立したのが1961年、ライシャワーの愛弟子マリウス・バーサス・ジャンセンの『明治維新と坂本龍馬』(1961年)の影響下に書かれたという、司馬遼太郎にとって初の幕末ものであり、坂本龍馬を国民的偶像にして彼の代表作となった『竜馬がゆく』の産経新聞夕刊連載が始まったのが、1962年6月とのことです。
☆☆☆
関さま:
と、ここまで急いて書きまして、さてどのようにまとめたものか途方に暮れ週末に再考を・・・と思っておりましたところ、6月24日の本ウェブログ記事「長州右派と長州左派の歴史観」において弊投稿を取り上げていただき恐縮いたしますとともに、誠意のこもった奥行きの深いコメントに感じ入りました。ありがとうございました。
関さんのコメントで言及いただいたハーバート・ノーマンと、ライシャワー及びジャンセンを並べてみまして感じたことを以下に記して、この屋上屋のきらいのある投稿を締めくくらせていただきます。
松岡正剛氏によるハーバート・ノーマン評を眺めて、関さんが言ってこられた、長州維新による、現在なお引き続く官僚支配に関連するやに思われる、氏の次の指摘に目を奪われました。http://1000ya.isis.ne.jp/0014.html
「たとえば明治社会については、下級武士こそが明治の中央権力を握っていく過程の分析が重要であって、そのことをとらえることが日本の現代社会における官僚指導主義の特質をとくものだとしたのだし、それがなぜ日本独特の産業資本にむすびつくことになったのかを解明することが、やはり日本の国家形成の鍵となるものだと分析した」
20世紀の終わりの90年代以降に日本の産業資本が著しく劣化し、21世紀の日本が国際金融資本をはじめとするグローバルな資本に席巻される危機に直面していることに胸をつぶされながら、悲劇的な最後ゆえに共感を揺すぶる真実味を感じさせるノーマンの明治近代化に対する視線を見ますと粛然とするものがあります。
印象以上のものではないことをお断りして述べますと、ペリー来航「開国」をキィにして日本の近代化を描いたライシャワーに対して、ノーマンは日本の社会全体の特質とその変化を見ようとしており、したがって明治新政府が開発専制というよりむしろ、民衆に対して全面的に抑圧的であり、富国強兵を旨とする国家主義・絶対主義的専制であったと認識していたように思えます。
そのような意味で、ノーマンはむしろ講座派史観に通じるところがあったと言えるのではないかと感じました。
これに対して、日本の戦後処理において天皇制を利用することを戦争終結前の早い段階で提起したとされるライシャワーが、天皇制を反動として打倒対象とした講座派に与するわけはなく、むしろ労農派史観の最強の提唱者だったと言えるのではないかと思えます。
ライシャワーの日本に対する柔軟でスマートな、まことに魅力的と言えるアプローチは賢明にも、まったく長州的ではなかったわけで。
ライシャワーの愛弟子ジャンセンが「開国」に深くリンクする坂本龍馬を発掘して、司馬遼太郎によって彼を維新近代化の国民的英雄に仕立て上げたのに対し、ノーマンが発掘したのが、未だにその時代を超える価値が広く認知されてはいない安藤昌益であったこと、これが、ノーマンとライシャワー&ジャンセンの相違を象徴しているように思われてなりません。