そうかぁ、原案となったエッセイ本とはまったく違う“藍子”というお子さんの役名は、「藍色の海に向かって歩き出す」という、今日(19日)72話の希望に満ちたクロージングのために用意されていたんですね(@『ゲゲゲの女房』)。
たとえ貧しくても、八方ふさがりでも、視界に希望をもたらさずにおかない最強の使者、それは幼子。幼子の人生の進水式が、お父ちゃんお母ちゃん共作の模型艦隊の、お父ちゃん描く紙の大海原に広がる航路で執り行われたのですから、これはもう、何が何でも“藍子”ちゃんでなければならなかったわけです。
こうなると、しげるお父ちゃん(向井理さん)の戦艦模型好きや、「目標地点」「退却」「再上陸」「被害状況」など軍隊用語を好んで日常会話に使う口癖や、幼い頃海軍士官さんに軍艦で遊ばせてもらい養子にとまで望まれた逸話はもちろん、布美枝さん(松下奈緒さん)の慌しい嫁入り前にミヤコお母さん(古手川祐子さん)がリウマチの手で縫ってくれた着物(←いまは哀れ質草)の青海波(せいがいは)模様まで、“海(航海)”と“生”の大いなる暗喩だったようにも思えてきます。
歴代の“藍子ちゃん子役”さんの中でも、今日の初あんよ藍子ちゃんは表情も、歩き方演技(か?)も出色でした。よくあれだけ愛くるしい顔の子を見つけてキャスティングしたものだし、照明さんカメラさん音声さん、大人がずらり環視するスタジオの中であの頑是ない表情、挙措をよく引き出せたものです。
布美枝さんの「お父ちゃん、ほら、歩いてる」の声に、右腕を差し出して愛娘を見守り、くいっと抱き寄せるときのしげるさんの表情も飛びきりでした。父親が幼い娘に向ける視線を演じたと言うより、ほとんど向井理さんの素に近かった。たぶんリアル水木しげるさんでも、ここまで飛びきりな笑顔でお子さんを構ったことはないのではないかと思うほど。収録現場でも子役さんあやしが上手で、母親役の松下さんもジェラシー感じてしまうという向井さん、まさに“動物、子供、向井”といった趣きですな。
「映画の…あの、看板描きにでもなるか」「もうやめるか、漫画」と風邪の布美枝に切り出したしげるは、きっと布美枝のクチから「やめないで」と止めてほしかったのです。布美枝が化粧品訪問販売の仕事を考えて、帰途「外で働いた経験がない、内気で口下手、やはり私には無理」と思いなおし、止めてほしくてしげるに「あの、ロザンヌクリームって…」と言い出したものの意を尽くせなかったときと、状況が似ています。
「漫画の紙やら本やら、紙ならようけ家の中にあるのに、鼻紙がないとは」これ如何に、と冗談のめしたものの、自分が人生のほとんどすべてをかけて注力している漫画というものが、支えてくれる妻を少しも幸せにしてあげられない、助けになってやれないという現実は、悪魔くんの打ち切りや稿料の遅れ以上にしげるを気落ちさせたはずです。
それでも心のどこかで「そんなこと言わないで、お父ちゃんが大事に思う仕事なら、続けて下さい」と言ってほしい。逆に、「そげですね」と食いつかれ、「もっと収入のある仕事にかわってもらえんと、もう辛抱できんです」と言われたらどうしようと思うから、「……看板描きの口ぐらいならあるだろう」まで一気に言って、速攻「早こと(蜜柑の缶詰)食って寝ろ、寝るのが一番の薬だ」とシャッターを下ろしたのです。
つまり、この弱音は、本気の商売替えプランではなく、しげるの甘えフェイントなんですね。やめるかやめないか、判断を求めているのではなく、判断は自分でもうついている。鼻紙も買えないほどの貧乏しても、漫画を描く以外の人生は自分にはない。その判断を受け容れてほしいだけなのです。これは苦労を分かち合った夫婦にだけ許される美しい甘えです。
互いのことを何も知らない見合いからはじまった結婚生活。世間の荒波、貧乏の寒風、人情のありがたみ、赤ちゃんがくれた幸せ、数々揉まれ味わった約3年の日々で、布美枝はしげるの“たったひとり甘えられる、甘えたい人”にやっとなれたのです。
そして期待通り、布美枝は甘えさせてあげるのですね。夫が模型に夢中なときは、本当は苦しい時と、もう理解している。「夢中になって作っとると、だんだん気持ちが晴れてくる、お父ちゃんの言った通りですね」とその性向をまず肯定してやり、「お父ちゃんは強い人ですけん」と称揚して、甘えを言ったことを咎めない。もう弱音はダメよとダメを出さない。“いままで腕一本でも強かったアナタに、ワタシと合わせて腕三本なら、腕一本で乗り切れなかった事でも乗り切れますよ”と、夫を持ち上げながらしっかり“ワタシという存在も無くてはならないものなのよ”をアピール。右も左もわからなかった新米女房の布美枝が、言葉も根性も、これだけの高スペックに成長したのです。
全26週のドラマの、今週が第12週。中盤前半の締めと言ってもいいでしょう。
「気をつけんと、鼻に漫画がうつし絵になるぞ」「鼻水が出とるぞ」とブラフかけて布美枝に慌てて鼻に手をやらせるのは、少年戦記の会ガリ版刷りの「立派なヒゲが生えとるぞ」以来。しげるさんは、ちょっこし顔長めの布美枝さんが鼻に手をやる仕草がことのほか好きなのね。フロイト流の深層心理学者ならここぞとばかりに解説垂れそうですが、しげるがクライマックス執筆中や模型にピピッと来たときの鼻回りクシュクシュッ同様、なんか、愛嬌ありますもんね。