大相撲八百長メール問題の報道が着火して2日めぐらいに、『ワイド!スクランブル』がこの話題コーナー限定のゲストコメンテーターとして、あの、名大関だった親方(故人)の、元夫人を出してきたのにはちょっと驚きました。大相撲人気、“お相撲さんの世界のイメージ”の、長期低落傾向の、言わば先鞭を付けた張本人のおひとりなのに。
息子ふたりを横綱に育てた功績は認められてもいいですけど。でもあの2人は、この人が育てた部分で横綱になったわけでもないような気もするし。
…それはともかく、各媒体、各番組、コメントを誰に求めていいか悩むところだろうなとは思います。当然のことながら大相撲観戦歴、取材歴の長い人、大相撲界の歴史や実態に精通した人を招びたいが、自分たち(=媒体自身)が胸に手を当ててみればわかる通り、精通した人、“大相撲汁(じる)”の滲み込みの深い人ほど、“うっかりしたことは言えない”立場になる。
マスコミで、多少なりとも大相撲の取材報道に携わり、現役力士や親方衆、力士OBたちとの交流を持った人なら、今回の問題露見を聞いて、幾許かは「やっぱりな」の思いがあるはずです(“幾許”が1パーセントか、10パーセントか、50パーか90パーかはそれぞれでしょうが)。
「事前打ち合わせによる勝ち星の貸し借りなんて、よもやそんなこと夢にも考えたことがなかった」という相撲記者や相撲レポーターがいたとしたら、よほど脳内がおめでたいか、さもなきゃ、仕事していないのです。
6日朝の『サンデージャポン』を音声だけ聴いていたら、「大相撲を(ガチンコ前提の)スポーツと考えていいものかどうか。スポーツというより、日本の伝統文化として、続いていけばいいんじゃないですか」と、やけに突っ放したコメントをする人がいて、誰かと思ったら、米作り等でちょっと知られた女性タレントの元旦那さんで、昨年暮れ、クイズ番組によく出る別の女性タレントと不倫していたと、元奥さんに暴露された、戦争ジャーナリストとかいう人でした(…伝わってるのか)。
大相撲にさしたる関心がなく、従って知識もうわっつらだけしかない人ほど、こういう身もフタもない、逆に言えば合理的な論評ができる。
知識はあまりないが、“自分は大相撲大好きだと自任している”人、或いは“大相撲好きをタレントとしての売りにしている”人は、反対に、「許せない」「裏切られた」「ウミを出して早く再開を」を熱くなって強調しますね。
やはり媒体の中でも相撲と付き合いの長い向きは、「許せない」「裏切られた」を貫き通すのには忸怩たる思い(つまりは“共犯”だった後ろめたさ)があるようで、今日(8日)の『ひるおび!』辺りは引き続き杉山邦博さんをコメンテーター兼解説者に迎えて、「奈良時代から発祥した大相撲の長い歴史上、西洋のスポーツ同様のガチ前提になったのは明治も深くなってから」「対戦相手や、相手と同部屋の他力士に気をつかって手加減する“人情相撲”は昔からあった」→「であるからして、今回の一件、“人情”ではなく“金銭”で星のやりとりしているから許せないのだ(≒“人情”なら許せないこともない)」という地合いに、微妙に塗りかわってきています。
放駒理事長は「過去一度も“アリ”だったことはない」をあくまで主張、「時間がかかるが膿を出し切る」と断言しておられますが、相撲協会側が何をもって“膿”とし、それをどこまでどうやったら“出し切った”ことになると考えているのかは、この際あまり問題ではないと月河は思います。“八百長”という無双の用語が解禁になってしまったここへ来て、親方衆や役員がたに携帯の没収や削除メールの解析してもらったところで、誰の何の溜飲もさがらない。
要は、観る側が“相撲に何を期待するか”に尽きる。どんな相撲なら楽しいのか、相撲というものがどんなだったらならおカネを払っても観たいと思うのか。どこまで行っても観る側が主語なのです。
「ガチンコ真っ向勝負以外絶対ダメ」という観客が大半なら、万にひとつもガチでない一番が出ないように、内部の規律や監視監督を厳格にし、ガチでない取組はいっさいありませんよと、絶えず証明して見せなければならない。「客観的に観戦していて、八百長や手心がまったくないかどうかを見極めるのは難しい、正確なところは、結局当事者同士しかわからない」と手練れの記者も言っていますから、かなり難儀でしょうが、“ガチでなきゃ”こそが求められているなら、やるしかありません。
「もともと神事なんだし、相手がケガ持ちなら悪化しないようにとか、番付的に生活が成り立つようにみたいな、金品をからませない善意の手加減は、見苦しくない程度にちょっとあってもいいかな」「ある意味、心温まるかな」という寛大な向きが大勢を占めるなら、微妙ですが“お相撲さんは清廉で心やさしいヤツばっかり”を大々的にアピールすればいいか。これなら簡単なようだけれど、星ひとつで十両か幕下か、月給100万余かゼロかの分かれ道なら、結果的に金銭やりとりしてるのと変わらないじゃないかということになるし、そんな“ちょっとはアリ”の中で何十何連勝とか、幕内在位連続何十場所とか記録して賞賛する意味はどこにあるんだとの疑問符もつく。
結局、“アリ/ナシ”の虚構…と言って悪ければ約束事に、観る側がどれだけ付き合ってくれる気があるか、それを協会側=相撲を見せ提供する側が、どれだけ過不足なく読み取り掬い取れるかの問題だという気がする。
“八百長”という最強のワードは、いままでの、観る側・見せる側の暗黙の納得ずく地合いを、いっぺんにリセットしてしまいました。前の記事でも書いた通り、最近の日本人は“スマートに騙される”“嘘に付き合うことを楽しむ”において思いのほか不器用で野暮天です。“居心地の良い虚構”をゼロから織りなおし構築し直すのは、携帯データ解析などよりはるかに難題で、時間がかかりそうです。
“付き合って楽しい嘘”……そうか、『サンジャポ』にアノ戦争ジャーナリスト氏が出ていたのはそれか。不倫していたというクイズ強の女性タレントさんから「優しい嘘だったカモ」みたいなこと言われてましたもんね。