消しゴム版画家でTV番組コラムニストの故・ナンシー関さんが、90年代後半から2000年頃にかけて或る雑誌で『記憶スケッチアカデミー』という連載企画をされていました。
シロウトの読者一般に毎回、たとえば“カエル”“ウルトラマン”“ギター”等のお題を出し、読者は実物や写真などの“お手本”をいっさい見ないで、「カエルといえばこんな輪郭で、こんな特徴があったはず」という自身の“記憶”だけに基づいてハガキに描き投稿する、次回は関さんがその応募作品のかずかずを見て、ユニーク作珍作怪作を採り上げて講評する、という内容。
まぁシロウトの絵ごころを実作実況公開して見世物にする企画はそれこそテレビ番組でも昔から幾つもあったと思います。この名物連載はのちに単行本化され、02年に関さんが惜しくも急逝されてから文庫化もされていますから詳述はしません。今般印象深く思い出したのは、“サル”“ラクダ”“牛”等の動物お題が出ると、動物の顔の眼の上に明らかに“眉毛”と見える物を描き込んでしまい、結果、全体的にサルならサル感、牛ならウシ感がきわめて稀薄になった作品の比率が毎度異常に高く、嘆いた関アカデミー理事長が「繰り返す!動物の顔に眉毛を描くな―!」と全体講評で再三お叱りを発していたことです。
・・・さて、改めて、このほど月河のデスク横に定着した“バッドばつ丸”くんを、ホクホクむにむにしつつ全身しげしげと眺めて思うのは「キミ、ペンギンじゃないだろ」。
つかどこがペンギン?確かに、ナンシー関理事長を慨嘆させるようなシロウト描きの眉毛は、さすがにありません。トレードマークの黄色いへの字クチバシと同じく黄色い足はリアルペンギンに近いし、ツンツンヘアーも野生環境の中でときどき出来する“外ハネクセ毛”て言うか羽毛、のデフォルメだと思えば思えなくもない。
しかし、あとは頭部と背中が真っ黒でお腹から足元にかけてだけが白い、燕尾服風の染め分けぐらいしか“ペンギン要素”は無い。
何よりキミ、胴がくびれ過ぎだ胴が。腕っぽい黒いみじかい翼が生えている所と、見れば見るほどまるっこくて鳥類離れした頭部との境目が、キュッとなり過ぎている。いないわこんな人間っぽいペンギン。
人間。そう、結局、キャラクターをひねり出して愛でる心の本質は、人間が好きなのだと思います。ナンシー関さんも、投稿作品の動物眉毛率の高さから、人間の視覚的記憶力の法則を“人間化”と結論付け、続いての進化(?)を“和モノ化”→“知人の輪化”、ひいては“自分化”と体系づけています。この連載の特別企画で常連投稿者さんのお宅を訪問し対面インタビューしたら、作品の動物の面影と、ご自身の風貌が酷似していたという写真付き(←雑誌掲載です。いい時代だった)記事もあります。
人間は人間が好きだし、就中自分が好きなのです。馴染みのない、記憶の定かでない動物にも、宇宙のどこにもいない架空の生き物にも、人間を投影し、人間の中でもいちばん付き合いの長い愛着の深い“自分”に寄せてイメージを構成し、定着しようとする。
でも、キャラクターですから、人間ではない。ここは彼ら、ばつ丸もハンギョドンもぐでたまもKIRIMIちゃんも、もちろん歯ぐるまんすたいる(以下略)・・・も譲れないし、譲ってもらったらこっちも困る。人間に対してだったら当然のように遠慮も礼儀も義理も必要ですが、人間じゃないからね、こーやってこうやって、揉んだりむにむにしたりむぎゅむぎゅしたりふにょふにょしたり、好きなだけイジれるし、好き勝手話しかけたり、放置したりもできる。
でも楽しいことに、目つきクチつき風貌や風采は限りなく人間っぽいのです。なんなら人間が着る様なTシャツやパンツ(←ぐでたま「殻だし~」)も身に着けて、歯ぐるまんに至っては歯の主と一緒に満員電車に乗って会社でプレゼンとかもして、「ボクも、オレも、ワタシも人間になりたいよ~」みたいな気配も垣間見せてくれたりする。容姿も表情も雰囲気も“人間寄り”だからこそ、愛でたいと思う気持ちも、購入したいという意欲も湧いてくる。おカネを稼いでくれる“商品”として成立するのです。
人間が、(実在のペンギンや卵黄や生鮭の切り身よりも)人間が好きだという心理を商品化したシステム。それこそが“キャラクター”と言えるのではないでしょうか。よっし、きれいに決まった。