今般の新コロナウイルス騒動がいずれめでたく鎮圧され日常が戻って、五年十年経ったら、日本国民の心に最も深く刻印されるのは「とにかくマスクが無かった」ことではないでしょうか。
たかがマスク、されどマスク。月河家のように、寒冷地で高齢者と同居する、マスク必要度・親和度の高い生活を長年送っている世帯から、インフルだウイルスだヒマツ感染だというフレーズを小耳にはさんで俄かにマスクコンシャスになった大方の人々まで、こんなに高体温にマスクを思い、マスクに恋い焦がれて過ごした日々は未だかつて無かったし、この先もたぶん訪れないでしょう。
あれだけどこにでも野放図に置かれて、四季を通じて売られまくっていたマスク、本当にいったいどこに行ってしまったんでしょうね。当地では、1月下旬までは、ドラッグストアでも百均でも普通に函で積まれていました。
渡航禁止された問題の一地域以外からの、いつもながらの中国人訪日客が、カートに一杯お土産のように買って帰国する姿もテレビで報じられていましたし、どこぞの偉い人があちらに防護服等の医療用品とともにふんだんに寄贈したなんて話題も手柄がましく伝えられて軽く炎上したり、要するに「日本の店頭からマスクっちゅうものがきれいさっぱり姿を消す」なんて事態は、誰も予想だにしていなかった。
いままで国内流通していたマスクが大半、原材料の不織布やゴムひもからして中国製で、中国からの輸入を断ったら速攻不足すると言うのはわかるんですけど、国産に切り替えて大増産する旨、菅官房長官が2月前半からずーーーーーっとアナウンスし続けているのに、いったいどこに消えているのか。
ドラッグストアなど一般向けより医療機関向けを優先して製造しているから、我々末端まではなかなか行きわたらないんだと言われればそれなりに納得ですが、それにしてはですよ、なんかさ、各地の医療機関、看護師さん保健士さん医療スタッフのほうが、マスク不足深刻らしいじゃないですか。
これ、やはりおかしいですよ。月河をはじめ全員、我々シロウト一般人の日常向けマスクと、医療機関・保健施設でお仕事するプロのためのマスクは、メーカーも製造ラインも品質基準も、もちろん流通ルートも別で、もしもの時には一方をもう一方に集中させて枯渇払底を防ぎ国民の衛生安全を守る仕組みになっているぐらいに思っていました。
日々の通勤や営業時に飛沫飛ばしのウイルス運搬車になりたくない一般人も、運悪く感染疑いとなった患者さんの診断加療に全力集中したいプロも、枕を並べて「マスクがな~い!」となるなんて、どっか間違ってるだろう、根本的に。
月河家に限って言えば、幸運なことに今季、家族が使いたい数量が入手できずに焦る事態にはなっていません。月河本人はこんな歴史的異常事態にならずとも、毎年、10月中下旬~11月上旬の季節性インフル予防接種時期をスタートの合図と考え、マスクをはじめ使い捨てカイロ、磁気治療器替えシールなどの防寒対策消耗品を少しずつ、家族の体調や積雪の状況を見つつ備蓄します。これは雪深く交通の便の悪い長い冬期間を過ごすための、当地住民の平時の知恵にすぎません。
プラス、より外回り仕事の多い非高齢組は出先でそれなりに調達しては余分めに買って持ち帰ることがありますから、これだけで、正月前の時点でヴォリューム的には準備完了していました。
で、二月後半、ドラッグストアのみならず総合スーパーでもコンビニでもマスクの棚だけ空っぽと言う状況が続くようになって、家族で“マスクの棚卸”をしてみたら、全員の感想「来季分まであるねコレ」。
・・確かに。塵も積もればチョモランマ・・とまではいかないけど、まぁ、近い所で、雌阿寒岳くらいは備蓄できてるか。こちらも一時品薄で世間を騒がせたトイレットペーパー(←アレもやりきれない話でした)と違って、さほどかさばらず持ち帰れることもあって、目につくと買い、「あ、コレ前に買ったヤツより目が細かそう」「ワイヤーが二本入って安定感ありそう」「前は普通サイズだけ買ったから小さめサイズも買っとこう」・・こんなことを何回か続けると結構な物量になるもんです。考えて見れば前の前のシーズンに買い置きしたのも、ぜんぶ使い切ったわけじゃなく若干持ち越してるし。
で、月河がふと「・・これだけあったら、足りなくて困ってそうなトコにひと箱ぐらい譲ってもよくない?」・・筋向かいには無認可保育所があり、まだ一列に並んでお散歩ができない小さいお子さんを6人ぐらいずつ手押しカートに乗せて緑地帯を連れ歩く保育士さんたちの姿を、午前中何度か見かけたことがあります。もうちょっと先にはYクルトステーションもあるし、どちらも潤沢に支給されてる感じではありません。ひと箱ぐらい焼け石に水かもしれないけど、1枚でも2枚でも多いにこした事はないはずです。
そこへ「チョット待った」と、高齢者その2。この人は、今般に限らず“余った”モノを“人にくれてやる”事についていつも抑制的です。“意識的”と言ってもいいかもしれない。所謂“ケチ”とは違う。月河のように、その場で思いついた人にあげる、何人か思いついたら機械的に人数分に等分してあげる、なんて幼稚なことをしない。あげるにせよ、あげないにせよ、或いは誰と誰と誰にあげるにせよ、裏付け、根拠が無い事がないのです。
彼女の言うには、
「今シーズンの普通の流行だけだったら余裕だけど、この“ころな”ってのは今シーズンだけで、暖かくなったら終わり、では済まない。勘だけど」
「夏を越して、また寒くなる頃、ヘタしたら年が明けても続いてるかもしれない」
「いままで無かったことが起きてるんだから、終わり方もいままでのようにはいかないはず」
「そうなったときに“あのとき譲ってあげたひと箱が手元にいまあったら・・”って後悔しても遅い」
「モノってものは何でも、いったん無くなってゼロになったら、ちょっとやそっとで元に戻らないからね」
・・・“勘だけど”。これが怖いですね。ヨワイを重ねた人、昭和の光と影を知り尽くした人の言う事は不気味な重みがあります。確かに、思いつきで、頼まれてもいない、知人もいない先に“困ってそうだから”という思い込みであげて減らしてしまうより、長期籠城戦に備えて黙って備蓄しておくのが賢明かもしれない。
当地も悲しい事に着々と感染拡大中、緊急宣言下なので、そのうち噂の“アベノマスク”も二枚、届くことでしょう。
でもたったの二枚って、ねぇ?と月河が言ったら、今度は非高齢家族が「いや、郵便で来るんだから、開封して“当たり”が出たらもう一枚くれるかもしれない」・・
・・うまい棒かと。どこにその“当たり”を持って行くんだ。