『仮面ライダーディケイド』第1話(25日8:00~)、『キバ』終了後の今年のライダーは例年のようにまる1年、約50話ではなく30話で終了らしいという話だけは聞いていたので、期待より「予算不足見え見えのショボ作まる出しだったらどうしよう」と心配が先行しつつ録画視聴。ま、第1話は例年通りのパイロット版ということもあり、ショボ感はまったくなかったですね。いろんな意味でむしろ豪華でした。
何と言ってもアバンタイトル“夏ミカン”こと夏海(森カンナさん)の悪夢の中の、平成ライダー全員入り乱れての大戦場面は、ライダーファン、ウォッチャー、朝から全国で大興奮だったのではないでしょうか。月河は何と言っても「ファイナルベント。」の声(@『龍騎』)が久方ぶりに放送で聴けたことにエキサイトしましたよ。02~03年、残業時、コンビニで夜食調達担当の仲間と、何回コレ言いあったことか「ファイナル弁当。」
殺し合いの果てすべてのライダーが倒れた場面で、『555』のライオトルーパーもちゃんと横たわっていたのも、庶民的っつかなんつうか、とにかく手抜かりない感じで嬉しかった。『アギト』以降、一作に3体以上のライダーが参戦するのは当たり前になっているし、中にはあまりおいしい見せ場がないまま退場したヤツもいましたが、『ディケイド』ではそんなマイナーライダーもまめに掬い取ってくれるのではないかと、かなり期待がふくらみました。
9つのライダー世界の存在と融合について士(つかさ。井上正大さん)に説明し、バトルへと促す神崎士郎みたいな役回りに『キバ』の渡(瀬戸康史さん)はちょっとカンロクというか、神秘性が足りなかったかな。井上さんの士と向き合うと、どうも渡のほうが年下でイノセントで、士のほうが訳知りオレ様に見えるんですよね。
これは、直近ライダーだった義理で、渡にとっては残業みたいなものだから仕方がないか。
歴代ライダーのスーツがしっかり生き残っていた(改修もしくは新調に近いものもあるか?)ことも感激ですが、約30週ちょっと、ざっと9月頃までこれらおなじみライダーで商売すんのかと思うと、若干ズルい気も。誰しも、既作9作の中で“ご贔屓ライダー”が必ずいるはずで、ソイツがいつ出るか、どんな扱いか見せ場はあるか、絶対見逃したくないから、出ないうちから網張っておくじゃないですか。視聴率上がらないわけがない。
月河なんか、「『アギト』のG3とアナザーと、『龍騎』のライアと王蛇とタイガとインペラーと、『555』はライダーより、ホースオルフェノクとスネークとゴートと…」と、“必須科目”いまから数え上げてる始末。「『カブト』はカブトとガタックと、頭にウニョッとついてるヤツと(サソードだサソード)、正面顔がトンボのヤツと、首から上が金平糖みたいな兄弟と…結局全部か」
フィギュアや玩具も、すべてではないけれど一部はリバイバル発売されたり、既発ヴァージョンにプレミアがついたりするかも。シロウトが考えてもビジネスチャンスの山また山。テンション上がらずにはいられませんぞ。
キャラクターもさることながら、変身前の俳優さんのほうに、より前がかりだった向きは、あの作の世界にはアノ人が出そうだ、アノ人は無理そうだ等、予測と期待綯い交ぜでもう大変なことになっているに違いありません。
10年以上昔ですが、ある運命学研究家の話を聞く機会がありました。易占の類いはどっちかというとスルーしている月河ですが、話として印象的だったのでいまだに覚えているのです。
曰く、人間には“初代運”、“二代目運”、“末代運”と、3種類の運の持ち主がいるそうな(「二代目の次がいきなり末代かい!」と、聞いた当初は思いましたが、“売り家と唐様で書く三代目”というくらいですから、マクロに見れば三代目=末代なのかも)。
初代運の人とは、所謂創業者、パイオニア。裸一貫から事業を立ち上げたり、中近世、戦国時代なら荒地を一国にまとめ上げ城を築いたりする人。当然生まれは貧しく、子供時代は物質的にも恵まれず、高等教育にも縁がなく低学歴のままの人も多いけれど、補って余りあるカリスマ性と先見力があり、年長者からは変わり者ウツケ者と白眼視されたり叩かれたりもしがちですが、誰も注目しない商材やビジネスチャンスを見出して「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」式に業界の開拓者となります。リスクも逆風もこの運の人たちには栄養であり、心地よい刺激。繁殖力も旺盛で多くの子宝も授かり、「オレに比べてデキが悪い」「言うことを聞かない」など悩むのもまた楽しみのうち。
戦国武将や、幕末維新など時代の変わり目に多く表舞台に登場し、平和になってから子供や少年たちに「尊敬する歴史上の人物は?」と質問すると、名前の挙がるのはたいていこの初代運の人々です。
二代目運の人は、生まれ育ちは初代運の人より恵まれています。生まれたときすでに平和で裕福で、高等教育も受けられ、親に力がありますから周囲の人たちもお坊ちゃん、お嬢さん扱い。ただ長じてからはお父さん、お母さんとどうしても比較され、ひ弱とかウツワが小さいとか言われて悔しい思いや窮屈な思いをすることも多い。財産や事業、家名を損なわず、無傷で守って「当たり前」。特に青少年期は、オレの、ワタシのやりたいことは親の真似ッこじゃない!と反旗を翻したくなり、現実に翻してしまう人もいますが、“いまだかつて誰も考えた、実行したことのない”オリジナルなことをやるには資質が適さず、先人のやったことをしっかり習得してきっちり踏襲し、洗練を加える才能のほうにはるかに恵まれているのがこの運の人。
事業も会社も、芸術芸能などの或るジャンルや一門も、初代運の人の後、“良き二代目運”の人が何人か続けば繁栄するのですが、二代目運の人の最大のリスクは、初代運の人に過剰に憧れ、あるいはコンプレックスを抱き過ぎて、「何でもいいから開拓創業的なことをやってみたがる、オレがコレを始めたと名や物を残したがる」ということ。この性向さえ封印すれば天運を全うし、初代以上にリスペクトもされます。
さて末代運の人は、生まれたときには二代目運の人以上に裕福で恵まれています。気がつけば生まれながらにして頂点、若くして出世し部下を持つなど人の上に立たされることが多い。が、長じるにつれあたりを見回すと状況が厳しくなっている。あんなに繁栄していた会社も国も一門一族も、気がつけば何やら旗色があやしいし、一歩外に出れば世情はもっと混乱している。
蓄積し爛熟した先人の遺産をそっくり受け継ぐ末代運の使命は“有終の美”。受け継いだすべてのものを、ある分野ではきれいに遣い切り、ある分野では目下の者に分け与える。回顧録や家系図など、言語、文章表現によって後世にノウハウを伝承する才能に最も長けているのもこの運の人たちです。自分ひとり遺産を抱え込んで勝ち逃げしようとしたり、初代運の真似をして新しいことを興そうとしたりせず、世のため人のために尽くし、無策の策を貫いて静かに完全燃焼する精神さえ持てばよく、この人が天寿を全うした後から、まったく新しいものが生まれ育つようにもなる。
2009年の『ディケイド』はまさに“末代運”の仮面ライダーという気がします。2000年、元祖仮面ライダー1号世代のお父さんたちと現役チビっ子、両方を楽しませるべく『クウガ』からスタートした平成ライダーシリーズ。当時のチビっ子たちはもう高校生、大学生になっているでしょうし、1号を知って平成に入ってきたお父さんたちは、ヘタしたらリストラ世代。オダギリジョーくんカッコいいわ、葛山信吾さんステキだわと胸ときめかせていたママさんたちのほうがいまは元気かも。
ファンの裾野は広がり、ブランドも確立し、先代たちの築いた遺産は山のようにある。蕩尽はせず、無駄にはせず、しかしディケイド、テメエひとりがカッコよくもてはやされることにこだわらないで、“平成ライダー”第一期の有終を飾ってほしい。「『ディケイド』は名作だったね」と言われるより、「『ディケイド』のおかげで平成ライダーの先行作ぜんぶDVDで見たくなったよ」と言われるような、そういう作品になればジャストミート大成功だと思います。
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