『ゲゲゲ』の水木しげるさん以外の役で演技をしている向井理さんもちょっこし見てみたいなと思って、14日放送の終戦記念SPドラマ『歸國』を録画視聴してみました。
……それにしても出しにくい漢字だこと“歸”。思い出せないくらい久しぶりに、IMEパッドの手書きモードを使ってやっと捜し出しましたよ。
群像役のひとりである向井さん単体でどうこうというより、「(脚本)倉本聰さんも年老いたなあ」という印象で塗り潰された2時間余でした。
大戦末期に沖縄で戦死した旧日本軍将校、兵士たちが、死んだときの年齢、姿、意識のままで65年後の日本に帰還して来る。この手の“時間もの”“タイムパラドックスもの”の場合、過去で時間の止まった側(このドラマでは英霊たち)が、現在から未来に向かい進行中の時制の世界に干渉するかしないかという葛藤が最大の眼目で、ここをどう料理し、ひねりを加え、どう盛りつけるか次第で作品の出来映え読後感が決定すると言っていい。
75歳倉本さん、どうもこういうSF仕立てが根本的に苦手のようなのです。不得意感、勝手の違うアウェイ感が随所に漂っている。ツジツマがまるで合わないというわけではないが、こういう仕立てを取ったことによってドラマの緊密度が高まり感動が増したという感じがしない。
普通に65年後日本の現景から入って、切り替わって出征兵士たちの出征前の夢や日常を描き、「この人生きて帰れたのだろうか」「この人は戦死しそうだけれど、こっちの人には是非生還して夢をかなえてほしいなあ」「この人は戦死したほうが本望かも」等と観客にさまざま思わせて、ラストで“答え合わせ”を提示したほうが哀切感が高まったのではないでしょうか。
さまざまな出自やさまざまな人生、さまざまな希望を背負った男たち、青年たちが、有無を言わさぬひとつの運命に蹂躙されていった。これだけで、じゅうぶん戦争の痛ましさは伝わるのに、それぞれの“生きてあれば”の思いを、ジャック・フイニイ風の時間SF仕立てにしてしまったために、かえってひねりの稚拙さ、中途半端さが目立つ結果になった。わずか2年前の『風のガーデン』は、倉本さんと近似年代の、ウチの高齢組が涙ぐんで視聴していましたから、やはり得意とする“淡々、切々、自然描写たっぷり”で勝負すべきだった。
そして何より「日本よ栄えてくれ、妻子や子孫らよ幸せになってくれと願ってみずからの命を犠牲にした英霊たちが、もし目撃すること叶わば“こんな国になってほしくて命を捧げたわけではないのに”と嘆くような国に、いまの日本はなっている、申し訳ない恥ずかしい」という、ドラマの底流をなす思想が、観客サイドから言わせてもらえば「聞き飽きた」。
バブルはじけデフレに沈みリーマンショックにボコられ放題になるずっと前、ジャパンアズナンバーワンを謳歌していた頃でも、終戦追悼記念番組ともなれば「物質的な豊かさ、科学技術の進歩にどっぷりひたって享楽三昧、カネカネに追われるいまの日本はいかがなものか」とさんざん自虐調だったものです。戦中の視点、戦死を余儀なくされた者の視点から俯瞰すれば、現代の、進行形のわが国は大いに反省しなければ、英霊さまたちに申し訳が立たない…という思考は、もうさんざん手垢がつき過ぎなのです。
一時代を築いた脚本家倉本さんが、2010年の夏に敢えてこのテーマに取り組むなら、これ式の思考から一歩も二歩も進んで興がらせてくれなければ、わざわざ出ばってきた、担ぎ出されてきた意味がない。大切な人へのたよりも検閲でままならなかった若者たちは、ケータイや動画写メールに「嘆かわしい」よりまず歓声をあげるはずです。音楽家を志していた若手将校なら自作の楽曲演奏で武道館を喝采で満たし、地方の子供たちにもダウンロードで共有してもらえる喜びを。画学生上がりの少尉ならまずは当代の美人モデルたちを集め思うさまエロく描いて「服を着ているほうが色気があったなあ、なぜだろう」と首をかしげさせてみる。
深刻なテーマ、のっぴきならない、重苦しいテーマこそ、まずはふざけて描いてみる。まずはお茶らけさせてみる。ふざけてふざけてふざけ倒した果てにこそ、のっぴきならなさ、深刻さは透かし見え、鮮やかになり、核心を射抜けるはずなのです。キャリア半世紀に及ぶ倉本さんともあろう人が、ドラマ作りのこんな初歩の初歩を踏み忘れるはずはない。
前述の、時間ものSF仕立てのコントロール難渋っぷりとともに、やはり倉本さんがTV脚本界のトップランナーであった時代は終わったのだなと思わざるを得ません。
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