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イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

変身…できない

2007-05-16 00:45:54 | アニメ・コミック・ゲーム

週刊新潮の写真コラムなどで知られるエッセイスト故・山本夏彦さんが、「言葉の選択に迷ったとき、古くからある言葉と昨日今日流行り出した言葉とだったら、私は必ず古くからあるほうを選ぶ。先人の時代から使われ読まれ親しまれて、時代の変遷に耐え生き残ってきた言葉のほうが力があるから」という意味のことを書いておられたことがあります。「生き残れずにすたれた言葉も、ときどき思いつきで復活させてみる」と付け加えていたことも。

「文に新しさを出そうとして、その時の流行りの語彙や言い回しを使うと、そこから文は古びる」という言もあったと思います。

月河は、ファッションや食べ物はともかく、読み物や言葉に関しては目新しいもの浮わっついたもの基本的には大好きなのですが、ときどき山本さんの、これら一連のフレーズを思い出すことがある。

いまいちばん切実な例をひとつ挙げると“萌え(る)”という言葉、耳にしたり活字で見かけたりし始めてからかれこれ10年近くになりますが、いまだに月河、この言葉を消化しきれずにいます。

他人が書いた文章の中にあれば、“大体こういうことを指しているんだろうな”と意味をとらえることはできる。しかし、自分で似たような意味合いのことを書く段になると、「ここは“萌え(る)”がピッタリだ」と思う場面がまず無いのです。

月河がいちばんコミック、アニメなど二次元世界に親しかった昭和40年代にはまだ成立していなかった概念、言葉だからかもしれません。

ある作中人物やキャラクターなり、複数のキャラクター同士の関係性なり、それを演じている役者さんなり、彼らの声やルックスなりに甘く危うく心揺らめくものを感じたとき、「惚れた」「ときめいた」ではいけないんでしょうか。「目がハートになる」とか。

やっぱり「萌える」でなければならないのかな。

生身の俳優やアーティストやアイドル、特に異性のそれに「ときめく」ときには、かすかにでも必ず「彼氏(彼女)にしてデートしてみたい」「同性の友人に見せつけて嫉妬させたい」「ハグ、キス…(以下略)その他親密な行為をしたい」…など、“彼(彼女)と接点を持つことで、自分のいま現在の生活を華々しく心湧き立つものに変えたい”という願望がひそんでいるものです。フィクションのキャラでも同様で、「○○のファンになっちゃった」と思いクチにするときには、たとえモンスターや無生物キャラであっても擬人化して「彼氏だったら」「夫だったら」の地平に翻訳して引き下ろす思想が一抹混じっています。

そこで月河は“萌え”=「“ときめき”から自分の実生活に結びつく要素を全排除した感情」ととらえることにして、“純粋鑑賞”モノを要さないフェチ(<フェティシズム)”などと言い換えることがあるのですが、違うかな。

たとえば、例がわかりやすいかわかりにくいかわかりませんが(ってこの時点ですでにわかりにくいが)、昨年の月河のメガヒットドラマ『美しい罠』で、沢木槐役を演じた高杉瑞穂さんにときめいた、というのは普通に“ファン”でしょう。以前の出演作を求めてネット検索しDVDやビデオを観て、「全然違う役を演じてもカッコいいし演技うまいわ」とさらにファン体温が高まっていく。「ナマで見たい」「イベントに参加して握手や記念撮影をしたい」「こっちを向いて声をかけてほしい」…こういう感情は“萌え”ではないと思います。

一方、高杉さんが他の作品でどんな役に扮していたかにはまったく関心がなく、ひたすら“沢木槐”という複雑な心理模様を持つキャラにはまるという角度の惚れ方もあり、こちらは若干“萌え”度が高い。

その中でも「類子になって槐の関心や視線を浴びてみたい」「類子でも澪でもない第三の女になって、槐を引っ叩いて諌め真っ当な人間に変えたい」あるいは「自分が槐になって素直に類子に真情を吐露したい」などと、自分と槐の生息空間を接続した空想をするのはあまり“萌え”でないような気がします。

槐に対する関心の寄せ方でもっとも“萌え”に近いのは、「類子や澪やその他あらゆる登場人物に向かう槐の感情すべてを忖度し逐一見守る」、そこから転じて「物語に描かれていない架空の状況(たとえば江戸時代、現代の男子校、大戦末期の日本陸軍など)に槐を放り込んで見て、どんな心理や言動をとるかを想像して、想像した光景や会話を鑑賞する」という態度ではないでしょうか。

さらには、『美罠』中の、槐より主役度が低く、あらかじめ“視聴者のときめき視線を得にくいように作られている”人物、たとえば川嶋さんや能瀬、女性キャラならば千津さんや編集者桑田などに上記のような関心を寄せたら、それはかなり高度で高密度な“萌え”ではありませんか。どうでしょう。

対象が架空であればあるほど、具体性や一般性が薄ければ薄いほど、かき立てられる情動の揺らめきが現実との接点を持っていなければ持っていないほど、萌え”度数は上がっていくらしい。…ならば“純粋鑑賞”でいいんじゃないかと思うんですが。

なんだか、“先人の時代から親しまれ生き残ってきた、力のある”既存の語彙でどうにかしようとして、かえって自分の表現の力なさを露呈してるだけのような気もしてきましたが、月河、“萌え(る)”と言う言葉の含むところは、好きか嫌いかで言えば圧倒的に好きなんです。「“萌え”なんて幼稚だ」「くだらん」てな方向に難癖つけようとはまったく思いません。

“萌え”の感情には何ら実用性がない、人が社会的生物学的に生存を続けていくことに全く資さない。だからこそ人間が持ち得る感情の中で最も尊いとも言える“無用の用”とでもいったニュアンスがありますから。

昼ドラと言えば『麗わしき鬼』、こちらは、主役も脇役もかなり“一般性ある催ときめき性”の低いキャラの集まりなので(←褒め言葉)、逆に“純粋鑑賞”の余地がたーっぷりあります。

明日33話からは一気に12年後に物語が飛び、ヒロイン2人も大人の女性に。今日の予告フラッシュからすると、貴重な“ときめき担当”?と思われる唐橋充さんが医師役で参入されるようですが、これで『仮面ライダー555(ファイズ)』のライダー側・オルフェノク側3人×3人はめでたく全員東海昼ドラ経験者となった…(半田健人さん>『愛のソレア』、溝呂木賢さん>『新・風のロンド』、芳賀優里亜さん>『美罠』、泉政行さん>『冬の輪舞』『偽りの花園』)と思ったら加藤美佳(よしか)さんが唯一まだ昼ドラバージンでした。年齢的にそろそろ昼の空気感になじむお年頃のはず。『555』での最期のシーンは悲しくも衝撃的でしたよねぇ。ぜひカモン。お待ちしています。

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