雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

KAZE  VOL。182

2007-05-29 05:46:34 | ジェットスキー&KAZE
KAZE VOL.182号が届いた。
今月はじめの181号がなかなかの力作で、褒めてご紹介したのだが、今回もなかなかのものである。

半ば以上身内なので、あまり褒めるのもーーーと思うが、何となく落ち着きもあり中味もいろいろと面白くていい。

ただ、ご紹介しても、購入するわけにもいかず、
KAZEの会員がどこか近くにいないと読めないのか、
販売店かどこか適当なところに行けば読むことが出来るのか。

その辺が解っていないままのご紹介だが、お許し願いたい。


VULCAN900CUSTOM にまたがる36歳の佐伯さんが、しぶい神社を背景の写真で始まっている。
今までNinjaZX-9Rのオーナーであった佐伯さんが2台目のバイクにVULCUN900を購入したのは一見ユニークな選択だけど、それにはきちんとした訳があった。

と、そのことによって 「変る生活の面白さ」を紹介している。
「バイクと人とのいい関係」 昔、確かこんなキャッチコピーがあったような気がするが、それについての物語である。

続いて、
昨年の5月、カワサキの企業ミュージアムとしてオープンした「カワサキワールド」は1周年、入館者数24万人。 今や神戸の新名所として定着した。
これはその通りで、期待を裏切らぬものだと思う。立地も最高である。
是非、一度は覗いてみる価値ありである。

そのあと、今年で10年目を迎える「カワサキコーヒーブレークミーテング」や、
もっと前から続いている、KAZE北海道レンタルツーリング、
KAZE海外ツーリング、USAワイルドウエスト7日間、USA横断14日間など
カワサキ独自のイベントの紹介。

そして最後に前回、「単行ものにしても大丈夫」と評した韓国、釜山から慶州へのツーリングの後編が前編と同じく6ページだてで掲載されている。
中学1年まで、韓国で育ったので特に関心があるのかも知れぬが、それを割り引いても、力作であること間違いない。


バイクでの、一味違った生活を楽しみたい方に、いろんな献立を提供してくれる 「KAZE」 はお奨めであると思う。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

J's -LIME ほか

2007-05-14 05:37:07 | ジェットスキー&KAZE
カワサキの空冷4気筒J系のオーナー元オーナー、マニアの方を対象にしたオーナーズクラブがある。

「J'sーLIME」と名付けられたこのクラブの幹事役のTAKさんは以前、
私のブログに訪ねて頂いて会員の方々に紹介もして頂いたのはよく覚えていた。



極く最近になって、
アクセス元URL解析でこのようなリンクの画面からのアクセスが相次いだ。

ブログの最後に 「雑感日記」 を紹介頂いており、直ぐ下には、「Kawasaki Motors Japan」が、
その次には、故岩崎茂樹君との関係でお知り合いになった、
同じ三木市の 「seaz companyの登山さん」 もリンクされている。

これはどうみても、カワサキの親派のサイトだと思ったが、私はパソコンに弱くて、この後どのようにすればこのホームページにたどり着くのか解らない。
いろいろやっているうちに何とかなったが、どのようにして着いたのかは解らない。

そのホームページがこれである

このホームページのリンクから「雑感日記」に訪れてくれているのである。


それにしても、立派なホームページである。
「Jの系譜」などは、どうしてこんなに詳しく知っているのだと思ってしまう。

中の文章を読むと
「2006年にローソン系というトピックのメンバーを中心に発足したばかりで、
J系のマシンにお乗りの方
元乗ってらっしゃった方
とっても好きでたまらない方    どしどし参加して下さい。」とある。

TAKさん、ご紹介頂いて有難うございました。



同じようなリンクでこちらは650W1が登場する「続、旅するブログ」ここにもリンクして頂いた。

以前から、いろんなところで、リンクして頂いて有難く思っている。

それにしても、どのようにすればこんなにきれいなホームページが作れるのか、羨ましい限りである。

カワサキファンのこのような 「熱い想い」 は本当に有難いことである。
そんな想いを裏切らないように、今後も頑張りたいと思います。




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KAZE  VOL、181号

2007-05-03 17:10:50 | ジェットスキー&KAZE
KAZE機関紙 VOL.181号が我が家に届いた。私は今も、KAZEの現役会員である。

VOL,1のときは,作る側の現役だった。
同時進行の沢山の面白いプロジェクトを持っていて無茶苦茶忙しかったが、毎月のKAZEの機関紙の編集会議だけには必ず出席していたことを覚えている。

そんなことで、想い出も関心もあって毎回見せて貰っているが、「少しマンネリかな」という感じがしないでもなかった。
KAZEの活動の中味も、15年以上も前と同じものも多いのでそう感じるのかも知れない。


ところが、今回の機関紙は、「非常に新鮮に感じた」

2007年ニューモデルZX-6Rのデイトナでの1-2フィニッシュ、KX-250でのチームグリーン新井選手の全日本MX2戦連続完全優勝などの華々しいニュースから34回東京サイクルショー、THE K's MEET2007など本格的な春のシーズンを迎えてのイベント記事など派手な話題が多かったし、KMJや販売店主催のイベントも盛り沢山であったことも確かにある。

だが、新鮮に感じた一番大きな理由は、何と言っても  「愛車で走る韓国の旅ー釜山から慶州へ 前編」 の特集記事だろう。

これは、なかなかの力作である。

「隣の国、韓国に自分のバイクで行けるようになったのが2005年7月、バイクを一次輸入として持ち込むことが認められて、韓国の道を走れるようになったのだ。」と始まり韓国ツーリング、準備編、会話編、グルメ編など計画するであろう人の関心事に細かく答えている。

ページ数も写真付だが6ページを割いており、単行ものにしても十分価値があると思われる出来映えである。
今回の前編では、釜山を中心に取材と紹介をしているが、後編では世界遺産の街、慶州を中心にとっておきの日の出スポットや海沿いの道を紹介するという、楽しみである。

このKAZE機関紙は、毎回ツーリング紹介記事を取り上げているが、一番いいところは、自ら実地に行ってみてその体験の上でのレポート記事になっているところである。

それが今回は韓国ということで、準備、言葉、グルメなどの日本国内とはまた違った視点での特集が「新鮮さ」を感じさせるのかも知れない。
少し褒めすぎかも知れぬがホントに 「なかなかの力作である。」





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェットスキー開発物語

2007-04-18 06:14:54 | ジェットスキー&KAZE
ジェットスキーはカワサキが商標登録した商品名である。

この商品は現在はモーターサイクルと一緒の所管になっているが、
単車と発動機とが別事業部であった時代は、発動機の商品として開発され販売をアメリカのKMCが担当をするという時代が永く続いた。

手元に、1988年10月に当初開発を手がけられた田中秋夫さんが纏められた「ジェットスキー物語」がある。

その冊子から、開発の経緯を簡単にご紹介したい。

田中さんが、谷本君とアメリカに市場調査に出張された1068年5月、ミシガン湖でSEA DOOのジェットボートを見たときに開発の着想がスタートしている。

当時、スノーモービルのエンジンを開発中で、そのエンジンを改造してジェットボートが造れないかという発想であったようである。

1970年4月に研究が開始され、エンジンは何とかなったが,舟艇の形状でいろいろ苦労していた矢先、KMCのR&Dの斉藤君のところにアメリカ人のジェイコブソンがジェットボートのコンセプトの提案があった。

1971年6月のことである。
そして彼とコンビを組むことでジェットスキーの開発は本格的に進んでゆくのである。

ジェイコブソンの原案は独特のものであったが、当初目論んだ要求特性の大半を満たせるものであったようである。

設計試作には、後単車の工場長や建機も担当した藤浦さんなどが加わって、KMCのR&Dでジェイコブソンと協力して続けられ71年の11月に試作1号艇が完成している。

アメリカでのテストを続けた後、最後の商品化業務は国内で行うこととしテストを続けたのち、72年10月に待望の量産試作艇が完成し翌73年2月にジェットスキーという独創的な商品が完成したのである。

5月からは明石で生産されたジェットスキーがアメリカに向けて出荷が始まっている。

その後、75年にはアメリカのリンカーン工場の稼動で、アメリカ生産が開始された。
その後アメリカでのみ7000台/年の安定した販売賀続いたが、80年ごろからは国内でも逆輸入での販売が極僅かではあったが始まった。

急激に販売が伸びだしたのは、エンジンを440,550ccにボアアップした83年ごろからであり、一挙に20000台を越える販売となり経営を支える主力商品に成長したのである。


私も知らなかったが、1988年に全国発明表彰が行われ、ジェットスキーが通産大臣発明賞を受けている。

発売後、15年目の受賞であり、丁度その頃から日本のマリンスポーツレジャーが本格的に始まったと言えるのだろう。

今は、ヤマハさんの参入もありレース活動なども定着して、日本のマリーン文化の一翼を担っている。
まだまだ若い商品と思っていたが、開発当初からみるともう40年近くにもなるのである。




昨日、川重相信会のパソコン同好会のメンバーにブログの解説を頼まれて、出席した。そのメンバーの中に私と同期で、ジェットスキーの開発当初から色濃く関係した藤川哲三君もいた。

440,550ccにボアアップした開発は彼が直接手がけたそうである。
以前にこのブログでも触れたことのある、日本のジェットスキー界の有名人、福井昇君は藤川君の下にいたのを同期のよしみで単車に貰い受けに行きOKしてくれたのも藤川君である。

ちなみに,この件では当時発動機の企画室長だった柏木茂さんに「闇取引をしやがって」と怒られた。覚えておられるだろうか。その柏木さんも昨日のパソコン同好会に出席されていた。

このジェットスキー物語についても帰りに車の中で話に出た。冒頭の田中さんと谷本君の話も覚えていた。

昨日の今日だから、多分この項はお二人ともお読みになると思ったので、パソコン同好会以降は今朝書き足して発信する。

昨日お話したように、これにコメントするのは簡単です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KSS物語ー4 昔話-48

2007-03-30 06:02:23 | ジェットスキー&KAZE
KSS物語ー4(1991年以降)

新会社KSSも3年目で軌道にのり更にいろいろなソフト事業への挑戦が続いたのである。

平成3年3月3日オープンを目指した札幌のショールームが予定通りオープンし東京の神田ショールームもスタートした。

7万台を目指した高い販売目標も2年8ヶ月後の5月末に達成し、グループ関係者全員にマグカップを配ってお祝いをした。

4万8千台から7万台へ、全体の市場が伸びなかった中での達成は、シェアアップという非常に難しい課題への挑戦であったのである。

ゼファーという商品にも恵まれ、ARKというカワサキ独特の販売網にも援けられたが、そのベースにあった基本戦略、末端への視線、ソフト戦略、カワサキイメージの向上が力になったと思っている。

ソフト分野を担当したKSSはKAZE会員はスタートの6000人から最盛期50000人までに拡大し、それをベースにグループ全体としての情報システムやお客様相談室など非常に高いレベルでの活動を可能にした。

お客様相談室などもどこにでもある組織だが、その質に於いて完全に差別化されたレベルを目指したし、愛情車カードの回収率なども22%と一般の3~5%と比較して格段に差別化できたレベルであった。

阪神ライデングスクールとタイアップして目指した二輪専門の自動車学校の資格取得も殆ど不可能と思われる難しい基準をクリアして取得することができた。

ソフトの事業化を当初漠然と考えていたが、実際の活動を積み重ねていくと、思わぬ新しい知恵もわき、思わぬ展開にもなるのである。

いろんな人たちが先方から訪れてくれるのでどんどん広がっていくのである。

有名芸能人、それは雲のうえの存在と思うがKSSと特に関係のあった岩城洸一などもその例である。
突然、先方からコンタクトがあって、まずロードレースでお付き合いが始まった。後にはチーム月木の総監督という立場で8耐を一緒にやったり、ジェットスキーでJJSBAのレース場やSPA直入にもしょっちゅう出入りしていた。

ARKミーテングの時やKAZEのユーザーミーテングに大勢の仲間を引き連れて参加してくれたりした。

実現しなかったが島田しんすけも8耐に出たいとわざわざ明石まで訪ねてくれたりした。


「ソフト機能の強化」とは
1.異質性を組み合わせる力の強化であり
2.コンセプトの組み上げ方のノウハウを提供する力の強化である。
と定義されている。


1987年10月21日に「新会社設立構想について(案)」という文書の企画力の強化のなかでこの定義を引用し、
カワサキ独自の企画を造り出す時期に来ている。
そのためにも、「ソフト企画」専従のスタッフ養成とシステムの構築を進め「売れる企画」を生み出す体制を作ると述べている。


タテ型は一つひとつが完結して終わってしまう。
ヨコに異質なものを繋いでいくと、大きな仕事が出来る。

大きな仕事はトータルシステムとして、ヨコに繋がないかぎり実現しない。

私の実務の経験からそう信じている。
そして、全く私の思う通りのことをもっともっと正確に言っておられる方にKSSの3年目に出会った。

服部吉伸先生
コンサルタントや中小企業大学の先生をしておられたが、
その後、立命館大学の経済学部教授をされ最近またコンサルタントに戻っておられるとか。KSSの後半いろいろお世話になった。

KSSは私にとってサラリーマンの集大成みたいな思い出多いものだった。
(現在はKSSは改組され、KMJの中の一括管理の中での運営になっている)

手伝ってくれたKSSの南常務以下の古石、森、渡部、西川、重本君や皆さんに心から感謝とお礼を申し上げたいしたい。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KSS物語ー3 昔話-47

2007-03-29 06:18:12 | ジェットスキー&KAZE
KSS物語ー3(1990年度)

KSSの2年目もは、ソフト戦略展開のベースになる部分が次々に実行に移されていった年度であった。

まず1月には新販売網ARK契約がスタートした。ジェットスキー(J/S)のARKも統一展開を図ることになった。
従来依託販売が一般的であった取引形態を業界初の受注制度に変更した。

一般ライダーが走れるサーキットSPA直入もオープンし、岡山を皮切りに広島、宇都宮、明石と今までのイメージを一新するショールームをオープンさせた。
世界一の商品を売るに相応しい店舗を目指した。

今では全国のMCの販売店が受注となり店も素晴らしくきれいになったが、15年以上も前にそのレベルでの展開を図ったのである。

レースも鈴鹿2&4で優勝は逸したがドーソン,塚本、宗和、と2、3、4位を占め,4輪では優勝を飾ったカワサキOBの星野一義がヴィクトリーランでわざわざチームグリーンのパドックの前でマシンを止めて、話しかけてくれるサービス振りであったりした。

チームBEETが6耐優勝、鶴田がシーズンを通じてのシリーズ優勝を飾るなどこの年もレース活動は素晴らしかった。
従来、スポーーツ推進部で担当してきたレース活動も、SPA直入の順調な会員確保状況もあって10月よりKSSへ移行しKSSとしての活動となった。

開発コード015で開発された、ZX1100ccのエンジンをベースに160PS/10500rpmの四輪のサーキットマシンX-11も、TIサーキットなどとの話もあり、星野インパルの金子豊や星野がカワサキコンバットのご縁で相談に乗ってくれたりした。
初のパーソナルスポーツビークルとしてほぼ完成し、KSSでの販売が企図されていたのだが残念ながら陽の目をみることはなかった。

この年8月にKSSが出した経営見通しによると、KAZE会員な現在18000名で年末20000名の目標は十分達成できる。
機関紙の発行は、毎月という目標から内容の充実へと転換する。その他スポンサー獲得活動、イベントカーによる広報活動、用品の強化、SPA直入及びショウルーム運営など経営全般に順調で売上高5億円を見込めるようになり8百万円の利益見通しとなっている。

グループ全体としてはゼファー750も発売され、J/Sも好調で売上高385億円に達し、目標の7万台、400億円の売上も翌年度事業計画に現実に組み込めるまでになった。

数値計画以上に重視した「カワサキのイメージ戦略」は業界は勿論一般経済誌などの注目を浴びるまでに急改善された。
これはKSSが主導した一般ユーザーを巻き込んだソフト戦略の果たした役割は大きかったと思う。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KSS物語ー2 昔話-46

2007-03-28 05:56:44 | ジェットスキー&KAZE
KSS物語ー2(1989年度)

新しい会社の設立で中心となったコンセプト、「ソフトの事業化」について一番求められたのは企画力の強化である。

「ソフト機能の強化」とは、
「異質性を組み合わせる力の強化であり、コンセプトの組み上げ方のノウハウを提供する力の強化である」と定義されている。

既に、KAZEもレースもイベントもその他いろいろの販促策が夫々単一には実施されていた。
それらを組み合わせて如何に効力を発揮させるか、これは従来のタテ型の組織から実行される完結型のやり方では難しいのである。

個別のものをヨコに結び、更に高質化を図ることを目的として新会社は設立されたのである。


1989年の1年目の活動は個々のプロジェクトの質を高めることからまずスタートしている。

KAZE活動は既に6000人の会員がいたが、カワサキマニア中心のものであった。
より広い範囲でモータサイクルを持っていなくても関心のある人を集めようと切り換えた。
JCBと組んで会員カードに機能を持たせ、JCBカードを会員証とする業界初の試みとしてスタートした。

昨日家にKAZE機関紙VOL.180が届いたが、
第1号はバラバラのチラシを何枚か封筒に入れて89年春に発送されている。その後、製本の形をとり毎月発行を目標に継続された。
第3種郵便の認可をとって現在と同じ形になったのは、2年後の91年2月7日である。


毎月発行できるベースとしてのニュース源の確保が最大の課題ではあったが、いろんな活動の成果でネタは有り余るほどあった。

3月にはSPA直入が着工され、1989年4月1日㈱ケイスポーツシステムは正式にスタートを切ったのである。

レース活動は、この年はまだスポーツ推進部で担当し実施されていたが、OB会でのハッパが効いたのか好成績が続いた。
3月には鈴鹿の2&4で宗和が3位になり、4月にはフランス遠征した「ルマン24H」で宗和、多田が3位入賞を果たした。
4耐はジュニアでBEETの高橋等が優勝、
6耐ではジュニア北川、鶴田も優勝を飾り、藤坂、林が2位に入った
8耐では塚本、前田が4位に入賞した。

好成績を収めたのはファクトリーを支えるチームグリーンの活動が主体であった。

5月にはZEPHYRの発売が開始され、販売は絶好調の月々が続いた。
MCだけでなくジェットスキーについても本格的な販売網政策とJJSBA対策を開始した。

KAZE対策としては各営業所にKAZE担当者を置き会員募集と活動の強化を図った。
6000名の会員は年末には倍増の12000名になっている。

9月からは、安全運動活動を本格化するため、当時鈴鹿8耐などの常連であった二輪専門の教習所阪神ライデングスクールの有馬社長と組んで種々の対策をスタートさせた。

10月には新販売網ARK(Authorized & Riliable shop of Kawasaki)構想、レタリング、看板などを発表したり、オータムフェスタin Akasi、岡山新ショップ構想など話題性のある業界初の試みを連発している。

12月には当時世界一であったフランスの耐久チームのスポンサードをKAZEが引き受けるなど新しい試みにチャレンジしている。

これらのいろんな話題やイベントをそれだけで終わらせることなく、どんどん繋いでその効果を更に倍増させてゆく新しい動きは業界から注目を浴びだした。
いろんなところで採り上げられ、日経ビジネス7月号には特集記事として掲載されたりもした。

社内でも話題になり、川重の関係会社社長会の席上でKSSの活動としてKAZE、レース活動などを発表して話題となったのである。


グループの各部門の諸活動をコンセプト通り「ヨコに結んで高質化を図るというソフト活動」は初年度、KSSの南常務以下数名の少人数での活動であった。

これら初年度の基礎部分の対策は、2年目以降更に大きく飛躍する可能性を約束するものとなったのである。
グループとしても充実した新規活動初年度であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KSS物語ー1 昔話-45

2007-03-27 06:03:04 | ジェットスキー&KAZE
KSS物語ー1

1988年10月55才の秋、3度目の国内担当となった。
単車事業部の業績も安定し昔のような販社再建という役割ではなく国内市場に真に期待が掛けられている状況であった。

年からいっても最後のご奉公と思ったし、事業本部長でカワ販の社長も兼務されていた高橋鉄郎さんと、
7万台、売上高400億円、利益10億円、事業部の限界利益100億円という高い目標のお約束をして引き受けたのである。

大変な目標ではあったが、やり甲斐はあった。

モーターサイクルの市場は横ばいで大きな拡大は見込めなかったが、時代の流れは新しいものが沢山あって、ハードだけでなくMCのもつソフトの分野、レースとか遊びの事業化を合わせて考えると面白い事業展開が出来るのではないかと思った。


まず、レースのテコ入れを考えて就任最初にやったのは、レース関係のOB会を現役も含めて10月15日に開催した。
安良岡、山本、金谷、和田、岡部、梅津、星野、清原などの懐かしいライダーたちと宗和などの現役連中、歴代監督やレース関係者が集まって芦屋の竹園ホテルで盛大な会合となった。。

カワサキの昔のレース関係者は山田、苧野、高橋、大槻、田崎さんなど川重の社長、副社長、常務などを務めた偉い人が多くて、こんな昔の仲間が集まって今後のレースを語ったことは現役のレース関係者にも大いにハッパをかける結果になったのである。

この年の年末までの3ヶ月間、本来の販売網関連の契約事項、価格体系などの検討も勿論やったが、特に力を入れたのは

1.ユーザー対策として既に動いていたユーザー組織KAZEの再編成
2.新しいソフト会社の設立準備、その内容の検討だった。

業界でもはじめてのソフト会社、それが翌年4月に設立された、㈱KSS(ケイ、スポーツ、システム)である。


この新しい会社の責任担当者として手伝ってくれたのが、南昌吾君である。
彼とは、特約店制度発足当時からのお付き合いだが、難しい、はじめてやることを多く担当してくれて、全て上手に捌いてくれた。

コンセプトを決めてこれで実行してくれと頼んだらまず間違いなく、目標を実現してくれるプロの実行責任者と思っている。

南君のほかに、今はオートポリスの責任者をやっている渡部達也君や西川寿光くんなど実力者の少数精鋭でスタートしたのである。

会社の設立は4月であったが、実質活動は11月頃からまずKAZEの再編成から始まるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソウルオリンピックの思い出

2007-03-25 06:13:55 | ジェットスキー&KAZE
1988年10月、ソウルのオリンピック委員会の招聘を受けて、オリンピックの開会式の当日スタジアムの直ぐ横を流れる漢江(ハンガン)でジェットスキーのデモンストレーションを行うことになった。

オリンピックとあってデモを行う選手も、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、日本からの男女代表選手でチームを構成した。
この団長をおおせつかったのだが、日本からは当時ジェットスキーの責任者だった鶴谷君や藤田君JJSBAの会長の苧野さん、それに福井、大南君など日本のジェットスキー業界の先駆者たちが参加した。

オリンピックファミリータウンに宿舎を用意して貰いオリンピックも自由に観れた筈なのに、本番前の練習やら挨拶ビジネスなど忙しくて、13日から18日まで1週間もいたのに、結局何も観ることはできなかった。


それなりに理由はあったのである。
戦前、中学1年生まで当時の京城、いまのソウルにいた。

どうしても住んでいた家がどうなっているのか確かめたくて、苧野さんとタクシーに乗って探しまわっったのである。
様変わりしていて見つけにくかったが、小学校を探しあてそこから道を辿ったら、家が見つかったのである。

殆ど昔のままの姿で残っていた。感無量であった。
懐かしくて帰国する当日、今度は独りでもう一度家を見に行ったりしたのである。

戦前の当時と比べるとソウルも見違えるほど発展している。
オリンピックスタジアムのあったハンガン流域は昔は何もない荒地だったのに、繁華街に一変している。
昔の漢江も魚釣りに行ったりしていたのでよく覚えているが、当時の面影はない。


そんな思い出のあったソウルオリンピックであったが、当日のデモンストレーションは練習の成果が出て無事終了し、みんなで賑やかに打ち上げパーテイをやったのを覚えている。

英語でスピーチをやったのは二度しか経験がないのだが、この時がその1回である。
英語のスピーチといっても流石に原稿無しでは難しく、鶴谷君の作ってくれたものを読み上げただけのことであった。

ソウルオリンピックの想い出は、オリンピック委員会から頂いた立派な額をみて時々懐かしく思い出している。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KAZEの思い出

2007-02-05 06:30:11 | ジェットスキー&KAZE
今なお現役のKAZEメンバーである。
先日、家に本年度の更新葉書が届いた。勿論更新した。

1988年10月、3度目の国内担当となった。
当時まだ47000台であった実績をカワサキの「イメージ戦略」をベースに「目標70000台」の達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。

12月までの3ヶ月間、今、思い出しても無茶苦茶、仕事をした。

まず、10月15日、レースのファクトリーチーム結成25周年記念を芦屋の竹園ホテルで開催することからスタートした。
どうしても原点のレースからスタートを切りたかった。

続いて、業界初の新価格体系の発表、新コンセプトのKAZEの検討、それを実現するための新ソフト会社の設立構想、ジェットスキー会社の新体制。など、年度末の多忙な時期ではあったが一挙に実施した。

井川、富永、南、山田、森、谷沢君などなど、若手諸君の健闘で100%基本のコンセプト段階の成果をあげた。

2年半後の1991年5月、難しい目標の70000台は達成出来たのである。
同時に、最も基本的な目標であった「カワサキのイメージ向上」も大きく前進した。

その原動力になったのはKAZEだと思っている。


それまでもKAZEの組織はあった。
これらは、カワサキシンパの販売店中心の運営によってなされていた。

新しい課題、とくに「カワサキのイメージの向上」のためには、どうしても従来の枠に捉われない新しい発想が必要であった。

カワサキのユーザーだけでなく「もっと視野をひろげて考える」  これが、基本である。

カワサキだけでなく、どなたでも。
バイクに乗る人も、乗らない人も。
レースのように周りでサポートするバイクを持っていない人たちも。
バイクだけでなく、ジェットスキーの人たちも。
カワサキに関心のある方は、どなたでも。

Kawasaki Amuzing Zone for Everybody」を略して「KAZE」のネーミングのなかで、「Everybody」こそがキーワードである。

そして、バイクやジェットスキーの遊びをサポートするソフト専門会社KSSの設立など、「遊び半分では、ホントの遊びは出来ない」というようなことが、「基本コンセプト」であった。

そんなKAZEは、他メーカーの活動がなくなった今もなお、活動を続けている。

バイクもジェットスキーももっていないが、私は今もなお、現役のKAZE会員である。
ひょっとしたら、会員の中で一番年上かも知れないと思っている。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェットスキー世界戦略 昔話ー24

2007-01-27 06:30:42 | ジェットスキー&KAZE
「ジェットスキー世界戦略」


アメリカ以外の日本、ヨーロッパなど世界にジェットスキーを広めようと世界展開を企図した。
1960年8月オーストラリアから帰任した鶴谷将俊君が藤元、福井君らと共に専任でこのプロジェクトの展開にあたってくれた。
当時日本ではJSに関して殆ど素人ばかりで、全くの白紙から市場開拓をスタートさせたのである。

国内は、いち早くJSの輸入販売のあった西武自動車とカワサキ側は苧野豊秋さん、藤田孝明君らの努力で台数は少ないながらも格好は付きつつあった。


問題はヨーロッパで、果たしてどのように受け容れられるのか、夫々の国の反応もさまざまで、藤元君がスペインに駐在して市場調査から始めた。

9月末にドイツのボーデン湖畔で行われたボートショウに出品すると同時に、アメリカからライダーを招いて、デモンストレーションも行った。

このショウと地中海沿岸での市場調査のために、鶴谷君と共に出張したのだが大変な旅であった。

9月26日から10月9日まで。
フランクフルトからボーデン湖の会場、そこからはレンタカーを借りてフェリーに乗ってスイス、チューリッヒへ、この辺りに来ると英語は通じない。駐車場に入れるのも昼飯を食うのも大変だった。

それから空路スペインのマドリッド。更にジブラルタル海峡の直ぐ近くの有名な避暑地マラガへ。ここからは商品企画の連中もジョインしたが、スペイン語はさっぱり解らず、藤元君頼りで切り抜けた。

然し言葉は理解出来なくても、自分の目で見て確かめるということは、マーケッテングの基本である。何とかなるという確かな感触だけはつかめた。

ヨーロッパの人たちのバカンスとはどのようなものか。こんな雰囲気は体験しないと本当のところは解らない。
ペアが常識の華やかな避暑地で、男ばかりの東洋人のグループは異様な光景に移ったことだろう。

ロンドンに戻って、街の標識が読め英語が聞けて、キザなようだが本当にほっとした。

その後、また言葉の解らぬフランスが最後だったが、イギリスとフランスはいずれも現地のM/C販売会社があったので、特に困ったりはしなかった。


鶴谷君と気安く言っているが、今、彼は川重商事の現役社長である。
イラン、オーストラリア、日本、アメリカ、ヨーロッパと現地末端での体験、経営経験も長く、市場を見る目も確かなカワサキでも屈指のマーケッテングマンである。

そんな彼にとっても、この2週間は想い出に残る貴重な体験だったと思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェットスキー世界戦略ー2 昔話ー23

2007-01-21 06:48:32 | ジェットスキー&KAZE
「ジェットスキー開発ー2」

先日、1984年に突如としてJS440/550が計画の3倍も売れたというお話をした。

ジェットスキーはもともと発動機事業部が開発したエンジンを使っていて、単車のエンジンとは関係が無かったのだが、突如25000台も売れて一挙に脚光を浴びたのである。

単車の開発陣が、独自の新商品を開発すべく開発NO183、158の2機種が候補にあがった。

NO183はKX250ベースの300ccエンジンを搭載したJS300.これはバイクで言えば小型の底辺層(初心者、女性)を狙った需要創造のためのエントリー型のジェットスキー。
NO158は新650エンジン搭載の二人乗りジェットスキー、X-2。

と85年2月15日の開発計画書に記述されている。
2機種とも開発され上市されたが、JS300は散々な失敗作に終わってしまうのである。

当時の単車事業部にはエンジンの専門家は沢山いたのだが、水の世界は始めての経験で、ジェットスキーにちゃんと乗れる人も居なかった。
発動機事業部にJJSBAでレースをやっているのがいると聞いて、何とか単車に貰おうと同期の藤川さんに頼み込んで、私の担当の企画に来てもらったのが、福井昇君である。

日本のジェットスキーの業界では、殆どの人が知っている、
ジェットスキープラザ明石の福井君である

バイクの感覚では、「初心者は小さいものから」は常識である。
需要を拡げるためには小さいものも開発して初心者や女性の導入を図ろうというコンセプトに、誰も何の疑いも持たなかった。

開発テスト段階で、福井君も参加したのだが、彼が乗っても「突如ひっくりかえる」というのである。
然し、彼の所属は企画部門で商品評価専門の品証部門ではなかったので、彼の意見は通らないまま商品化されたのである。

ところが水と陸とは大違いで、水の上に浮いているものは大きいモノほど安定し、小さいと不安定であるということが、はっきりと認識されたのは、JS300が発売されてからだった。

考えてみると、素人でも解る当然の理屈であるが、永年二輪の常識のなかで育った判断力が邪魔をした。今思えば不思議な話だが現実に商品化されたのである。
ウソみたいなホントの話である。

こんな失敗もあったが、新しい商品も開発し、企画部門では、武本さんやオーストラリアから帰ってジェットスキーに専念してくれた鶴谷さんと福井君、藤田君などがアメリカ以外の日本やヨーロッパ、豪州などの市場も開拓し、世界展開を図っていったのである。


その後、福井君はちゃんとしたテストをやるべく品証部に転籍し、更に独立開業して、今ジェットスキープラザ明石の社長さんである。

発動機に貰いにいかなかったら、彼はどんな人生を歩んだであろうか。
人の人生は、本当にひょんなことで、ひょんなことになるものである。

今でも時々家に遊びに来てくれる。J/Sは勿論、四輪も好きだし、二輪にも興味がある面白い男である。
昨日、店のHPでアドレスを探して、はじめて彼にメールを打ったら、直ぐ返事が来た。前回のジェットスキーのブログを見て、懐かしいと言う。これはもっと懐かしい筈である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェットスキーの開発 昔話ー22

2007-01-18 06:28:32 | ジェットスキー&KAZE
「ジェットスキーの開発」

1983年ごろHY戦争ほかいろんな外部要因も重なって、カワサキの単車事業は存亡の危機に見舞われるのだが、幸運にも恵まれ何とか切り抜けることができた。。
ジェットスキー市場の予想を上回る急激な拡大もその一つである。

アメリカのジェットスキー市場は毎年5~7000台で安定して推移していた。
エンジンはもともと発動機事業部が開発したもので、従来単車の技術部はタッチしてなかった。
安定した商品ではあったが、それまでは大した期待も持っていなかったのである。

83年末ごろだろう、技術部の商品企画を担当していた百合草三佐雄さんが、ジェットスキーのJ/S400,500の改良計画を提案してきた。
予算の苦しい時期だったが、百合草さんと企画の武本一郎さんとで無理やり予算を捻出し実行に移したことを、何となく承知している。

そんな結果生まれた、JS440/550が突如として無茶苦茶売れ出したのである。
84年度計画の8100台に対し実に3倍の24400台の実績となったのである。

当時は独占商品で競争相手もなく、利益率も相当に良かったので、これで得た粗利の額は事業部、KMCとも業績改善の大きな要素になった。
10億や20億円のレベルではなかった、より大きい相当のレベルであったのである。

世の中には思いも寄らぬことも、ままあるものである。
こんなことが初めから解っていたら、誰でもそうするのだが。

カンというのも大事である。カンがいいのも実力の内である。
この時の「百合ちゃんのカン」も相当なモノだし、武本さんの予算捻出のワザも見事であったと思っている。

これを契機にジェットスキーは主力事業としての座を確保し、全世界への展開となっていった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Z1会総会

2006-12-24 07:09:07 | ジェットスキー&KAZE
第3回Z1会総会があり、私は出席出来なかったが、議事録が送られて来た。

「カワサキの名車Z1を限りなく愛していることを宣言できる人」
なら誰でも会員になれるゴルフコンペ会である。
会長はZ1の開発チームリーダーであった大槻さん、副会長はエンジン設計を担当した稲村さんが務めている。

年4回、三木セブンで開催される。
会員は現在51名、来年は4月4日、6月6日、9月26日、11月7日と決まっている。

いろんなゴルフコンペグループがあるが、このZ1会は際立って素晴らしい。
こんないいコンペグループは、探してもなかなか見つからないと思う。
順不同でその良さを列挙すると、

1.とにかく参加メンバーが幅広く、その雰囲気がいい。

エンジン設計、車体設計、実験研究、デザイン、生産、品質保証、企画、営業、部品、などのメーカーとしての全ての部門はもとより、海外、国内の販売会社、CKD,国内の現役販売店経営者、、元有名ライダーまで。
二輪事業が間違いなく展開できると思われる、横の広がりがある。

2.殆どがOBであるが、現役もいる。メンバーは増える一方である。

元川重常務というエライ肩書きのひとも何人もいるのだが、会社の位で言えばそんなに威張れない人もいる。
然し、それが全然感じられない横一線の仲間意識で繋がっており、会話も極自然で何の遠慮も要らないところは、特筆できる。「これが一番いいところだと思う。」

3.事務局の仲さん、栗島、藤原さんの事務局運営が特にいい。

仲さんの年間スケジュールから、案内まで見事である。
出席メンバーは当然だが、今回の欠席者はと明示されるコンペ案内は珍しい。その分、出席状況がいい。
栗島さん特製の優勝盾Z1プレート、毎回の写真素晴らしい。プロだから当然。
藤原さん、F21M時代の山本や星野を支えた名メカニックである。今も縁の下で支えている。

4.今回の総会の報告なども、下手な会社の議事録などよりは、臨場感もあってよく解るし、立派である。

5.東京から藤木さん、九州から井上さんなど遠くからの参加もある。参加の価値があるのだろう。

6.まだまだあるが、最後に会長、副会長がいい。
そう私が言い切っても会員から文句が出ないこと請け合いである。


どんな連中がいるのか、
レース関係では、ライダー出身、清原明彦、塚本昭一、元BSのGPライダー的野征治、カワサキではじめてのモトクロス青野ヶ原、やロード6H耐久に出場の飯原武志くんなど。
レース監督経験者やメカニックは沢山居りすぎて書けない。

バイクショップでは、現役で東京、エム、エス、エルの藤木君、兵庫、エントリーの山本君、プロショップkiyoの清原君,カワサキマイスターの森田君

OBが殆どだが、結構元気でH5を筆頭にシングルが4人もいる。
チームグリーンの監督をしていた重本修次郎くんは、H5である。
逆にH50も3人いる。68才以上がシニアで18名である。

総会での来年への抱負抜粋
大槻さん 「来年は絶対 100以上は叩かない」と豪語。 
稲村さん 「今年はシニア2位2回、もう少しだった。ハンデイ減って優勝程遠い、然し頑張る」 
清原さん 「19回4月4日は優勝する。ウマを買って下さい」 パチンコよりゴルフが好きになったとか。  
山本さん 「川重バイク現役担当者を招待して苦言を」 元品証、今販売店の立場から? 
山下さん 「上手くなるためには、ゴルフを好きになること」 H5から全員への訓示?   
など、など。

今年のMVPは飯原武志君でその受賞理由は
「大病を患ったにも拘らず、1回だけの欠席で、馬名「カイキン。オー」の名に恥じないこと。
最近、清原君とよくゴルフをして、清原会員にやる気を起こさせた功績大であった。」ことのようです。


今年の総会には、㈱クレタのカワサキバイクマガジンから北村社長と編集部から4人が特別参加され取材されたようです。
また、北村社長は名誉会員になられたので、今年のコンペには、一度は参加されるとか。

ざっとこんな感じで、来年のコンペ幕開けが楽しみである。

ちなみに私の来年への抱負は、
「家から10分程で行けるし、入会以来皆勤と思うので、来年も4回全てに出場したいと思っています。H12になりましたが、もう一度シングルを狙ってみます。」

総会に欠席してもこれくらい書けるのは、議事録の良さです。


「カワサキの名車Z1を限りなく愛していることを宣言できる人」は会員になる資格があります。如何ですか。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェットスキー

2006-12-13 06:46:28 | ジェットスキー&KAZE
ジェットスキーはアメリカで産まれて、日本で商品化された。
1975年からアメリカのリンカーン工場で生産が始まり、同時に販売が開始された。

その後10年程は、アメリカで6~7000台の販売が安定して続いたが、440,550ccが出た84年ごろから急激に売れ出した。
丁度二輪車の在庫過多で苦しい時代であったので、カワサキにとっては単車事業そのものの救世主の役割を果たしてくれた。

一挙に25000台と急上昇し、まだ競争相手もなく独占であったので、一挙に利益源の中心商品となったのである。

国内でもその頃から、JJSBAのレース活動が定着し始めた。

国内をはじめ世界への商品展開を図るべく企画部門に新プロジェクトを立ち上げスタートした。
1985年オーストラリアから、鶴谷将俊君(現川重商事社長)が帰国して専門でその任にあたるころから動きは活発化した。

ジェットスキーはもともと発動機部門で開発されたので、単車のなかには当時は本格的に乗れる人もいない状況であった。
発動機で個人的にレースに出場していた福井昇君がいることが解り、企画部門に参加してもらった。

ヨーロッパも国内も全く経験のない、新商品の展開であったが面白い経験をしなしがらも、着実にプロジェクトは進行した。

鶴谷、福井君(現ジェットスキープラザ明石)を中心に国内では、西武自動車の人たち、カワサキの販売関係では当時のJJSBA会長の苧野さん、藤田孝明君らでこのプロジェクトを成功に導いた。

国内でも、300台であった販売が1000台になり、ピークには7000台までになった。

ソウルオリンピックの開会式当日に、スタジアムの直ぐ横を流れるハンガン(川の名前)で行われたデモンストレーションにオリンピック委員会より正式に招聘を受け、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアからの男女のトップライダーたちと日本からもライダー並びに前述のメンバーたちが参加した。
そのチームの団長をさせて頂いたのも私にとっていい思い出である。

ジェットスキーの販売の増加にともなって、単車やオートバイから、CP事業本部、カワサキモータースジャパンなど、事業部の名称や社名の変更が行われた。

二輪とともにジェットスキーにも沢山のいい想い出や、仲間がいる。

また、機会をみてひとつひとつ、ご紹介したい。


(ジェットスキーはカワサキが商品登録をしている商品名です。一般にはPWCーパーソナル、ウオーター、クラフトーと日本では言われています。)




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする