お手数ですが、ちょっとクリックいて頂けますか。
89年後半に入って全てが順調に回りだした。
移動値で45000台であった台数は8月には50000台を記録した。
ゼファーがバックオーダーで、造るだけ売れた。生産が追いつかずずっとバックオーダーが続いたのである。
ジェットスキーも快調に売れて5000台を記録している。
それにも増して、チームグリーンを中心にサテライトチームを含めて絶好調であった。
重本、野村体制でスポーツ推進部を組織し、KSSという専門会社の中での取り組みの成果が成績という形ではっきりと現われてきた。
レースの底辺を拡充するという目的で多くのサテライトチームを援助して、ライダーの育成強化とレースそのものの発展を目指したのである。
7月23日、6Hジュニア耐久では北川、鶴田組が期待通りの優勝を飾り、藤坂、林組も頑張って2位に入り、1,2フィニッシュを決めたのである。
今はスズキで世界チャンピオンとなった北川の多分始めての優勝だと思う。
1週間後の4H耐久ではビートの高橋、和泉組が優勝、6Hとあわせてジュニア以下のチームグリーン関係は最高の出来であった。
ファクトリーの8耐はロブフィル、アーロン組も宗和、多田組も転倒でダメだったが、塚本、前田組が健闘して4位に入ったので、この年の8耐ウイークは大成功であった。
8月4日には舞子ビラで6耐、4耐の祝勝会をやっている。
チームグリーンの関係者はじめ、ビートの冨松さんやKHIのレース関係者岩崎茂樹君なども参加して賑やかであった。
ライダーは北川、鶴田、高橋、和泉、林、藤坂など、レース対策1年目の成果であった。
翌8月5日には、全国安全運転大会でまたスズカである。
カワサキの安全運転本部長も兼務していて、各社の本部長とのお付き合いもこの頃からずっと続いた。
二輪業界は特にホンダさんなど安全運転には熱心で、警察の本庁の幹部も多数出席されるこの大会は8耐の翌週大規模に行なわれるのが通例であった。
この頃のスズカ8耐ウイークは最高だったと思う。
20万人と言われた観客の到来で鈴鹿の町は畑を急遽駐車場で対応するほどの混雑で、町中が駐車場と化していた。
サーキットは夜もいっぱいであった。
そんな鈴鹿に7月末は、4耐から始まる8耐ウイーク更にこの大会と、3週続けてのスズカ詣が私の例年の夏の定例行事であった。
89年後半に入って全てが順調に回りだした。
移動値で45000台であった台数は8月には50000台を記録した。
ゼファーがバックオーダーで、造るだけ売れた。生産が追いつかずずっとバックオーダーが続いたのである。
ジェットスキーも快調に売れて5000台を記録している。
それにも増して、チームグリーンを中心にサテライトチームを含めて絶好調であった。
重本、野村体制でスポーツ推進部を組織し、KSSという専門会社の中での取り組みの成果が成績という形ではっきりと現われてきた。
レースの底辺を拡充するという目的で多くのサテライトチームを援助して、ライダーの育成強化とレースそのものの発展を目指したのである。
7月23日、6Hジュニア耐久では北川、鶴田組が期待通りの優勝を飾り、藤坂、林組も頑張って2位に入り、1,2フィニッシュを決めたのである。
今はスズキで世界チャンピオンとなった北川の多分始めての優勝だと思う。
1週間後の4H耐久ではビートの高橋、和泉組が優勝、6Hとあわせてジュニア以下のチームグリーン関係は最高の出来であった。
ファクトリーの8耐はロブフィル、アーロン組も宗和、多田組も転倒でダメだったが、塚本、前田組が健闘して4位に入ったので、この年の8耐ウイークは大成功であった。
8月4日には舞子ビラで6耐、4耐の祝勝会をやっている。
チームグリーンの関係者はじめ、ビートの冨松さんやKHIのレース関係者岩崎茂樹君なども参加して賑やかであった。
ライダーは北川、鶴田、高橋、和泉、林、藤坂など、レース対策1年目の成果であった。
翌8月5日には、全国安全運転大会でまたスズカである。
カワサキの安全運転本部長も兼務していて、各社の本部長とのお付き合いもこの頃からずっと続いた。
二輪業界は特にホンダさんなど安全運転には熱心で、警察の本庁の幹部も多数出席されるこの大会は8耐の翌週大規模に行なわれるのが通例であった。
この頃のスズカ8耐ウイークは最高だったと思う。
20万人と言われた観客の到来で鈴鹿の町は畑を急遽駐車場で対応するほどの混雑で、町中が駐車場と化していた。
サーキットは夜もいっぱいであった。
そんな鈴鹿に7月末は、4耐から始まる8耐ウイーク更にこの大会と、3週続けてのスズカ詣が私の例年の夏の定例行事であった。