★ 1966年は米国に新会社KMCを設立、そしてA1を発表とある。
二輪事業に進出はしたものの、民需のそれも末端ユーザへの販売は、川崎航空機工業にとっては初めての体験で、
国内市場の販売はメイハツ・メグロの方たちに任せた対応だったし、なかなか大変だったのである。
そんな時期に1965年からアメリカ市場に進出したのだが、
このアメリカ市場への進出は、本社の企画にいた浜脇洋二さんが旗を揚げ、
明石の事業本部からは、田崎雅元さんが最初にアメリカに渡たり、W1などを持ち込んだのだが、アメリカの高速道路には通用しなかったし、何もかにも初めての経験で大変だったようである。
★ 二輪の販売など経験した人は、川崎航空機工業にはいなくて、
アメリカ市場では現地主義と称して、
二輪に関心のあるアメリカ人を集めて当初の販売を推進したのである。
これは当時の事業本部長の岩城良三さんがアメリカに出張された時の写真だが、左から3人目が浜脇洋二さんで当時は浜脇さんも川崎航空機では新人課長の若手だったのである。
アメリカに最初に事業部から渡った田崎さんもまだ係長にもなていないそんな時代だったのだが、若手が頑張らざるを得なかったそんな時代だったのである。
★ そんなアメリカ市場用に最初に開発されたのが『250A1』だったのである。
カワサキが初めて開発した『スポーツバイク』なのだが、
エンジンは兎も角、デザイン面については、カワサキが新しい流れを創ったと言ってもいいのだが、
こんなデザインの新しい流れは、二輪に関心があるアメリカ人の発想がいろいろと取り入れられている。
当時の二輪車はどこもメッキタンクで側板が常識だったのだが、
そのタンクを紅くカラーにしたのは、カワサキが初めてなのである。
次に出た『マッハ』ではタンクマークも側板もなくなって、KAWASAKI の表示となっている。
最終デザインに仕上げたのは明石のデザインルームだが
発想段階のアイデアは二輪に詳しいアメリカ人の新鮮な発想があったのだと思う。
★ このようなアメリカ人の発想がベースにあったアメリカ市場では、この250A1・マッハ500・そしてさらにはZ1と
カワサキのスポーツ・中大型車が市場に受け入れられて、
カワサキの二輪事業そのものがアメリカ市場中心に展開され、
Z1が世に出た1972年には、その大ヒットで、
ようやく『カワサキの二輪事業』が確立された時代と言っていいだろう。
いまもカワサキの基本コンセプトとして生きている
KAWASAKI Let the Good Times Roll
が創られたのもこの時期なのである。