【勝持寺 01】
現在の京都市西京区にあるお寺です。山家集には一度も出てこない
お寺名ですが、西行が剃髪出家したという伝承がありますので、
ここで取り上げます。
勝持寺の創建は詳らかではなく役の小角が680年に天武天皇の勅で
建立したとも言い、また791年に最澄が桓武天皇の勅で草創の事業を
したとも言われています。
足利尊氏の庇護を受けて一時は堂塔49宇を数えたとのことですが、
応仁の乱で焼亡して衰退しました。現在の堂宇は乱後のものです。
京都新聞社1982年発行「京の西山」では境内に300本に及ぶ桜の木が
あると書かれていますが、最近発行の同寺の栞では「100本の桜」と
あります。以前よりも桜の木はかなり少なくなったような印象を
受けます。
現在は桜よりも紅葉がとても素晴らしいです。東福寺などよりは
素晴らしい紅葉だと思いますが、いかんせん境内は東福寺ほどには
広くは無く、紅葉する木も100本ほどのようです。
重文の薬師如来、金剛力士像がありますし、応仁の乱でも被災を
免れた仁王門が静かな、しかし威厳のあるたたずまいを見せます。
鎌倉時代の湛康・慶秀作の仁王像は現在も見ることができます。
927年作という小野道風筆の勅額もありますし、室町時代作の若い
西行像もあります。
裏山には西行を慕ったという歌人の木下長蕭子が草庵を結んでいて、
そこで一生を終えたとも言われています。
西行の剃髪落飾地については確かな資料がなくて推定するしかあり
ません。勝持寺がその地とみなされていますが、鳥羽にあった西行寺
も同様に出家地という伝承があります。他にも二か所は出家地の
可能性がありますから、勝持寺での落飾出家説は確定したものでは
なくて、一つの伝承にすぎません。
謡曲の「小塩」はもちろんのこと、「西行桜」にしてもその舞台を
勝持寺と特定するものではないはずです。特定するだけの材料は
ないものと思います。
室町時代初期の1365年、バサラ大名、佐々木道誉が観桜の饗宴など
もやっていて、京師に勝持寺のことは知れ渡っていましたから、
室町時代に作られた「西行桜」の舞台は勝持寺であったとしても
納得できます。
仁王門の前に京都市の立てた説明の立札があって、そこには本堂前
の西行桜は三代目とあります。それは本当かな?という疑念が私
にはあります。
「新訂都名所図会 2」1786年発行(西行桜、堂前の左右にあり。)
「山州名跡志 巻10」1771年発行(西行桜、ただし、この樹今は亡し)
高浜虚子の句 「地にとどく 西行桜 したしけれ」
高浜虚子(1874~1959)の句は果たして勝持寺の西行桜を詠ったものか
どうか私には確認できませんが、もし勝持寺の西行桜であったとして
もそれは現在の西行桜ではなくて、先代の西行桜なのでしょう。
虚子最晩年のことであれば、西行桜の樹高は1メートル前後の若木の
はずですから、句に詠われた桜でないことは確実です。現在の桜の
枝ぶりは「地に届く」というものではありません。
私が今の西行桜を初めて見たのは40年ほど前、その頃の西行桜は
人の背丈とあまり変わりなかったという記憶があります。
そういうことを考え合わせると、現在の西行桜は呼称を受け継いだ
5代目か6代目の西行桜なのでしょう。いずれにしても今となっては
何代目であるのか確かなことの検証は不可能でしょう。
(付記)
今回触れた勝持寺は私の18歳頃からのなじみのお寺でした。
18歳当時の私は西行のことも何も知らなかったとも言えますが、
長く現、長岡京市に住んでいたので頻繁に行きました。
勝持寺は現在の拙宅から5キロほどもない距離ということもあって、
昨今は年間に最低でも二度は行っています。
私の記憶に間違いなければ40年ほど前の西行桜は私の背丈と大差ない
ものでした。今は幹も高くなって、「お前もよく伸びたなー」と
時代を共有した同志みたいな感覚を味わいもします。
京都新聞のネットの観光案内サイトや京都検定でも現在の西行桜は
三代目だとしていますが、どうして三代目だと確定したのかその
根拠が分かりません。不明確で検証できない事々を、あのような
サイトが確実であるかのように記述して広めることは、いかがな
ものかという思いが私にはあります。もし間違っている時、はた
してどなたが正せるのでしょうか。間違ったことが定説になって、
その誤りを多くの人が信用するのでしょう。事実として西行桜に
触れたサイトのほとんどが無自覚的に「三代目」として記述して
いると思います。
でもまあ、たかが桜、別に問題にするほどのことでもありません。
ちなみに、江戸時代においては「西行桜」とは法輪寺の少し南に
ある西光院の西行桜のことだったようです。
画像は勝持寺の西行桜と紅葉です。
現在の京都市西京区にあるお寺です。山家集には一度も出てこない
お寺名ですが、西行が剃髪出家したという伝承がありますので、
ここで取り上げます。
勝持寺の創建は詳らかではなく役の小角が680年に天武天皇の勅で
建立したとも言い、また791年に最澄が桓武天皇の勅で草創の事業を
したとも言われています。
足利尊氏の庇護を受けて一時は堂塔49宇を数えたとのことですが、
応仁の乱で焼亡して衰退しました。現在の堂宇は乱後のものです。
京都新聞社1982年発行「京の西山」では境内に300本に及ぶ桜の木が
あると書かれていますが、最近発行の同寺の栞では「100本の桜」と
あります。以前よりも桜の木はかなり少なくなったような印象を
受けます。
現在は桜よりも紅葉がとても素晴らしいです。東福寺などよりは
素晴らしい紅葉だと思いますが、いかんせん境内は東福寺ほどには
広くは無く、紅葉する木も100本ほどのようです。
重文の薬師如来、金剛力士像がありますし、応仁の乱でも被災を
免れた仁王門が静かな、しかし威厳のあるたたずまいを見せます。
鎌倉時代の湛康・慶秀作の仁王像は現在も見ることができます。
927年作という小野道風筆の勅額もありますし、室町時代作の若い
西行像もあります。
裏山には西行を慕ったという歌人の木下長蕭子が草庵を結んでいて、
そこで一生を終えたとも言われています。
西行の剃髪落飾地については確かな資料がなくて推定するしかあり
ません。勝持寺がその地とみなされていますが、鳥羽にあった西行寺
も同様に出家地という伝承があります。他にも二か所は出家地の
可能性がありますから、勝持寺での落飾出家説は確定したものでは
なくて、一つの伝承にすぎません。
謡曲の「小塩」はもちろんのこと、「西行桜」にしてもその舞台を
勝持寺と特定するものではないはずです。特定するだけの材料は
ないものと思います。
室町時代初期の1365年、バサラ大名、佐々木道誉が観桜の饗宴など
もやっていて、京師に勝持寺のことは知れ渡っていましたから、
室町時代に作られた「西行桜」の舞台は勝持寺であったとしても
納得できます。
仁王門の前に京都市の立てた説明の立札があって、そこには本堂前
の西行桜は三代目とあります。それは本当かな?という疑念が私
にはあります。
「新訂都名所図会 2」1786年発行(西行桜、堂前の左右にあり。)
「山州名跡志 巻10」1771年発行(西行桜、ただし、この樹今は亡し)
高浜虚子の句 「地にとどく 西行桜 したしけれ」
高浜虚子(1874~1959)の句は果たして勝持寺の西行桜を詠ったものか
どうか私には確認できませんが、もし勝持寺の西行桜であったとして
もそれは現在の西行桜ではなくて、先代の西行桜なのでしょう。
虚子最晩年のことであれば、西行桜の樹高は1メートル前後の若木の
はずですから、句に詠われた桜でないことは確実です。現在の桜の
枝ぶりは「地に届く」というものではありません。
私が今の西行桜を初めて見たのは40年ほど前、その頃の西行桜は
人の背丈とあまり変わりなかったという記憶があります。
そういうことを考え合わせると、現在の西行桜は呼称を受け継いだ
5代目か6代目の西行桜なのでしょう。いずれにしても今となっては
何代目であるのか確かなことの検証は不可能でしょう。
(付記)
今回触れた勝持寺は私の18歳頃からのなじみのお寺でした。
18歳当時の私は西行のことも何も知らなかったとも言えますが、
長く現、長岡京市に住んでいたので頻繁に行きました。
勝持寺は現在の拙宅から5キロほどもない距離ということもあって、
昨今は年間に最低でも二度は行っています。
私の記憶に間違いなければ40年ほど前の西行桜は私の背丈と大差ない
ものでした。今は幹も高くなって、「お前もよく伸びたなー」と
時代を共有した同志みたいな感覚を味わいもします。
京都新聞のネットの観光案内サイトや京都検定でも現在の西行桜は
三代目だとしていますが、どうして三代目だと確定したのかその
根拠が分かりません。不明確で検証できない事々を、あのような
サイトが確実であるかのように記述して広めることは、いかがな
ものかという思いが私にはあります。もし間違っている時、はた
してどなたが正せるのでしょうか。間違ったことが定説になって、
その誤りを多くの人が信用するのでしょう。事実として西行桜に
触れたサイトのほとんどが無自覚的に「三代目」として記述して
いると思います。
でもまあ、たかが桜、別に問題にするほどのことでもありません。
ちなみに、江戸時代においては「西行桜」とは法輪寺の少し南に
ある西光院の西行桜のことだったようです。
画像は勝持寺の西行桜と紅葉です。
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