190522生地・大歩危ほか
予想だにしていなかった展開で急遽、生地の愛媛県に帰省することにした。
西宇和・三崎半島にある寒村が我が生地である。
昭和30年過ぎから過疎化が始まり、現在の人口数は当時の5分の1程度と聞く。
現在人口は300人程度ではなかろうか?
戦後すぐの日本の人口が7000万人程度だったと思う。その人数が急激に膨張する
過程で、徐々に人口が減少した地域もあるということだが、私の生地もその一つだ。
それはそれとして、7か月ぶりの帰省。係累もすでに一人もいなくなり、帰省する
頻度も少なくなった。それにも関わらず、やはり生地というものは、私そのものが
象嵌されている場所でもあり、生地のどこを見たり歩いたりしても、過去の私が
現在の私にまつわりついてくるような錯覚さえ覚える。良い悪いなどでは語れない場所だ。
ごくごく短い時間の滞在。すでに住むべき家とてないのが現実であり、いろんな思いを
残しながら短時間で生地を後にする。花はママコノシリヌグイ。群生していた。
次に向かったのは徳島県三好市大歩危。渓谷美で有名な所である。
若い頃から一度は行きたかったが、不思議とこれまでに行く機会がなかった。
大歩危駅の少し手前の善通寺は歩き回ったこともあり、金毘羅宮の奥宮までも登って
いるので、その時に行けば良かったという思いを抱えていた。
広範囲にわたっての観光は歩いたりバスでは無理なので、祖谷渓タクシーさんの
お世話になる。これが良かった。短時間のうちに名所をほぼ見て回った。
それにしても、現在の秘境とも言うらしい厳しい環境の中で生活してきて、
長い歴史を紡いできた人々に対しては、ただそれだけで崇敬の念を覚えたりする。
24日の昼、大歩危に別れを告げて、JRを乗り継いで京都府の北部。
久しぶりに係累と逢って、久闊を叙しあう。それにしても老いたものだと、互いを思う。
この短い旅の画像は下にあります。良い写真は撮れていないのですが、よろしければどうぞ。
私は人様のお顔の写っている写真は出さない主義ですから、人物画像は出していません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます