【勝持寺 02 花の寺幻想】
桜の盛りの一日に勝持寺を訪ねた。
勝持寺は京都市西京区大原野にあって、正しくは「小塩山大原院勝持寺」といい、
またの名を「花の寺」ともいう。
同寺が花の寺として洛中に喧伝されたのは、貞治年間に佐々木道誉が観桜の宴を
催してからであるらしい。この、ばさら大名観桜のくだりは太平記に詳しい。
それより以前、源平に代表される武家集団が勢力を強めはじめた平安末期に
『北面の武士、佐藤義清は当寺で出家、剃髪して名を西行と改めた。
西行は一株の桜を植えて愛でていたので、その桜を人々は西行桜といい、
勝持寺を花の寺と呼ぶようになったという。』
(『』内は勝持寺発行の栞より引用)
しかし今から八百年も昔のことであり、信用するに足る第一級の資料も残存して
いないらしく、西行は勝持寺で落飾したかどうか、その真相は不明のままで
あるらしい。また、西行手植えの桜は一株だったのか
(西行桜、堂前の左右にあり。「都名所図会」)
と古書にみえる。これもすでに真偽はつまびらかではない。
ともあれ現在もやはり花の寺で、境内には三百本以上にも及ぶという山桜があり、
花の盛りの頃には全山が花また花のすばらしい景観を見せる。堂前には
「西行桜」の呼称を受け継いだ若い枝垂れ桜もある。
正徳元年(1711)に出版された「山州名跡志」巻の十に
(西行桜、ただし、この樹今は亡し)
とあるので、現在の西行桜は呼称のみを受け継いだ何代目かの西行桜
なのだろう。公式には三代目とのことであるが・・・。
西行の個人和歌集である「山家集」や八番目の勅撰の新古今和歌集に収録されて
いる歌を読むと、西行は生得的といってよい卓越した感性の持ち主であることが
実感できる。
その歌風はいたずらに技巧に走る事はなく、むしろ芸術的虚構性などを排する位置での、
感情の自然な朗詠である。対象の具有する特殊な態様に触れて、西行その人自身に
生起する情動を極めて直裁に披瀝する傾向の歌風である。次の二つの歌にも、それが
如実に見てとれる。
身をわけて 見ぬこずゑなく つくさばや
よろずの山の 花の盛りを
ねがはくは 花の下にて 春死なん
そのきさらぎの 望月のころ
ーそのきさらぎの望月のころーという語句については、釈迦に関する歌としての
解説が必要なのだが、しかし何の知識がなくともスムーズに読める歌である。
藤原定家は、いみじくも自身を「歌作り」と卑下し、西行に「歌詠み」の尊称を与えたと
いうが、先述の二つの歌だけでもそれは充分にうなずける事である。三十一文字の作品の中に
西行固有の叙情が濃密な展開をみせており、しかも言葉の流れに無駄がない。よどみがない。
乱れがない。
強くもなく弱くもない春のやわらかな陽射しを浴びて、私は勝持寺の満開の桜花の
ただなかにいた。今を盛りと咲ききっている桜花は、それ自体が確かな生命体として、
むせかえりそうなほどに匂いたっている。あたり一面の世界に、晴れやかで、のどかで、
そして少しばかり淫蕩な気配がみなぎっていて、時間は止まっているようにさえ感じる。
あるいは、爛漫の桜の樹の根方には、夥しい時間の堆積する茫洋とした海が、
ひそかに広がっているのかもしれない。いや、この桜のかもし出す世界その物が、
一つの海であるのかもしれない。もしもそのように知覚するなら、西行に比肩しうる
才質を持たない凡庸な私は、この一春に、桜の世界に酔ったままにひとり静かにこの海に
沈みこんでしまいたいと思う。何ひとつ残すこともせずに・・・・。
「ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!『梶井基次郎「桜の樹の下には」』
そのように思わせるほどに、桜の絢爛とした妖しさは人を狂わせる。この狂おしい
ひとときに、
ほとけには 桜の花を たてまつれ
我が後の世を 人とぶらはば
私もまた、この歌を詠んだ西行の心境に著しく親しいものを覚えている。
若年の出家・遁世、歌を詠みながらの漂泊が西行にとっての必然であり、それが当為の
現象であったのなら、それは彼をして時間そのものへの相対、あるいは反逆ではなかったのか?。
自身の肉体さえをも貫いて流れて行く時間の上を漂泊する旅人として、明晰な
意識を持ちながら、同時に狂おしい海の深みにいたのだろう。
私も四十年という時間に犯されたままに、私だけの海で漂ってはいるのだが、
しかし、ああ・・・。
「八十八年四月」
(もう大昔に書いたものです。2011.06.21)
桜の盛りの一日に勝持寺を訪ねた。
勝持寺は京都市西京区大原野にあって、正しくは「小塩山大原院勝持寺」といい、
またの名を「花の寺」ともいう。
同寺が花の寺として洛中に喧伝されたのは、貞治年間に佐々木道誉が観桜の宴を
催してからであるらしい。この、ばさら大名観桜のくだりは太平記に詳しい。
それより以前、源平に代表される武家集団が勢力を強めはじめた平安末期に
『北面の武士、佐藤義清は当寺で出家、剃髪して名を西行と改めた。
西行は一株の桜を植えて愛でていたので、その桜を人々は西行桜といい、
勝持寺を花の寺と呼ぶようになったという。』
(『』内は勝持寺発行の栞より引用)
しかし今から八百年も昔のことであり、信用するに足る第一級の資料も残存して
いないらしく、西行は勝持寺で落飾したかどうか、その真相は不明のままで
あるらしい。また、西行手植えの桜は一株だったのか
(西行桜、堂前の左右にあり。「都名所図会」)
と古書にみえる。これもすでに真偽はつまびらかではない。
ともあれ現在もやはり花の寺で、境内には三百本以上にも及ぶという山桜があり、
花の盛りの頃には全山が花また花のすばらしい景観を見せる。堂前には
「西行桜」の呼称を受け継いだ若い枝垂れ桜もある。
正徳元年(1711)に出版された「山州名跡志」巻の十に
(西行桜、ただし、この樹今は亡し)
とあるので、現在の西行桜は呼称のみを受け継いだ何代目かの西行桜
なのだろう。公式には三代目とのことであるが・・・。
西行の個人和歌集である「山家集」や八番目の勅撰の新古今和歌集に収録されて
いる歌を読むと、西行は生得的といってよい卓越した感性の持ち主であることが
実感できる。
その歌風はいたずらに技巧に走る事はなく、むしろ芸術的虚構性などを排する位置での、
感情の自然な朗詠である。対象の具有する特殊な態様に触れて、西行その人自身に
生起する情動を極めて直裁に披瀝する傾向の歌風である。次の二つの歌にも、それが
如実に見てとれる。
身をわけて 見ぬこずゑなく つくさばや
よろずの山の 花の盛りを
ねがはくは 花の下にて 春死なん
そのきさらぎの 望月のころ
ーそのきさらぎの望月のころーという語句については、釈迦に関する歌としての
解説が必要なのだが、しかし何の知識がなくともスムーズに読める歌である。
藤原定家は、いみじくも自身を「歌作り」と卑下し、西行に「歌詠み」の尊称を与えたと
いうが、先述の二つの歌だけでもそれは充分にうなずける事である。三十一文字の作品の中に
西行固有の叙情が濃密な展開をみせており、しかも言葉の流れに無駄がない。よどみがない。
乱れがない。
強くもなく弱くもない春のやわらかな陽射しを浴びて、私は勝持寺の満開の桜花の
ただなかにいた。今を盛りと咲ききっている桜花は、それ自体が確かな生命体として、
むせかえりそうなほどに匂いたっている。あたり一面の世界に、晴れやかで、のどかで、
そして少しばかり淫蕩な気配がみなぎっていて、時間は止まっているようにさえ感じる。
あるいは、爛漫の桜の樹の根方には、夥しい時間の堆積する茫洋とした海が、
ひそかに広がっているのかもしれない。いや、この桜のかもし出す世界その物が、
一つの海であるのかもしれない。もしもそのように知覚するなら、西行に比肩しうる
才質を持たない凡庸な私は、この一春に、桜の世界に酔ったままにひとり静かにこの海に
沈みこんでしまいたいと思う。何ひとつ残すこともせずに・・・・。
「ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!『梶井基次郎「桜の樹の下には」』
そのように思わせるほどに、桜の絢爛とした妖しさは人を狂わせる。この狂おしい
ひとときに、
ほとけには 桜の花を たてまつれ
我が後の世を 人とぶらはば
私もまた、この歌を詠んだ西行の心境に著しく親しいものを覚えている。
若年の出家・遁世、歌を詠みながらの漂泊が西行にとっての必然であり、それが当為の
現象であったのなら、それは彼をして時間そのものへの相対、あるいは反逆ではなかったのか?。
自身の肉体さえをも貫いて流れて行く時間の上を漂泊する旅人として、明晰な
意識を持ちながら、同時に狂おしい海の深みにいたのだろう。
私も四十年という時間に犯されたままに、私だけの海で漂ってはいるのだが、
しかし、ああ・・・。
「八十八年四月」
(もう大昔に書いたものです。2011.06.21)
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