おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

181028 粉河寺から高野山

2018年11月09日 | 京都

181028 粉河寺から高野山

まずはじめに山家集から引く。

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 小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。おなじ院の

帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、分けおはしたりける、

ありがたくなむ。歸るさに粉河へまゐられけるに、御山よりいで

あひたりけるを、しるべせよとありければ、ぐし申して粉河へ

まゐりたりける、かかるついでは今はあるまじきことなり、吹上

みんといふこと、具せられたりける人々申し出でて、吹上へおはし

けり。道より大雨風吹きて、興なくなりにけり。さりとてはとて、

吹上に行きつきたりけれども、見所なきやうにて、社にこしかき

すゑて、思ふにも似ざりけり。能因が苗代水にせきくだせとよみて

いひ傳へられたるものをと思ひて、社にかきつけける

◎ あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
         (岩波文庫山家集136P羇旅歌・新潮748番)
 
◎ なみかくる吹上の濱の簾貝風もぞおろす磯にひろはむ
         (岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1193番)
 
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ここに記述のある「御山」とは高野山のこと。「小倉」は京都の嵯峨野。

「天野」は高野山のふもとの天野の里。「吹上」は和歌山市の県庁のある場所。

要するに西行法師は高野山を出て天野に立ち寄り、以後は粉河寺→吹上→

和歌の浦と経巡ったという記述。(のちに和歌の浦にも行ったという記述があります)

途中に何泊かしての女性連れの小旅行だったものでしょう。

粉河寺からは吹上→和歌の浦の方へはほぼ平坦な地形だとは言え、歩いて

行くにはちょっと遠い。
 
私は逆のルートをたどったのだが全行程を歩いては無理なので電車を乗り継いでの

ものである。


「粉河寺」は感じの良いお寺であった。京都の街中のお寺などから見たら広すぎる寺地である。

手入れも行き届いていて気持ちが良い。
 
 
 

高野山に行き、京都に戻る時間も考えて1時間程度を費やしただけで駅に戻り高野山にと向かう。

高野山には20歳ころに一度のみ上がったのだが、記憶は風化していて非常に断片的だ。

高野山自体もこの半世紀の内に大幅に変わったものと思う。


西行は高野山でほぼ30年を過ごした。山に籠って、ただひたすらに仏道修行に明け暮れた

訳ではなくて、高野山を拠点として多くの場所に足跡をしるしている。

仏道に専心した僧ではなくて非常に活動的な僧侶であった。西行が建築に携わった蓮華乗院の

跡地に現在は大会堂とう堂宇が建っていて、なんとなく彼の活動を偲んだ気にもなる。         

ただ、高野山という仏教の最も大きな聖地については私にはわからないとしか言えない。

私の理解を超えているからだろう。

高野山と粉河寺の画像、そして11/03日の植物園画像も合わせて出します。

ワンドライブをご覧願います。最後は郭公でしょうか?ホトトギス?留鳥?

181028高野山ほか

 

                            




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