おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

北野天満宮の梅 (1)

2009年03月06日 | 09年京都

 北野天満宮のある辺り一帯を北野といいます。平安京大内裏の北側に位置
 するので北野という地名になったとのことです。北野天満宮ができる以前は
 朝廷の放牧地でもあり、また、右近の馬場があって競馬を開催していた事が
 いくつかの文献からも分かります。他には、天神地祇(てんじんちぎ)を祀る
 聖地でした。天神地祇とは全ての神という意味ですが、農耕神でもある雷神
 も早くから信仰されていました。
 天満宮ができたのは950年頃です。本格的な造営は959年、藤原師輔が神殿を
 建立してからのようです。祭神は903年に大宰府で死亡した菅原道真です。
 道真の霊を怨霊として、それを鎮めるために祀ったのが始まりです。
 この北野天満宮は創建当初からいろいろありすぎて、私の筆力では短くまと
 めあげることはできません。以下、断片的に記述します。
 北野天満宮もたびたび火災に遭っています。現在の社殿は豊臣秀頼が造営した
 ものが殆どといわれます。1607年の造営といわれます。
 豊臣秀吉の築造した御土居が現在も境内西側に残っています。
 北野天満宮(菅原道真)は早くから学問の神様として慕われていて、1204年に
 後鳥羽院、定家、家隆、良経などが北野宮歌合をやっています。時代が下がっ
 てからは連歌の興行がたびたびなされました。現在は全国から献詠された和歌
 が10月29日に披露される(余香祭)があります。
 また、芸能との関係も深く、舞楽、猿楽の興行もたびたび行われました。
 出雲阿国が1603年3月に歌舞伎踊りを演じたのもこの北野天満宮なので、北野
 天満宮は歌舞伎発祥の地ともいわれます。
 秀吉が北野大茶会を催したのもここでした。1587年のことです。
 現在、管公菅原道真の忌日にあたる2月25日に梅花祭があります。ただ、
 新暦に直せば3月16日ですから、2月25日とは半月以上違います。


東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
        菅原道真 (拾遺集)

初めの画像及び多くの画像は北野天満宮梅苑内。最後はヒヨドリでしょう。


 
















梅宮大社(3)

2009年03月01日 | 09年京都
梅宮大社(3)
結局、梅宮大社には一時間少しいただけで帰路につきました。上から三枚は梅宮大社で撮影。
三枚目はヤマブキでしょうか?。
梅宮大社から200メートル程度で松尾橋の東詰め。橋を渡ってから歩いて帰宅しました。
途中で松尾大社の鳥居を入れて二枚撮影。なんとツクシも発見。春らしくなったなーと実感します。
最後の画像は枝垂れの紅梅です。梅なのにこれほど花をつけていることに驚きました。

















梅宮大社(2)

2009年03月01日 | 09年京都
梅宮大社(2)
梅宮大社の神苑はそれほど広いわけではありません。
しかし京都有数の梅の名所として、この季節はそれなりに賑わいます。
平安時代の和歌では梅津川を詠んだ歌はありますが、梅宮大社を詠んだ歌はないようです。

さらにいま花咲く梅の宮ばしら立てても千代のさかりをも見め
           新後拾遺集 慶有
 《「都名所図会」から抜粋》

画像は全て梅宮大社神苑での撮影です。

















梅宮大社(1)

2009年03月01日 | 09年京都
梅宮大社(1)
梅宮大社は右京区梅津に鎮座する古刹です。嵯峨の南、桂川の東にあたります。
このあたりは平安時代は沼沢地だったようです。

梅宮大社の起源についてはよくわかっていないようですが、古代豪族の橘氏の氏寺と
言って良いようです。嵯峨天皇の正室である橘嘉智子「壇林皇后」が綴喜郡井手町から
この地に勧請したというのが定説として信じられています。

以来、橘氏及び橘氏の関係者が管掌してきたとのことです。
延喜式では名神大社で、洛西では秦氏の松尾大社と並ぶ大社として栄えましたが、
橘氏の衰退、兵乱、水害などで寺勢が衰えたということです。

梅宮大社は橘氏や嵯峨天皇を祀ってもいますが、「酒解神」なども祀っていますので、
こもかぶりが多いです。「日本第一酒造の祖神」とあります。

一枚目は鳥居、二枚目は楼門。なんと楼門にもこもかぶりを飾っています。
三枚目は境内の一角にあるこもかぶり。四枚目は境内の白梅。後は500円を払っての
神苑の中での撮影です。