DAVID BOWIE がMOTT THE HOOPLEに1972年末に提供した曲に、ALL THE YOUNG DUDES(すべての若き野郎ども)がある。
ボウイーによるこの新曲(全英3位)の提供とニューアルバム(全英21位) プロデュースによって、解散寸前だったMOTT THE HOOPLEが息を吹き返した。
ちょっと歌の中身を検証と言うことで、いつもながらの下手な和訳で申しわけ無いが…
Well Billy rapped all night about his suicide
ところでビリーの奴、夜通し奴の自殺についてぺらぺら喋っていがった。
How he kick it in the head when he was twenty-five
25歳にでもなれば、どのように自殺ってのが頭に浮かぶのかを
Speed jive don't want to stay alive
奴らは生き続けたくないんだと
When you're twenty-five
あんたが25歳ならどうなんだ?
And Wendy's stealing clothes from marks and sparks
ウェンディはマークス・アンド・スパークで服を万引き(注:イギリスの小売業のマークス・アンド・スペンサーからクレームが出ないようにと推測?、後日、車のなかから盗むと歌詞が改められた)
And Freedy's got spots from ripping off the stars from his face
フリーディーの野郎は顔から星の刺青を引っ剥がして痣だらけ
Funky little boat race
くだらね~ボートレースのようだ
Television man is crazy saying we're juvenile delinquent wrecks
テレビの奴、俺たちが不良のガキ共だってまくし立てている
Oh man I need TV when I got T. Rex
まあ、T.Rex観るのにはテレビいるんだけどなー
Oh brother you guessed
あんたが思った通り
I'm a dude dad
俺はやつらの親父みたいなものさ
All the young dudes (hey dudes)
すべての若き野郎ども!(野郎共!)
Carry the news (where are ya)
発信しろ!(何処にいるんだ!)
Boogaloo dudes (stand up come on)
のんびりした野郎ども!(さあ立ち上がれ!)
Carry the news
発信しろ!
All the young dudes (I want to hear you)
すべての若き野郎ども!(聴いて欲しい)
Carry the news (I want to see you)
発信しろ!(会いたいんだ)
Boogaloo dudes (and I want to talk to you all of you)
のんびりした野郎ども!(お前らみんなと話がしたい)
Carry the news
発信しろ!
と一番だけを訳してみたところ、25歳で自殺する奴や、周りでもまったくさえない若者が数多く見られる世の中で、大人たちも声を大にして彼らを非難するわけだが、その状況に埋没しないで、自身を現し主張せよ!、そう若者よ発信せよ!(CARRY THE NEWS)と唱える、若者に対する応援歌のようにも聴こえる。
2番以降の歌詞を吟味していないので良くわからないが、ルー・リードらよると、ゲイの賛歌としても捉えられているようだ。
だが、ボウイーによると、半年前に出したアルバム、ジギー・スターダストに収録された5YEARSと言う曲に、地球は5年以内に崩壊すると歌った内容に反応し色々な情報を発信した少年たちについて書いたものだとか…
1番の歌詞を素直に読めば、Boogaloo dudes、(ゆるゆるの野郎)という言葉に特に反応して、私としては怠惰に過ごす諸君!発信せよ!と聴こえる。
と言う訳で、シコシコと読んでもらえるかどうか解らない記事を不定期ではあるが発信しているのである。
何ですって!
ボウイーは若者(YOUNG)の野郎どもに対してそう歌っているのであって、決して不良のおっさん向けではないって!
では、タイトルをALL THE YOUNG DUEDSからOLD AND YOUNG DUDESに是非変えていただこう~
もしもし、ボウイーさんちょっとお話が。
あの~、ボウイーさんあちらで忙しくされていて、ちょっとコンタクト取れないんですが…
遅まきながら、R.I.P. ボウイーさん
David Bowie - All the Young Dudes
デビッド・ボウイーが亡くなって、来週で2カ月となる。時が過ぎ行くのはなんと早きこと。
久々に手に取った彼のアルバムが1978年のライブ盤“ステージ”。
基本的に、グラム時代を締め括った“ダイヤモンドの犬”以降のアルバム、ヤング・アメリカンからヒーローまでを中心とした選曲されているのだが、そこに唐突ではあるが“ジギー・スターダスト”からも5曲が披露され、ノスタルジックな味わいも楽しんでもらおうと言う構成になっている。
プラスティック・ソウルやベルリン時代からファンとなりコンサートに来た人もいるかも知れないが、当然昔からファンだった人もそこに来ていただろうと思うわけで、 やっぱりライブには馴染みの曲も必要と考えたのだろう。
昔、よく尖っていると言われたアーティストであれば、“古い曲はやらねーよ、新しいのを楽しんでってくれー”と我儘を言ってしまうのだが、さすがはボウイー、よく分かってらっしゃる。
オリジナルは2枚組のレコードとして発売され、景気付けという意味なのか、懐かしのジギーからの5曲が、一枚目のサイドー1、すなわちアルバムの頭にすべて収められている。実際のコンサートのセット・リスト通りにベルリン時代の楽曲からスタートするアルバム編集となると、全体的に暗く地味に聴こえるのではと危惧したのだろうか?
2005年にボーナス・トラックを付けリマスターされたCD2枚組が発売された。それは、コンサートのセット・リスト通りの収録に変更され、一曲目のインスト・ナンバーのワルシャワがクラッシックの序曲のように静かにゆっくりと進行し、コンサートが始まる。
やはりコンサート通りの進行で収録されたCDは臨場感があり、徐々に盛り上がっていく様子が伝わるのではないかと…
アルバム・チャートを見ると、全英5位を獲得したのだがアメリカでは44位と振るわなかった。
1974年に“ダイヤモンドの犬”のツアーの模様を収録した“デビッド、ライブ”が8位だったことから、どうもアメリカ人は派手なボウイーを好むようであり、ヨーロッパのリスナーとの嗜好の違いがチャート・アクションによく表れていて興味深い。
ちなみに、発売当時購入したのはEMIから出たヨーロッパ仕様のCDで、米盤(バージン・レーベル)に付属していたブックレットはなく、蛇腹式の特殊パッケージの裏表に写真や解説を載せている。
また、英EMI盤は当時悪名高かった、コピー・コントロール・CD(CCCD)での販売で、意図的に間違ったエラー訂正コードをCDのデーター内に埋め込み、従来のCDプレーヤーの読み取り補正を十分に機能させない仕組みとなっていた。(読み取りエラー仕向けてPCにリッピングさせない仕組み)
当方所有のPCではこのCCCDは問題なくアイチューンに取り込むことが出来たのだが、それらの音源のデーターが正確にリッピングされたかどうかは定かではない。
10数年前、違法ダウンロードによりCDの売り上げが落ち込むことを業界は恐れ、CCCDなるものが登場したが、今や16ビットのCDは時代遅れの規格で、さらにハイレゾ・ダウン・ロードでさえ手間になるとのことで、ストレージ不要のストリーミング配信が今後主流となるかもしれない時代へと突入した。
10年ひと昔とはよく言ったもので、当時の最新のコピー防止機能を持ったCCCDの登場なんて今は昔、ボウイーのこのアルバムを手に取ると、時が経つのはあっと言う間だと実感する。
“ステージ”ってアルバム、ついこの間買ったような気がするのだが…
初めて聴いた時の印象は、アメリカン・バンドじゃないかと感じた。
1971年MOTT THE HOOPLEがアイランド・レーベルから出した4枚目のスタジオ・アルバムBRAIN CAPERSである。
当初の仮タイトルは、ロックなナンバーとスローなナンバーの2面性があるということでAC/DCであったが、収録後に、BIZARRE CAPERS(奇妙に跳ね回っている連中)とBRAIN DAMAGE(脳損傷)の二つのアルバム・タイトルが浮かび、中をとってBRAIN CAPERSとなったそうである。なんといい加減で意味不明な…
プロデューサーのガイ・スティーブンスが、個人的な意向でストーンズとボブ・ディランをミックスしたようなロック・バンドを作ってみたいということから、MOTT THE HOOPLEの前身バンドのボーカルを個性的な歌い方をするイアン・ハンターに差し替え、1969年にスタジオ・アルバム、MOTT THE HOOPLEを制作しデビューさせた。
今回のアルバムは、ライブ感の溢れるストレートでラフな演奏をするアメリカ志向のロック・バンドという印象である。
しかし、アメリカで受けてイギリスで全く受けないケースなどはよくあることで、残念ながらアルバムの出来の良さや熱狂的なライブ活動で、カルト的なファンは付いてきてくれたものの、アルバムのセールスには繋がらず、1971年の時点で解散する方向に向かっていた。
その後ファンだったデビット・ボウイーの助けも借り、解散せずにコロンビア・レーベルに移籍し出したアルバム、ALL THE YOUNG DUDESがイギリスでよく受けたみたいで大ヒットとなった。まあ、同じバンドでもプロデュースの仕方でこれほどまでに変化するのかと非常に興味深い。
彼らのどの時期のサウンドが好みかは、意見の分かれるところで、聴く人のそれぞれの音楽の嗜好によって変わるのであるが…
イアンは、たった5日間のやっつけ仕事のような期間で制作されたBRAIN CAPERSについては、セールスが良くなかった理由もあったのか、それほど気に留めなかったと言っていたのだが、 後日それを改めて聴いてみると意外にもご機嫌になり、今までの活動の中でも良い出来だと思い直したとも言っている。
ライブでの大騒ぎと穏やかなスタジオ録音の中間を狙った、HAPPY MEDIUMと彼は称している。つまり、スタジオ録音でありながらライブに近いMOTT THE HOOPLEを楽しむ事が出来るのではと言っている。
興味のある人は、是非御一聴をと言いたいところだが、オリジナルがほとんど売れなかったので、 再発CDのプレス量も多くはなく、名盤といわれている割にはなかなか手に入らないのが難点である。コロンビア時代のものは安価で結構出回っているのだが…
それから、びっくりしたのはイアンが1939年生まれだとわかったことである。何と御歳、76歳なのである。
2009年に40周年再結成ライブを行い、2013年にも同様のものをやっているし、自身のバンド活動も2015年時点で継続している。
歳を取っても楽器はこなせる人が多いが、この人の場合は昔と比べると声量は落ちたかもしれないが、ハード・ロック・バンドの現役ボーカリストなのである。
1959年にリッチー・バレンス(ラ・バンバで有名)とバディー・ホリーらが飛行機事故で亡くなった日をTHE DAY THE MUSIC DIEDと歌ったドン・マクリーンのアメリカン・パイという曲があった。
MOTT THE HOOPLEは、かって彼らのライブ・アクトでその曲をオープニングに持ってきて、THE DAY THE MUSIC DIEDという言葉を否定する形でTHE GOLDEN AGE OF THE ROCK ’N’ ROLL(ロックン・ロール黄金時代)に繋げ歌い上げた。
そして今でもイアン・ハンターは歌う、ロックン・ロール黄金時代なのだと。
ライブでのSWEET ANGELINEはアップテンポで歌われるハード・ロック・ナンバーのアレンジであるが、BRAIN CAPERSに収録されているスタジオ録音盤は、まるでボブ・ディランが歌っているかのようなミッド・テンポのアレンジとなっている。
Mott The Hoople - Sweet Angeline
ネットでニュースを見ていると、なんとデビッド・ボウイーが死去したニュースが飛び込んできてびっくりした。
ニュー・アルバム、BLACKSTARを出したばっかりで、健在と思っていたのだが…
コアなファンであれば、当時1969年の2作目のオリジナル・アルバム、SPACE ODDITYあたりから彼をよく知っていたと思うのであるが、私としてはやっぱり、72年にステレオを買ってもらった時に遭遇した、5作目の“屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群れ”と邦題がついたTHE RISE AND FALL OF ZIGGY STARDUST AND SPIDERS FROM MARSであろう。
SPACE ODDITY (日本では、このジャケとは違っていた。)
THE RISE AND FALL OF ZIGGY STARDUST AND SPIDERS FROM MARS
おどろおどろしい邦題に腰が引けて、初回盤購入とならなかったのは今思うと非常に残念であったが、そのアルバムに収録されたSTARMANは私にとって非常に耳に馴染む曲で今でもよく聴く定番中の定番である。
ボウイーは、ファン離れを恐れず、いとも簡単に音楽の方向性やビジュアルを常に先取りし変化させ自身の道を突き進んでいったわけだが、私としてはジギーのスタイルをもう少し継続させてくれればと思った。
なぜなら、ZIGGY STARDUSTの次に好きなアルバムが1974年7作目の同路線最終作であるDIAMOND DOGSなのである。当時金欠で、レコードを購入する事が出来ず、深夜のFM放送をエヤ・チェックしアルバムをこの時のために採っておいたダイナミック・レンジの広いメタル・テープに録音した記憶がある。今ならアマゾンでの余裕のポチッでいとも簡単に購入できるわけだが、当時はこれしかなかった。
DIAMOND DOGS
ベルリン三部作がボウイーの頂点だと思っている人達からは、“何寝言言ってんの!このおっさん。寝言は寝てから”と言われるのだろうが…
それから、1971年作のHUNKY DORYも捨てがたい。
HUNKY DORY
その昔仕事でパリ郊外の客先にタクシーで向かっていた時、ラジオから不意にそのHUNKY DORY に収録されたCHANGESという曲が流れた。
“ヘェー、フランス人も結構英語の曲聴くんだな”とその時思った。
なぜなら、日本人が行かないような街のこじんまりしたレストランに入った時、そのレストランのお客も含めて全く英語が通じなく往生した経験があり、当然のごとく、大学の教養課程で選択したフランス語で覚えた怪しい発音のコマンタレ・ブー、コムシ・コムサー程度では全く使い物にならなかった。
通常仕事の場合は英語を使っていたので、自身の経験上フランス人はある程度英語を喋る事が出来るのでわざと使わないのかと思っていたのだが、実際のところはどうだったのだろうか?
とボウイー繋がりの回想で忘れていた古い話が一気に蘇った。
今夜は、追悼の意を込めてジギー時代のアルバムを一人静かに、いや! 音量は TO BE PLAYED AT MAXIMUM VOLUMEという指示に従いたいと思う。
RIP 、MR. BOWIE
Starman/David Bowie
T. REXの日本盤、SLIDERの付録のライナーには、大森康雄氏が調査及び編纂した年表が記載されている。
そこには、1964年マークは学校を 卒業後、ブティックで2週間働き、その後フランスで魔術師と過ごすと記載されていた。
このことが本当かどうか、今となっては確かめる術はないのだが、少なくともその後の活動において、魔術師絡みと言うかそれに準ずるようなイメージを出そうとしていたことは感じられる。
1967年に、リーガル・ゾノフォーン・レーベルからバンド名をティラノザウルス・レックスとして、パーカション担当のスティーブ・トゥックと2人組でデビューを飾る。
ファースト・アルバムは、MY PEOPLE WERE FAIR, AND HAD SKY IN THEIR HAIR… BUT NOW THEY’RE CONTENT TO WEAR STARS ON THEIR BLOWSと和訳しても何のことかわからないタイトルだが、ジャケットのイラストを見ると少し不気味な空想の世界が描かれている。
また、セカンド・アルバムは、PROPETS, SEERS & SAGES - THE ANGELS OF THE AGES(預言者、先見者と哲学者たち - 代々の天使たち) とこれまたよく分からないタイトルだが、ジャケットは放浪の魔術師という感じの出で立ちである。
アコースティック・ギターとパーカッションの2人組のシンプルなフォークサウンドであるので、エレキギターを使い始めた頃にファンとなった人には少し物足りなく感じるサウンドかもしれない。
しかし、現時点においてリーガル・ゾノフォーン時代に出したCDにアウト・テイクを付けた2枚組のデラックス・エディションなるものが出されていることから、ミュージシャンとマジシャンの境界に存在するようなマーク・ボランのイメージに惹かれるファンが、今尚多く存在するのではないかと想像するのである 。
このブログが始まった今年の2月にすでに2度取り上げたのだが、急に彼らの音楽を聴きたくなりレコードを取り出した。
ご存知1972年発売で、オンタイムで購入したTHE SLIDER国内盤である。
1970年初頭に、所属レコード会社をリーガル・ゾノフォーン・レーベルからフライ・レーベルに変更し、バンド名もティラノザウルス・レックスから、T. REX に変わった。その後人気もさらに高まった頃、自身のレーベル、T. REX WAX COMPANYを設立。その際、 EMIと3年契約を結び、それによって東芝音工が彼らのレコードの日本での販売権を得ることとなった。
イギリスでビッグになったT.REXを日本でも成功させるため、販売プローモーションに力を入れることとなり、その結果日本独自のダブル・ジャケット仕様と大盤振る舞いとなった。
内ジャケットのデザインは、表ジャケットに記載されたバンド名と同じ朱色を全面に使い、 その上に英文の歌詞が記載されている。あまり強烈な色使いなので、長く眺めることは出来ない。
また、表紙を含めた12ページのジャケットと同じ色使いのライナーが付いてくる豪華な仕様である。しかしライナーの内側は、同じ朱色が使われているのでこれまた長時間眺めると目が痛くなる。
白黒のポスターもアルバムに封入されていたとか聞いたことがあるが、行方不明みたいで見当たらない。その代わり、女子中学生が描いたような意味不明のイラストが付いていた。
この特別版のライナーには、3ページに渡ってバンドのヒストリーが書かれていて、これが突っ込みどころ満載で興味深い。
1947年9月30日 マークボラン誕生:何~!もし生きていたら、68歳に成るのか…
1964年 学校を卒業。卒業後、ブティックで2週間働く。その後フランスで魔術師と過ごす 。:何~! わずか17歳でフランスに渡るのは、凄い行動力だが、魔術師と過ごすって、意味不明。
1968年9月 ピンク・フロイドとアメリカの大学に公演旅行:初期はアコースティックギターとパーカッションのみのシンプルでまったりしたフォーク調アレンジだったから、サイケ時代のフロイドと一緒に公演を行なったのはなんとなく分かる気がする。
1970年 12月 初めてのエレクトリック・アルバム、T. REXを発売。:オー! ここで、アコースティック・サウンドに別れを告げるのか…
1970年6月 イタリアのテレビ出演後、病気になる。:誰でも一度は病気になる。
1971年10-11月 イギリス・ツアー中にギター3本が盗まれ、これらのギターの発見者に500ポンドの賞金。:今なら9万5000円だが、当時の500ポンドは非常に価値があったかと…
1971年11月 搭乗した飛行機に爆弾が仕掛けられたという噂があり、飛行機が飛行場に引き返す。:御難続きで…
1971年11月 フライ・レーベルがマークの許可なしに、シングルJEEPSTARを発売:フライ・レーベルとの契約を更新しないことから、仕返しみたいな形で勝手に出されたみたいで、この業界ではよくあること。
1972年1月 T. REX WAX COMPANYを設立。:儲けを第三者に多く渡らないようにする自衛手段。
1972年2月 シングル、TELEGRAM SAM、英国で1位獲得:さすが!
1972年2月 アメリカ公演:シカゴ公演で前座のURIAH HEEPがメインのT.REXを食ってしまったとか? 確かに当時のURIAH HEEPの方がアメリカ受けすると思う。それに、ライブでは、トニー・ビスコンティの鋭いストリングスや例の甲高い裏声のコーラスが入らない、4人組のシンプルな編成(ギター、ベース、ドラムそしてパーカッション)だった。そのためURIAH HEEPと比べた場合、どうしても音のバリエーションに欠け、アメリカ受けしなかったのでは? と思う。
1972年5月 シングル、METAL GURU英国で3週間トップとなる。:確かに、この曲は何度聴いても飽きない。
1972年5月 カンヌのリンゴのヨットで、リンゴやジョージと一緒に休暇を楽しむ。:T. REXの映画にリンゴが登場したり、リンゴのアルバムにマークが参加したり、結構仲がいいみたい。
1972年7月 アルバム、SLIDER発売:先行シングル2作が1位獲得の後、満を持してのアルバム発売。 全英4位、全米17位。なぜか、イギリスでは、前作のアルバムELECTRIC WARRIER(全英1位)より順位を落とす。
この後、21世紀少年を含むシングル4枚を全英チャートのトップ5に送り込むが、アルバムは、SLIDER以降売り上げはパッとしなくなる。
今日の結論:学校卒業後、17歳でフランスに行き魔術師と過ごすなんて、プロになる前からぶっ飛んでいた、マーク少年であった。
SLIDERのジャケットに使われている朱色といえば、日本では神社の境内にある建築物に魔除けとして使われる色である。
マーク少年がフランスで魔術師から教わったことなのだろうか? といつも通りいい加減なことを言って終わることにする。
T. Rex - Metal Guru
コロンビア・レーベル時代の3部作が、成功した後イアン・ハンターとミック・ロンソンが脱退し、その後、彼ら二人が中心となって、イアン・ハンターのソロ名義として出されたアルバムを紹介する。
それが、1975年のアルバム、IAN HUNTERで全英21位/全米50位、と、シングルONCE BITTEN TWICE SHYは全英14位とそれぞれランク・インした。
イアン・ハンターとミック・ロンソンのコラボは、残念ながらこれ一枚で終わる。
イアン・ハンターは、その後は完全なソロ活動に専念し、一方ミック・ロンソンは、この後多くのミュージシャンのアルバムのセッションに参加している。
有名なところでは、ジョン・メロンキャンプのアルバム、AMERICAN FOOLのJACK & DIANEやEX-BYRDS、1978年ロジャー・マッギンのソロ・アルバムCARDIFF ROSEなど典型的なアメリカン・サウンドのアーティストをサポートしている。
それから、特に驚いたのは、1972年、まだデビッド・ボウイーのアルバムに参加していた頃、アメリカのカントリー・ロック・バンド、PURE PLAILY LEAGUE のセカンド・アルバムにゲスト参加したり、1975-1976年のディランのローリング・サンダー・レヴューに参加し全米をディランと一緒に回っていたことだ。
このアルバムのアレンジはミック・ロンソンが担当していて、しっとりとしたデビッド・ボウイーが歌うような感じのスローな曲も数曲収録されてはいるが、基本的にアメリカを意識したサウンドで、MOTT THE HOOPLE のサウンドよりは軽い感じのロックン・ロールが中心である。
ミック・ロンソンの二刀流のアレンジがよく表れているアルバムではないかと…
IAN HUNTER - ONCE BITTEN, TWICE SHY
前作、MOTTに続くアルバム、THE HOOPLE が1974年に7枚目のアルバムとして出され、前作と同様に全英11位/全米28位とヒットした。
脱退したキーボードのヴァーデン・アレンの代わりに、サポート・メンバーであったモーガン・フィシャーが正式メンバーとなり、また同じく脱退したギターのミック・ラルフスもEX-SPOOKY TOOTHのギタリスト、エリアル・ベンダーに変わり、5人組となった。
モーガン・フィシャーのピアノも冴え、エリアル・ベンダーのドライブの効いたエネルギシュなギターもハードなMOTT THE HOOPLEのサウンドにはぴったりはまり、更なるバンドの成功が期待された。
しかしながら、イアン・ハンターの作るスローなバラードなどバラエティーに飛んだ楽曲にエリアル・ベンダーのギターが全てマッチするかというと、そうでもない。
結局、エリアル・ベンダーは脱退し、代わりにデヴィド・ボウイーのバックを務めたスパイダースのミック・ロンソンが新たに加入した。
当時のライブでは、“ロックは死んだ”とドン・マクリーンのアメリカン・パイを歌った後、メロディ形式でロックの黄金時代がやってきたとロックンロール黄金時代(THE GOLDEN AGE OF ROCK ‘N’ ROLL)を高らかに歌っていた。
しかし、その後、次作を作る前にイアン・ハンターとミック・ロンソンはバンド内の軋轢からか二人とも脱退し、残りのメンバーがバンド名をMOTTと変更し再出発したが不発に終わった。
MOTT THE HOOPLEの黄金時代は終わる。
いやちょっと待った!
ミック・ラルフスを含むオリジナルのメンバーが揃い、2009年と2013年(この時はドラムはサポート・メンバーが担当)にリユニオン・ツアーを催し健在をアピールした。
そう! 簡単にロックは死なないのである。
Mott the Hoople - The Golden Age of Rock and Roll
前作、ALL THE YOUNG DUDESのヒットにより、息を吹き返したMOTT THE HOOPLEは、翌年の1973年、6枚目のアルバム、THE MOTTを出し快進撃を続け、全英7位/全米35位とさらなる躍進を果たした。
UK盤のジャケット
アイランド/アトランティック時代、結構素晴らしいアルバムを制作したのにもかかわらずヒットはしなかった。レーベルを変えた途端急に売れるようになったのは何故なのか、非常に不思議に感じる。
このアルバムの一曲目のAll THE WAY FROM MEMPHISは、MOTT THE HOOPLEらしいロックナンバーで、自身のギターが、運送中間違って他の場所に送られてしまった事の顛末が歌詞の中心になっているが、サビの部分に急に有名になって少し戸惑っていたのか、自重気味のフレーズが興味を引く。
YOU LOOK LIKE A STAR BUT YOU’RE STILL ON THE DOLE(スターになったように見えるけど、まだ失業手当を受けている。)、YOU CLIMB UP THE MOUNTAINS AND YOU FALL DOWN THE HOLES(山に登った途端、穴に落ちる。)、 YOU’VE GOT TO STAY YOUNG, YOU CAN NEVER GROW OLD(若き青年であるべきだが、決して歳を取って成長しない。)とか YOU LOOK LIKE A STAR BUT YOU REALLY OUT ON PAROLE(スターになったように見えるけど、本当は刑務所から出所したばかり。)
今であれば、“心配しなくでください。大丈夫ですよ、売れてます。”と言ってあげれるのだが。
キーボードのヴァーデン・アレンがデモ制作段階で脱退し、4名となった。またのちにバッド・カンパニーでカバーされたれたREADY FOR LOVEを前作で作曲したミック・ラルフスもこのアルバムを最後に脱退しバッド・カンパニーのメンバーとなる。
Mott the Hoople - All the Way From Memphis
そう、リック・ウェイクマンのことです。
マーク・ボラン率いるT.REXのアルバム、“電気の武者”からシングルカットされ全英1位に輝いた“GET IT ON”に、アルバムのクレジットにはリックの名前は見当たらないが、どうもピアノで参加しているとのことです。
あれ? “電気の武者”の英文のライナーには、このアルバムからセッション・プレーヤーを使い始めたと書いてあって、ホーンにはキング・クリムゾンのイアン・マクドナルドを起用、キーボードにはブルー・ウィーバー(エーメン・コーナーというグループ出身で、リックがストローブスからイエスに引き抜かれた後、ストローブスに加入、その後ディスコ時代のビー・ジーズでキーボードを担当する。)となっている。
英文のWIKIには, リックとブルー・ウィーバーの両方が“GET IT ON”でそれぞれ別のパートを弾いていたとなっている。そしてピアノのグリサンド奏法のところはリックじゃないかと書いてある。
本当のところはどうなのかな?
とは言え、プロデューサーのトニー・ビスコンティがこの曲に得意のストリングスを被せたのでピアノの演奏がほとんど目立たなくなっていて、誰がピアノを演奏しても同じような気が~
そのため、アルバムのクレジットからリックを外したのかな?
まあ、マーク・ボランとしては、アルバムがヒットさえすればいいので、誰がどの曲に客演したなんてあまり関心がなかったのかもしれない。
“電気の武者”は“GET IT ON”JEEP STAR MANBOSUNなどボラン得意のブギー・サウンドと、アコースティック・ギターやストリングスを使ったバラードやブルースなどの楽曲などがうまく混ざり会うことによってアクセントがつけられ、アルバム全体が単調にならないよう工夫してある。
プロデューサーがトニー・ビスコンティということで、アコースティック・ギターやストリングスを使ったバラード、特に“COSMIC DANCER”なんかは、彼が1969年にプロデュースしたデビッド・ボウイーのスペース・オデッティー風で、一連のヒットのツボを押さえて制作されたものと思う。おかげでは全英1位となり、日本で19位、アメリカでも32位とチャートに食い込んでヒット・アルバムとなった。
セッション・ミュージシャンとは、誰でも簡単になれるものではなく、プロデューサーのどんな要求にも対応できる高度な演奏能力は最低条件で、そのミュージシャンの参加によってアルバムの格を上げるため、すでにある程度名の通ったバンドもしくはソロとしで活躍していることも必要である。
そういう意味では、当時卓越した演奏技術によりイエスに引き抜かれたリックは、その条件に完全に合致していた。しかしながら、彼のイメージとしてはクラッシックやプログレのサウンドがあったので、もしWIKIの記載通り、ボラン独特の怪しげなボーカルに裏声のバック・コーラス絡むグラム・ロック・ブギーのセッションにも参加していたとしたら、やっぱり驚きますね。
Get It On by T.Rex
今日は、デビッドボウイーの1974年作の“ダイアモンドの犬”というアルバムについてです。
グラム・ロックというジャンルも以前より勢いを落とし、明らかにその終幕が迫って来ていると感じていたのか、その集大成として、イギリス人作家ジョージ・オーウェルの小説1984年を下敷きにしたコンセプト・アルバムの制作を意図していました。残念ながら、故ジョージ・オーウェルの親族からその許可を得られず、半身犬の姿になった自身が近未来の映像を語るというコンセプトに変更され制作されたのがこのアルバムです。
どんなトラブルがあったのかは判らなのですが、このアルバムにはプロデューサーのケン・スコットだけでなく、ボウイーの片腕であったバック・バンド、スパイダース・フロム・マーズのリーダーであるミック・ロンソンも参加していないのです。
ケン・スコットといえば、ジョージ・マーチンの下でビートルズ後期のレコーディングのエンジニアを担当した人で、ビートルズ時代の貴重な経験をもとに計算された音作りをおこなう正統派のプロデューサーであり、一方ミック・ロンソン は、リード・ギタリストとして2作目から前作までのボウイーのアルバム制作に多大な貢献していました。
実際ボウイーを良く知る彼らの参加なしに区切りをつけるようなアルバムを制作するのは、大変ではないかと思ったのですが。
そのため制作において、それまでと異なった革新的手法が必要と考えたのでしょうか、自作自演でセルフ・プロデュースと思い切ったスタイルを取りました。ただし、リズム・セクションは、曲の芯になるため自身では担当せずセッション・ミュージシャンを起用し、幾らかの例外を除き他の楽器はできる限り自身で演奏しました。
確信犯的な試みかどうかは判らないのですが、演奏のヘタウマ感(セッション・ミュージシャンの技量と比べてという意味で)をわざと出すことによって今までと違った音が出せるのではないと考えたのでは? また制作の相棒として録音エンジニアにキース・ハーウッド(この人はスーンズのイッツ・オンリー・ロックンロールのエンジニアを担当)を選び、ケン・スコットのプロデュースとは異なるアイデアの音を狙ったのでは? タイトル曲の“ダイアモンドの犬”や“レベル・レベル”をなど聴けば、ストーンズのようなシンプルでストレートなロックンロールの影響を受けているのが良く分かります。
プログレのような曲の間にシンプルなロックを入れメリハリをつけ、そのわかりやすさが特にアメリカで受け、全米5位にアルバムがランク・インされる程の大ヒットとなりました。
だだ、彼自身も迷っていたのかどうか判りませんが、この後に行われたダイアモンドの犬ツアーで,1966年アメリカのR&Bチャートで1位を獲得した黒人ソウルシンガーのエディー・フロイドのノック・オン・ウッドを取り上げることにより、その時点で今後の音楽の方向性を変えたような気はします。それが引き金となり、ラバー・ソウルならぬ、プラスティック・ソウルと呼ばれるヤング・アメリカンを次回に制作されるのです。
ボウイーの歌詞は難解で示唆に富んだ内容なので、その道の専門家たちがああだこうだと歌詞の内容を掘り下げて小難しいことを言っています。もちろん詩の内容を知らないよりは知っておいた方がいいわけですが、それほど難しく考えないでアメリカ人のようにロックのサウンドにシンプルに反応し楽しむことでいいのではないでしょうか?
このアルバムの“ロックンロール・ウィズ・ミー”というレット・イット・ビーのピアノのイントロのようなコードで始まる曲で、彼は“一緒にロックしてくれれば、自分自身は楽しいが、そうでなければ悲しい”というようなことを歌っています。
David Bowie - Rebel Rebel
David Bowie - Rock N' Roll With Me