CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

新しい日本の行事

2015年10月31日 | 特になし
巷では、ハロウィン・パーティーが流行っているとか。

日本人は、古くはクリスマスやバレンタイン・デーなど日本の文化とは全く関係ない西洋の行事を取り入れてきて、今ではそれらは完全に日本の文化に同化している。

クリスマスになったら、メリー・クリスマスと多くの人が挨拶を交わすのであるが、メリー・クリスマスの意味って、“楽しいクリスマス(キリストの誕生日)を過ごせますように”というような意味で、キリスト教の信者でもない人が使うのは少し違和感がある。

まあ、日本人は困った時の神頼みと称して、助かるのであればお釈迦様以外にも八百万の神に救いをお願いする民族であるから、イエス・キリストも八百万の神の一人と考えれば納得できるのかも…

日本のバレンタイン・デーは、海外の習慣とは全く異なり、女性が恋愛感情を持つ特定の男性にチョコレートを上げ、後日ホワイト・デーなる行事があり、チョコレートをもらった男性がお返しをする。

まあ、チョコレートをあげる対象が特定の男性だけでなく、友人、家族もしくは会社の同僚までに上げるような習慣となり、チョコレート屋さんにとっては、良き日であることは間違いがない。海外では、花、小さなプレゼントもしくはカードを男女お互いが渡し合うような行事で、以前海外にいた時、その習慣を真似て安い花束をカミさんに買って帰ったような遠い記憶があったような…

ハロウィンについては、いままで仲間内の単なる仮装パーティーと思っていたのだが、ニュースを見ると、多くの人たちが仮装に参加したり、最近では子供たちがTRICK OR TREATと言って近所を回りお菓子をもらうような事もしているみたいだ。まあ局地的な話だとは思うが… 子供達はハロウィンという行事について正確に理解しているのだろうか?

経済的な恩恵を受けるため、関連する企業がその行事の拡大化を図ることを目的に仕掛け人を使い、無理やり行事化しているようでやっぱり違和感がある。海外の行事を日本に無理やり同化させるよりは、廃れていく日本の、特に地方の伝統行事を復活させる方に力をかける方がいいのではないか…

まあ、“楽しければいいじゃないか”と言われればそれはそうだし、また“そう言うお前は外国の音楽ばかり聴いて、日本の音楽を疎かにしすぎだ!”と言われればグーの音も出ない私である。

コンピュータでない方のアップルです

2015年10月29日 | BEATLES-BADFINGER関連
昨日、 CS放送のチャンネルを操作していた時、たまたまアップル・レコードのドキュメンタリーを放映していた番組に目が止まった。

アップル(APPLE CORPS)の中の5大事業の稼ぎ頭であった、アップル・レコードの理念は、メジャーのレコード会社とは無縁の才能のあるアーティストを発掘し、レコードを制作することにより彼らを世に知らしめるということであった。

途中から見たので、話は既に70年代に入っていて、アップル全体の稼ぎ頭のビートルズはすでに解散し、メンバーはソロ活動をスタートさせた時期の話であった。

ヒットを出すことに成功したバッド・フィンガーやメリー・ホプキン、成功には至らなかったもの、アップルからのデビューで才能を開花したジェームス・テイラーやビリー・プレストンなど、理念に叶う仕事も残した。

しかしながら、アップルのスタッフがほぼ経営に関して素人集団であったこと、レット・イット・ビー制作時にビートルズのマネージメントの契約を勝ち取りアップルに乗り込んできたアラン・クレインの強引な経営手法、そしてアップル内におけるビートルズのメンバーの発言権の強さなどが、アップルの経営に混迷を与え最終的に事業が縮小されるというストーリーであった。

その中で特に注目したのは、ビートルズのメンバーの関わり方だった。

リンゴは、ドラマーとしてレコーディング・セッションに参加し各ミュージシャンをバックアップした。

ポールやジョージは、ある程度商業的な成功を意識してアップルのアーティストをプロデュースしたりバックアップをした。例えば、バッド・フィンガー、メリー・ホプキン、 ジェームス・テイラー、ビリー・プレストン、ジャッキー・ロマックスやロンとデレクのイートン兄弟などの作品は、 今でも一聴する価値はあるものと思う。例外として、インド関連の作品は、商業的な成功が初めから見込まれない ジョージの趣味的なものだった。

それから、ポールのポップ路線を拒否したメリー・ホプキンの2作目のフォーク路線が一枚目のように商業的に成功しなかったのは残念であった。まあ、ボブ・ディランやジョーン・バエズのようなギター一本で歌唱するフォーク路線で成功するには、やはりカリスマ的な魅力が必要で、メリー・ホプキンでは少々荷が重かったのかも…

一方ジョンは、商業的な成功は考えず自身の感性によってアーティストをリクルートしプロデュースした。オノ・ヨーコやエレファンツ・メモリーなどがそれにあたる。

特にオノ・ヨーコの作品は、アップルのスタッフも初めから商業的な成功は無理と分かっていたが、ジョンに対してノーとは言えず、結局アメリカやヨーロッパで多額費用を使ってプロモーションを行い、セールスは全くダメだったという結果に終わる負の存在だったと当時の関係者は語る。

これは、ビートルズの大成功により各メンバーが大金持ちとなり、特に芸術肌の人は金銭感覚に疎く、 アップルの経営に関して無頓着だったのが原因だったのではと思う。

アルバム、イマジンが好評だったからなのか、ジョン自身が改めて商業的な成功とは何なのかという認識を思い知らされるのが、1972年6月発売のSOME TIME IN NEW YORK CITYで、このアルバムは思ったほどに売れなかった。

オノ・ヨーコの “ア~ア~ア~”一辺倒の高音の雄叫びのような歌唱をメインとする作風から、以前から比べると親しみやすいポップな方向に変わり、ジョンとしても全体的によい出来に仕上がったという自負があったみたいだが、どうもファンが彼に望んでいたものとは違っていたようだ 。

1972年末、リチャード・ニクソンがアメリカの大統領に再選され、ジョンはさらに意気消沈したのか、次作は1973年末のMIND GAMESまで待たなければならなかった。そして、次作ではラジカルなメッセージを含んだ楽曲はなくなり、聴きやすいアルバムにと変化した。

70年代初期の経営に関するゴタゴタの後、アップル(APPLE CORPS)は 、アップル・レーベルのアーティストの楽曲を管理し、リマスターやリミックスを施して旧譜を再発する、という過去の遺産によって生きていくと方針で業態をスリム化して以来、非常にスマートな存在となった。

60年代や70年代にビートルズ経の信者となり、今更改宗が出来ない人々から確実にお布施を集めるシステムを確立したのである。

今日もどこかで、来月発売される新装版BEATLES 1をネットで購入するためのクリックが、あちこちの信者の間で聞こえるのである。

CASS COUNTY、普通の田舎町

2015年10月28日 | West Coast Rock

キャス郡をグーグル・マップで探すと、アメリカはテキサス州の東側に位置し、アーカンサス州やルイジアナ州との州境に隣接する、一辺が約50kmの正方形の平地に約3万人が暮らすという典型的なアメリカの田舎である。

ここで、イーグルスのメンバーであるドン・ヘンリーが生まれ育ち、今年の7月に終了したHISTORY OF THE EAGLESと言うワールド・ツアーの後をうけて、つい先日15年ぶりにその地の名前、CASS COUNTYをタイトルにしたアルバムを出した。

生まれ育った保守的な中西部の田舎町をテーマとしてアルバムを制作するとなれば、 やっぱりその地場のミュージックであるカントリー系が主体となるのであろう。

バーニー・リードンがいた頃の初期のイーグルスにも、カントリー系のサウンドはあったが、当時はヒット狙いの楽曲で、今回のサウンドの雰囲気とは異なる。

年齢を重ねたドン・ヘンリーが生まれ故郷を省みるという、つまり内省的な内容であまりヒットを意識していないため、地味に聞こえるかもしれない。

我々日本人は、カントリーと言うとどれも同じように聴こえてしまい、それぞれの深みをなかなか汲み取ることは出来ないのではと思う。

カントリー・ミュージックはアメリカの白人にとって、黒人のソウル・ミュージックに当たるようなシンボリックな存在で、特に中西部に住んでいる人々は昔からそれに親しみ、リラックス出来るのだろう。

それから、アメリカの田舎町というと、走っている車にセダンは少なく、大概ピック・アップ・トラックかステーション・ワゴンと相場が決まっている。だから、ピック・アップから降りようとする飾らない初老のおっさん風情のドン・ヘンリーに非常に親しみを感じるのである。

Don Henley Cass County Official Trailer


1973年”山羊の頭のスープ” 赤丸急上昇

2015年10月26日 | ROLLING STONES関連
1972年の前作“メイン・ストリートのならず者”と比べると明らかに制作の方向性が違うように感じる。

もちろん、SILVER TRAINやSTAR STARなどお馴染みのロック・ナンバーもあるのだが、各楽曲がメロディアスなポップ寄りになり、ブルースのサウンドが後退したように感じる。

すでにストーンズ・レーベルから2枚のアルバムを出し、3枚目はいつものロックやブルージーな曲だけでなく時代に合わせて少し変化をつけ、バラエティーさを出したかったのかもしれない。

以前からのファンであれば、このアルバムの印象は少し軟弱と感じるのかもしれないが、シングルの“悲しみのアンジー”を聴いてこのアルバムたどり着いた人であれば、また違った印象を受ける。

アルバムとシングルが全米1を記録し、多くの新しいアメリカのファンを獲得したことは、その後のアルバムの売上にも貢献し、ストーンズとしては、してやったりのアルバムではなかったのではないか。

The Rolling Stones - Angie [Official]

これじゃコールできない!クイーンに愛想でもさせようか?、ジェイ・ガイルズ・バンド

2015年10月25日 | AMERICAN ROCK/POPS
60年代末、ボストンで結成されデトロイトを活動の拠点とした、R&Bベースのブルース・バンドで、セルフ・タイトルのデビューアルバムは、1970年に発売された。

このバンドの特徴は、リーダーのジェイ・ガイルズのギター、マジック・ディックのハーモニカ、そしてピーター・ウルフのボーカルのアンサンブルがメインの売りである。

ハーモニカという楽器は、古くはフォーク系のディランやニール・ヤングなどの曲や、ビートルズの初期のポップ・サウンドや数々のブルースバンドにも登場してきた。1973年のドゥービー・ブラザースのシングル・ヒット、LONG TRAIN RUNNIN’の間奏にカッコよく使われたり、ファンク・バンドだったWARのメンバー、リー・オスカーなんて有名だが、ロック系のハーモニカといえばマジック・ディックがパイオニアではないだろうか。

ジェイ・ガイルズ・バンドの場合、ハーモニカのサウンドは特徴の一つであるが、それかが突出して全面に出るのではなく、各々のバンド・メンバーの演奏もしくは歌唱がバランスよく調和している。

すなわち、ブルース特有のアクの強さというかねちっこさはそれほど感じられなく、さらっと聴けるのがよく、ラジオ・プレイに適していた。 

突出した個性をあえて出さなかったことが、バンドが長期にわったって活動できた要因ではないだろうか… 

途中幾度かの活動停止の期間があったが、バンドは現在も存続している。ただしリーダーのジェイ・ガイルズは、どのような経緯があったのかは判らないが、2012年にバンドを脱退し、バンド のツアーにはゲストのギタリストを参加させている。

1972年に発売した3枚目のアルバム、FULL HOUSE はデトロイトでのライブ・アクトを収録したもので、全米54位にランクされ知名度も全国区となった。

タイトルは多分ライブの満員(FULL HOUSE)御礼にポーカーのフル・ハウスをかけているのだろう…

あれ? ポーカーの手が、よく見るとフル・ハウスじゃない。しかもクイーンがウィンクしている。一体どうゆう事?


J Geils Band - Homework (Full House Live)

アップルと言ってもビートルズのことではない。その2

2015年10月23日 | 特になし
新しいオペレーション・ソフトX.11 EL CAPITANをダウンロードされたマック・ユーザーの皆さん、新しいOSはうまく作動しているでしょうか?

インターネットの接続の設定ができずネットに繋がらなかったことは、PCをシャット・ダウンし、時間を少し置いてもう一度再起動させると、問題が一応解決しました。

しかしながら、USB-HUBの作動に問題があり、デジカメをハブ経由でPCに接続すると、PCはデジカメを外部ディバイスとして認識しないが、直接USBケーブルでPCに接続すると認識する。USB-HUBのシンプルな回路を認識しないなんて、一体どうゆう事?

また、スキャナーも対応しているソフトを入れたのに、デスクトップ上のアイコンをクリックしても、1回のアクションでスキャナーのソフトが起動しない 。

それでも同じアクションを根気よく3回か4回ほどやり直すと、なんとかそのソフトが起動する。オーマイガー!

その他にもまだ問題はありそうだが、修正パッチが出るまで取り敢えずあまり使わない機能は触らない方が無難だ。

皆様も新しいものには、くれぐれもご注意を。

7枚目のアルバム、CHICAGO VII

2015年10月23日 | Chicago

洗練されたポップ・センスを持ったシカゴの6枚目のアルバムCHICAGO VIは、1973年に大ヒットした。

もともと、ブラスセクションを前面に出した、長尺の 組曲のスタイルでジャズ・ロックをメインに演奏してきたのだが、ライブにおいて中弛みする観客も見受けられ、CHICAGO V頃から曲が短めとなり、またロック色が強まった。そして次作のVIではさらにポップ寄りの耳当たりの良いサウンドへ変わっていった。

メンバーは、マンネリ化を防ぐためにもアルバムに初期の頃のジャズ・スタイルの長尺の曲も取り入れてもいいのではないかと考え始めた。せっかくVやVIの路線でヒットしてきたのに、わざわざ路線変更までして冒険するリスクを取るべきではないという意見もあったが、最終的に原点に戻るのも悪くはないと言う結論で、 1974年、2枚組でCHICAGO VIIが発売されただった。

1曲目から5曲目までジャズ・スタイルのインスト・ナンバーが続くき、残りが歌モノという極端な曲の配置ではあったが、ジャズはもとより、ロックあり、ファンキーあり、そして美しいバラードなどバラエティーに富んだ内容で、路線変更によるリスクなど全くなかったように、全米1位を獲得する大ヒットとなった。

当時は、ロック一辺倒だったので、ジャズ・サウンドと聞くと苦手意識があり、オン・タイムでの購入とはならなかった。

長い年月が過ぎ、人生の甘いも酸いも数多く経験 すると(私の場合は、ほとんどが酸いを経験)、あら不思議! 

なんとも心地よく聴くことが出来るではないか!

このアルバムが、1974年に全米1位を獲得するなんて、アメリカのリスナーは何て懐が深かったのだろうと感心しきり。

それにしても、ピート・セテラは良いバラードを作るようになった。後にバンドを脱退しソロに転向するための大きな自信になったことだろう。

Chicago - Happy Man (ピート作)


BEATLES SECOND ALBUM日本盤

2015年10月22日 | BEATLES-BADFINGER関連
1964年4月に発売されたMEET THE BEATLES の大ヒットを受けて、急遽アメリカ盤のセカンド・アルバムを模して、再度日本独自の選曲で第二弾がわずか2ヶ月後の6月に発売となった。

しかしながら、前作で2枚の英オリジナル・アルバムからそれぞれの主要曲各5曲を使ってしまっていたので、残りの12曲と比べると物足りなさがあったので、裏技として、シングルで発売され大ヒットしたばかりの CAN’T BUY ME LOVEを収録した。この曲は次作のA HARD DAY’S NIGHTのサントラ盤に収録が予定されていたので、アルバム収録は世界初ということになった。

ヒット曲満載の MEET THE BEATLESと比べると派手さはないが、この曲とシングルのB面1曲を合わせた計14曲のアルバムとして発売され、デビュー・アルバムの余勢をかってこれまた大ヒットとなった。

日本編集の、MEET THE BEATLES、SECOND ALBUMそして NO.5の3枚はモノ・ミックスであった。初期の音源はやっぱりモノ・ミックスに限る。

当時ステレオ 録音は2チャンネルで、どうしても左右泣き別れのミックスとなり、特にヘッド・フォンなどで聴くと違和感を感じる。もしアンプとスピーカーに余力があれば、ボリュームを上げて一本のスピーカーで鳴らせばよりくっきりとした音がスレートに伝わると私は思うのだが… 


アップル・レーベル AR-8027


オデオン・レーベル CD OR-7058

売り出し中と言うよりは 、すでに売れまくって忙しすぎるのでは?

2015年10月21日 | BEATLES-BADFINGER関連
映画をプロモートするためのサントラ盤のため、当然派手目の楽曲から構成されているA HARD DAY’S NIGHT とHELPの間に発売されたアルバム、FOR SALEは残念ながら地味に感じてしまう。

1964年といえば、年に2枚のアルバムを作成していた時期で、映画の収録やコンサート・ツアーなどがあると、アルバム全体を自作曲で埋めるには当然時間が足りなくなり、カバー曲のお世話になってしまう。このアルバムは14曲のうち6曲がカバーとなっている。

自作曲はどれもおとなしい印象があるので、シングルで出したI FEEL FINEを一曲目に持ってきて、カバー曲をどれか一曲外せば、もっとメリハリの効いた内容になったのではないかと今更ながら思う。

ただ、I’M LOSERのように心の内面を歌うなど、単なるラブソングではなく地味ながら進化している。

また、インナー・ジャケットにある写真のコラージュのデザインは、その後のレボルバーやサージャント・ペパーのジャケット・デザインにつながっていく。


アルバム・タイトルにある“売り出し中”の新米バンドなどではなく、完成に向かって常に進化していく様が感じ取れる。

アップルと言ってもビートルズのことではない。

2015年10月21日 | 特になし
2003年、アップルから省スペース・タイプのPC、マック・ミニ(OSはX.3 PANTHER)が 発売された。どうしても欲しくなりつい買ってしまったが、当時アップルの製品は、あまり使われていなかったので、PCウィルスもほとんど存在しなく、ウィンドウズと比べると、比較的安心できるものであった。

ただ、使用できるソフトの数はウィンドウズに比べて少なく、また価格もかなり割高であった。

IBMのパワーPCを使ったCPUの処理能力も時代についていくことが出来ず、いつの間にかインテルに取って代わられることになり、2010年にアイ・マック(OSはX.7 TIGER)を購入することとなった。その時、マック・ミニにあったソフト及びファイルをアイ・マックにトランスファーしたのだが、CPUがインテルのチップを使っていたのを見過ごすこととなり、パワーPCのみで動いたソフトやその一連のファイルは新しいPCでは使用不可能となった。

2013年にX.9 MARVERICK、2014年にX.10ヨセミテが無料でアップグレード出来るとのことで、新し物好きの私は、すぐに飛びついたのだが、案の定新しいオペレーション・ソフトに対応する他メーカーのプリンターやスキャナーのド ライバーが公開されていなく、ひと月ほど不便な時を送った。

2015年、10月初旬にまたもや新しいオペレーション・ソフトX.11 EL CAPITANがβ版に続いて正式に公開されたので、愚かにも飛びついてしまった。

新しく出れば、やはりバグもあったり、現在使用している機器のドライバーが対応していない場合もあるので、少なくとも2~3ヶ月は待つべきだと前回の失敗から学んだはずなのに…

ソフトのダウンロードもサクサク進み、インストーレーションも2時間弱で完了。
しかし、PCを起動すると、インターネットが繋がらない。オー・マイガー!

普通自動でIPアドレスやルーターのアドレスを検出しあっという間にネットに接続できるはずが! 手動でIPとルーターのアドレスを入力したり、ルーターを再起動させたりして2時間ほどトライしたのだがウンともスンとも。

アイパッドでネットを見てみると、やっぱり、ネット接続関連やオフィスのソフトにバグ発生し不具合のレポートが出ている。

今使っている、ルーターが新しいソフトに対応していないのか? 元のオペレーション・ソフトにダウン・グレードするとさらに2時間以上かかる。今日は徹夜か?

ダメ元で、PCをシャット・ダウンし、時間を少し置いてもう一度再起動させてみよう。

あらなんと、今回は自動でインターネットの接続が行われたではないか。

PC内で帯電していて、それがソフトの動作に悪影響を与えたのだろうか?

明日までにインターネットが復旧していないと仕事にならなかったのだが、なんとか最悪のケースは免れた。他に問題があったとしても、ネットがつながればなんとか対応できるだろう。

めでたし めでたし。

皆様も新しいものには、くれぐれもご注意を。

DREAMERで叱られた、URIAH HEEP

2015年10月19日 | URIAH HEEP
バス・ドラムのイントロで一曲目のDREAMERは始まる。

レコードをかける前にステレオのバスのつまみを最大限に設定し、そしてヴォリュームも同様にして再生すると部屋の窓ガラスや家具なんかがビリビリと振動しすごい迫力だったのを覚えている。

当然、“うるさい!”と家の者からこっぴどく叱られたのだが。

ヒープ6枚目のスタジオ・アルバム、SWEET FREEDOMが1973年の多分11月ごろに購入した記憶がある。前年の“悪魔と魔法使い”あたりからアメリカでもヒットし、当時の音楽雑誌には、アメリカ公演で前座だったヒープがメインのT.REXを完全に食ってしまったと書かれた記事を読んだ記憶もある。

T.REX-HEEP IN U.S. CLASHなんて見出しがあります。

それじゃ、本格的にアメリカ進出を果たそうと、1973年初旬に2枚組のライブ盤を発売しその人気を維持した上で、同年後半にこのスタジオ・アルバムを投入し 一気に人気を高めようと計画されたようだ。

アメリカでのアルバムの流通はこのSWEET FREEDOMで、マーキュリー・レーベルから ワーナーに変わった。すなわち2枚組のライブ盤の発売は、マーキュリーとの契約を満了させるためのもので、SWEET FREEDOMを大手ワーナーの販促の力を最大限利用し大々的に売り出す意図があったのであろう。

アメリカのロック・バンドには真似のできない、ケン・ヘンズレーの奏でる独特のオルガンやメンバーによるハイ・トーンのコーラスを継承している。STEALIN、SWEET FREEDOM、 SEVEN SATRSなどが従来のサウンドで、さらにファンキーなDREAMERやアコースティック・フォークのCIRCUSなど、アメリカ向けに新しく分野の曲も収録されていて、全2作と同程度の成績はなんとか確保した。ヒープは中々商売上手と言える。

しかしながら、お決まりのメンバーのアル中やヤク中などの影響から、好調さを次作に生かすことは出来なかった。

ただこのバンドのすごいところは、度重なるメンバーチェンジを行いながら、今でも現役で活動していることである。

LONG LIVE ROCK!

それでは、低音バリバリにセットして聴いてください。

Dreamer

LONG TALL SALLEYって、のっぽでスキン・ヘッドの女の子?

2015年10月18日 | BEATLES-BADFINGER関連
ビートルズはリトル・リチャードのLONG TALL SALLY(のっぽのサリー)をカバーしているが、その歌詞はハチャメチャで意味不明な内容。

普通SALLEYは女性の愛称としてよく使われ、また歌詞にもSHEという単語を使っているから、多分サリーは女の子と解釈すればいいのだけれど…

BOLD HEADED SALLEY“ハゲ頭(スキン・ヘッド?)のサリー”という言葉が歌詞に出てくる。一体”ジョンおじさん”と”のっぽでスキン・ヘッドの女の子、サリー”はいったいどういう関係なのであろうか?

そして、何気にふと見たヘイ・ジュードのジャケット。メンバー4人がほぼ直立不動で並んで写っている。


これを見る限り、ジョン、ジョージとポールが同じくらいの身長で、リンゴが彼らより10CMぐらい低いと言うことか?

サージャント・ペパーやアビー・ロードなんかのアルバム・ジャケットでは、身長の差はそれほど目立たなかったのだが。

ジョンの背丈が低いように感じる。

各自の背丈はそれほど変わらないような?

同じセッションの別の写真を見ると普通の靴を履いているみたいだし、まさか昔雑誌によく広告が出ていた、通販限定のシークレット・シューズを履いているとも思えない。


芸能人の体格の情報は、正式には公表されない場合が多いので、ネットなどに出ているそれらの情報が正確かどうかはわからないのであるが、ジョン、ジョージとポールが各々180CM、177CMそして180CMと出ていて、リンゴは168CMとなっていたので、やっぱり写真通りの身長差があるのだろう。

じゃあ、それがどうしたと言われれば、返答に困るのだけれど… 単にのっぽのサリーというタイトルから身長のことが思い浮かんだのである。

ちなみに、俳優の岸部一徳氏のグループサウンズ時代の愛称がサリーだったのは、彼が180CMを超える長身だったから、そう名付けられたとか。

それから、ボブ・ディランは身長が170CMぐらいと言われているようだが、ブートレッグ・シリーズVOL1-3に付属していたブック・レットの表紙の写真には、彼のパスポートのようなものが写っており、身長の項に5フィート11インチ(約180CM)と記載されている。



確かに、5フィート11インチと記載されている。ただ名前はROBERT DYLANと芸名が書かれているので、ジョークの一種か? 
ファースト・ネームがROBERTの場合、通常BOBとかBOBBYと略して呼ばれる。

まあ、ミュージシャンの場合、背の高さにそれほどこだわる必要はないとは思うのだが…

快晴の休日の昼下がりでした。

The Beatles - Long Tall Sally

エスプレッソとアメリカン・コーヒー、I POOH

2015年10月17日 | EURO ROCK
二ヶ国語を話せる人は、“バイ・リンガル”、三ヶ国語の場合は、“トリ・リンガル”。

それでは、一ヶ国語しか話せない人は? 

それは“アメリカン”!とよく彼らをジョークで揶揄ることがありました。

実際、アメリカの会社がヨーロッパの会社と商用で交信する場合は現地の言葉ではなく英語で行われます。英語が世界的に共通語もしくは公用語の扱いを受けているので、どうしてもマイナーな言語は使用されません。

同様に英語圏以外からアメリカやイギリスに進出するミュージシャンは、ABBAやA-HAのように英語での歌唱が必須とされます。そうでなければ、歌なしのインスト物となります。

勿論例外もあり、身近なところでは故坂本九氏が歌った“上を向いて歩こう”が全米1位に輝きました。しかし、これは例外中の例外のケースでしょう。

以前紹介した、イタリアのプログレ・ロック・バンド、I POOHもアメリカ進出のため自作の既出曲を英語にて再録しアルバムとして出しました。それが1980年に出したアメリカ向けのアルバム、HURRICANEで、サウンドもアメリカ受けするようにディスコ・タッチや少し軽めのストリングスなどを用いるアレンジとなりました。

全編英語で歌われた楽曲は、残念ながら日本人が持つイタリアのバンドのイメージとは違う平凡なポップ・サウンドのように聴こえました。アメリカ人がそれをどのように捉えたかは定かではありませんが、アルバムがアメリカでチャート・インすらしなかったことから、失敗作となったのは間違いありません。

普段エスプレッソを愛飲している人が、急にアメリカン・コーヒーの味になじむことは難しいことから、一気にアメリカン・ナイズされたサウンドを持ち込むのではなく、ヨーロッパの香りを残しつつ彼の地に徐々に馴染むような感じのカプチーノで最初は攻めていくのがよいのでは?

Pooh - Hurricane

先は長いよ、THE LONG RUN

2015年10月16日 | West Coast Rock

後期高齢おっさんの手習いとして始めたブログも、当記事で243回目のアップとなった。

出来るだけ毎日記事をアップしよう思っているのだが、 毎日アップするとなると内容的に乏しくなる。

個人的な備忘録としてスタートしたのだから、それ程内容にこだわらず、アルバムの詳細をネットや手持ちの資料から抜き出し淡々とアップしていけばいいのであるが、記事に個性を出そうと自身が思うようなところを書き足そうとすれば、どのように話をまとめるかに結構時間を費やし苦労するのである。

同様にミュージシャンにとっても、継続してアルバムを発表していくには随分と頭を悩ますことであろう。前回の路線を同じ様になぞれば二番煎じと言われかねないし、形成されたイメージを打ち壊していくと今までのファンが引いてしまうリスクがある。

メガ・ヒットのアルバムを出すと、次作の制作においてさらに頭を悩ますこととなる。

1979年に3年ぶりに制作された彼らの6枚目のアルバム、THE LONG RUNはそういった状況で発売された。基本的には前回の少し暗めの路線を踏襲し、ラジオに乗りやすい前回より明るめのロック・ソング, HEART ACHE TONIGHTとTHE LONG RUNをシングルとして投入し、そのイメージを中和。全米一位の大ヒットとなり700万枚のアメリカの累計のセールスを記録したものの、前作には及ばなかった。そして、タイトルの通り、先は長いよということで、一旦創作活動を停止するのである。

オリジナル・メンバーのランディー・メイズナーは前作で脱退、代わりにPOCOからティモシー・シュミットが加入。ファースト・アルバム制作の途中で脱退したため、そのアルバムに彼の名前はクレジットされなかったのだが、ランディー・メイズナーもまたPOCO出身。

POCOといえば、バッファロー・スプリングフィールドのメンバーだった、リッチー・ヒューレイとジム・メッシーナが中心になって設立したカントリー・ロック・バンドだった。その二人の中心メンバーが後日脱退し、どうなるかと思ったがかえってグループがまとまった感じで、地味ながらも好感の持てるバンドに成長した。カントリー・ロックという範疇に於いては、個人的には当時イーグルスと互角で有ったように評価している。POCOについても記事をいつかアップしたいと思う。

すでに後期高齢おっさんの年齢に達していて、後どれぐらい人生が続くのかわからないが、先はまだまだ続くので焦っらないでポジティブに生きていこうと思う今日この頃である。



メガ・ヒットを出したなら? 、HOTEL CARIFORNIA

2015年10月14日 | West Coast Rock

デビューから、軽やかなカントリーあるいはフォーク・ロックのサウンドにコーラスのからむと言うイメージがあったイーグルスも、このアルバムではNEW KID IN TOWNとランディー・メイズナーが歌うカントリー系の曲のみにその名残が残った。

3作目のON THE BORDERというアルバムから、オリジナル・メンバーの一人、バーニー・リードンがバンドに引き入れ、部分的にそのアルバムに参加し正式メンバーとなったロック系ギタリストのドン・フェルダーや、そのバーニーがONE OF THESE NIGHTS制作後に脱退し、新しく加入したこれまたロック系ギタリスト、ジョー・ウォルシュらによって、作り出された音は変わった。

LIFE IN THE FAST LANEやVICTIM OF LOVEなどのファンキーでハードなサウンドの登場、バラードに於ける分厚いアレンジの採用などにより以前のカラッとしたサウンドから相対的にしっとりとしたものとなった。

1976年、イーグルス5枚目のスタジオ・アルバム、HOTEL CARIFORNIAが発売された。全米1位となりアメリカの累計のセールスだけで1600万枚とメガヒットとなり、イーグルスをアメリカのトップ・バンドから世界的なバンドへとならしめたアルバムとなった。

HOTEL CARIFORNIAは、バンドの固定ファン以外に、それまでイーグルスにそれほど関心を持たなかった多くの音楽ファンに購入させるだけのインパクトを持ったアルバムとなったのだが。このようなメガ・ヒットを飛ばすと、次のアルバムの制作がキツくなる。何しろ、少なくとも同程度のレベルの作品を次作として作らなければならないプレッシャーがあるためだ。

新規のファンをつなぎとめるにはさらなる進化が必要で、そのアイデアを練り上げるには時間がかかり、毎年一枚のペースで制作していたのが、次作は1979年と3年にインターバルを置くことになった。その次作、LONG RUNは大ヒットしたのだが(アメリカの累計のセールスは700万枚)、HOTEL CARIFORNIAが与えたインパクトのレベルには及ばなかった。

同様の例として、PINK FLOYDの1973年作THE DARK SIDE OF THE MOONは、アメリカの累計のセールス1500万枚で、2年のインターバルを置いた1975年の次作、WISH YOU WERE HERE は600万枚だった 。また FLEETWOOD MACの1977年作RUMOURSは2000万枚で、2年のインターバルを置いた1979年のTUSKは200万枚に終わった。

とは言え、この業界では例え一曲でも世界的メガ・ヒットを出すことができれば、それで一生何とか食べていくことができるのである。

博士:オー、これぞロックにおけるメガ・ヒット後の法則じゃ。

助手:メガ・ヒットのアルバムを出せば、次作は複数年後に発売され、そして前作の売り上げを超えることはない、ということですね。

博士:よし、わしらもメガ・ヒットでも出して、その後長期休暇でも取ろうじゃないか!

景気付けに、メガ尽くしと行こう!
メガ・ドンキでメガ・シャキを飲んで、その後、メガ盛り牛丼を食ってから、オメガは予算がないので無理じゃが、メガネ市場でグラサンを買うというのはどうじゃ? 

助手:メガ尽くしをしたところで、作曲出来ないんじゃ、あまり意味はないかと…

Eagles - 'New Kid In Town'