CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

不死身のハード・ロック

2022年12月30日 | BRITISH ROCK

2年前の大晦日、今年最後の日何を聴こうかと考え、取り出したのはThe Whoの6枚目のアルバム、Quadrophenia(四重人格)。

懲りずに、またまたと年の瀬に登場、Quadrophenia。

比較的穏やかな一曲目のI Am The Seaから二曲目のこれぞThe Whoと言える派手なロック・ナンバー、The Real Meを聴いてぶっ飛ぶ。

そしてThe Punk And The Godfatherに至ると完全にノリノリThe Whoモード。

オジンになってもこれ聴いていればパワー全開!

不死身のハード・ロック万歳!

GSスクーター大活躍!


Polnareff’s(ポルナレフ3)

2022年12月29日 | EURO ROCK

日本では60年代のシングル曲だった、ノンノン人形、悲しきマリー、ラブ・ミー・プリーズ・ラブ・ミー(愛の願い)とか70年代のシェリーに口づけやHolidays(愛の休日)なんかでフランス語で歌われる流行歌、フレンチ・ポップスのカテゴリーで一括りにされているミシェル・ポルナレフ。

その彼が日本では1972年(フランスでは1971年にリリースされた)にエピック・レーベルから非常にチャレンジングな3枚目のアルバム、Polnareff’s(ポルナレフ3)が出た。

日本ではSQ方式の4チャンネル仕様で発売された。

インスト曲数を含むロック、ジャズそしてクラッシックが融合したトータルなプログレ・アルバムと言えるのでは…

当時はちょっと難解に思われたのか残念ながらヒットには恵まれなかったがこれが彼の本質でありフレンチ・ポップスの枠は当然超えた作品だったと思う。

Polnareff’s(ポルナレフ3)よろしおます。

因みに日本のレコード会社のポルナレフのマーケティング路線とは異なっていたのか、同年ポルナレフ・ナウ(ポルナレフ4)のタイトルで1969年から1971年のヒット曲をコンパイルしたこれぞフレンチ・ポップス!って感じの日本独自の編集アルバムを発売しフレンチ・ポップスのスターとして彼の日本におけるイメージを強引に確立させた。

 


ジャケ買いしてみた

2022年12月27日 | 特になし

先日久々に中古ショップに出掛けて、個人的に気になるジャケットのアート・ワーク優先でLPレコードを買ってみた。すでにCDにて所有しているものもあるが、やっぱりインパクトは12インチ・サイズのレコード・ジャケットのそれには敵わない。

ただし、予算が無いので1枚300円から700円程度ものからさほどコンディションの悪く無いものを選んでみた。

スティーブ・フォーバートの1978年のデビュー・アルバム、Alive on Arrivalとアル・スティワートの1977年の7枚目のアルバム、Year Of The Cat

ブームタウン・ラッツの1979年の3枚目のアルバム、The Fine Art Of Surfacingとマンフレッドマンズ・アース・バンドの1976年の7枚目のアルバム、The Roaring Silence

10CCの1973年のデビュー・アルバム、10CCとクリスタル・ゲイルの1977年の4枚目のアルバム、We Must Believe In Music

まあ価格なりのコンディションではあるが、洗浄してレコードの溝に堆積したゴミをとってやれば鑑賞に耐えられる。

70年台のレコードの価格って今の物価から比較してみるとかなり高級な部類になり、カセット・デッキ持っている人ならばテープにダビングしてそれを聴いていたから、ジャケは経年劣化が激しいものもあるけれど案外レコードのコンディションはそうでも無い。

ただ前所有者が、アマゾンなんかのレビューによく登場するレコードを擦り切れるまで聴いていたような強者だった場合は、ジャケもレコードもボロボロですかね…(泣)

 


エアロ入門

2022年12月27日 | AMERICAN ROCK/POPS

エアロ入門となればやっぱりコレ!

1980年に出たAerosmith’s Greatest Hits。

 

1973年のデビュー・アルバムから1979年の6枚目のアルバム、Night In The Rutsまでのスタジオ・アルバムから厳選して収録、更に1978年の映画、ペッパー軍曹のサントラから、ビートルズのCome Togetherのカバーも付いてきた。

彼らのデビュー当時は結構突っ張ってた感じでそれほど惹かれなかったのだけれど、このアルバムを聴いてなかなかいいじゃんと後追いしたバンドでありました。


明日はボクシング・デー

2022年12月25日 | ROLLING STONES関連

本日はストーンズが1969年出したLet It Bleedでも。 

当時ちょうどブライアン・ジョーンズがバンドから脱退し、代わりにミック・テーラー加入した過渡期の頃のレコーディングで、今までになくライ・クーダー、ニッキー・ホプキンス、レオン・ラッセル、アル・クーパーら多彩なゲストを迎えている。さらに紅一点のR&Bシンガー、メリー・クレイトンがギミー・シェルターでミックと対等に迫力のあるボーカルを披露しているのも聴きどころの一つ。

参加したゲストの個性をうまく取り込みストーンズのサウンドを完成させた名盤と言える。

ところで何で、Let It Bleed?

イギリスや旧英連邦諸国の一部では12月26日をBoxing Dayと称し、休日になっている。かって教会がボックスに入れたクリスマス・プレゼントを配る日がその由来。またクリスマスの間、労働に従事し休みが取れなかった人達への労いとして休日になったとされている。

てな事で別の意味として使われる格闘技のBoxingで相手の鼻先にパンチを当ててLet It Bleedって洒落てみたんですが…

むむ〜 イマイチね。


聖なる夜に、その2

2022年12月24日 | AMERICAN ROCK/POPS

カントリー・デュオのベラミー兄弟でも

1975年彼らはCurb Recordとサイン、翌年出したアルバム、Let Your Love Flowからシングル・カットされた出したタイトル曲が全米1位を獲得。

1982年にはそれまで出したアルバムから選りすぐった曲で編集したベスト物が出て、カントリー・チャート9位に輝く。

ポップ色の強いカントリーで割と聴き易いと思う。

聖なる夜にLet Your Love Flowすればきっと願いが叶うかも?


聖なる夜に

2022年12月24日 | JAPANESE

カレンダーを眺めると、今日はクリスマス・イブ。

昔はクリスマスになると、ケーキ買ってきてお祝いしたような。

別にキリスト教徒ではなくとも、正月に連なるフェスティブ・シーズンの1日としてお祝いするのが楽しかった。

今でも懐かしい思い出。

しかしこの歳になるとクリスマスであろうが、正月であろうがそれ程ウキウキした感覚は無くなってしまい、いつしかクリスマスにケーキーを食べることも無くなった。

ケーキはなくとも聖なる夜をレコードでお祝いでも。

 


いや〜 今日も寒かった

2022年12月22日 | AMERICAN ROCK/POPS

西高東低の気圧配置で寒波襲来!

一気に寒くなった日本列島。

こんな時は1978年のパブロ・クルーズの4枚目のアルバム、Worlds Away(全米6位)でも聴いて、気分だけでも暖かくなろうじゃないの。

このアルバムからLove Will Find Away(全米6位)、Don’t Want Live Without It(全米21位)とI Go To Rio(全米46位)がシングル・カットされそれぞれヒットした。

1曲目の熱いWorlds Away からエンジン全開!


久々にシカゴでも、その2

2022年12月17日 | Chicago

70年代の後半ごろからその人気に徐々ではあるが翳りが出てきて、1980年にChicago XIVを出した後にCBSの契約が切れ、ワーナー系のフルムーン・レーベルに移籍した。

そして1982年に新規一転、AOR系の売れっ子プロデューサー、デビッド・フォスターを迎え移籍第一弾のChicago16を出す。

デビュー当時のブラスを全面に出したアグレッシブなジャズ・ロックの芸風からAOR路線に転向したこのアルバムは全米9位、シングル・カットされたHard To Say I’m Sorryはチャート1位に輝き、見事カムバック。

そして、Chicago 16(1982)からChicago 19 (1988)までの4枚のアルバムから編集されたベスト・アルバムが1989年に出たChicago Greatest Hits 1982-1989だ。(シカゴのアルバムには公式ベスト・アルバムを含めて発売順にそれぞれ番号が振ってあって、このアルバムはChicago XXにあたる)

この間、オリジナル・メンバーだったピート・セテラがバンドから脱退し、Chicago 18からジェーソン・シェフが新規メンバーとしてバンドに参加したものの、AOR路線は継承されれシングル・ヒットをガンガン出していくことに。

(素直になれなくて、全米1位)

(忘れ得ぬ君に、全米3位)

(スティル・ラブ・ミー、全米3位、ピートはすでにバンドから脱退している)

特にChicago 16と17におけるピートの活躍は著しく、アルバムのキーになったヒット曲の作曲したり、もしくはボーカルで貢献したことがかなり自信になったようで、その後のソロ・デビューに繋がったのかもしれない。

その代わりに、初期にはほとんどの曲を作曲したロバー・ラムの露出が少なくなったのは往年のファンにとっては残念だったかも。


遠い昔に

2022年12月17日 | BEATLES-BADFINGER関連

歳をとっていくと、やっぱり体力が年々落ちていくのはわかるし、記憶力も低下。

あれっ! それまで覚えていたはずだった事柄がスッと出てこないってなことが多くなった。

むむ~ これじゃいかんと今更ジタバタしたところでどうしようもない。

かってボブ・ディランがMy Back Pagesと言う曲でかくも歌っていた。

I was much older then, I’m younger than thatって。

そう気持ちの持ち様によって、昨日より若くなれるって事ね。

では早速ビートルズの1963年のメジャー・デビュー盤、Please Please Meを聴いてみる。

(レコードはちょっと面倒くさいのでCDにて鑑賞しました。この軟弱者!)

ストレートな表現が、若々しくていい感じ!

彼女はまだ17歳

オイラの言ってることわかるだろ

見た目がダントツ!

何で他の娘と踊れるって言うんだい

彼女がそこに立っているのを見ちゃったらさ

おぉ~ ダンス会場ではなかったけれど、遥か遠~い昔そんな様な事あったっけ

これ聴いて頭の中では少しは若々しくなれたかもね…


一味違うサントラ盤

2022年12月16日 | JAPANESE

ゴダイゴと言えばオリジナル・アルバムだけでなく映画、TV番組やCMにも楽曲を提供し人気があった。

その彼らが映画音楽のサントラを担当し1978年に出したのが、キタキツネ物語。当時映画はそこそこヒットしていた様だったが、その映画を見ていないのにも関わらず何故かそのサントラ盤が我が家にもある。

このアルバム、ゴダイゴが作曲と演奏も手掛けていて彼ららしい親しみの持てるサウンドで通常映画を補完するサントラ盤以上の出来。そしてボーカルはタケカワ・ユキヒデ、元ズー・ニー・ブーのリード・シンガーだった町田義人と牧ミユキの3名で分け合っていろいろなイメージを味わうことが... 

特に町田義人がハリのある声で歌った映画の主題曲、赤い狩人が当時TVで映画のスポット広告のバックに流れていたのを何となく覚えている。

因みに牧ミユキが担当したボーカル・パートは1972年ヒット曲、北国行きで有名だった朱里エイコが歌うはずだったそうだが、彼女の契約の関係で別のレーベルで歌うことが出来なかったために代わりの歌手が起用されたそうな。

朱里エイコ、一般的にはアメリカのアメリカのショー・ビズネス界で成功を収め、日本でもシングル・ヒットがあった程度の知識しか無いが、Wikiによると昨日ここで紹介したシカゴがライブ・アルバムを出したカーネギー・ホールのメイン・ステージに1976年日本人女性シンガーとして初めて出演したそうな。(男性歌手では1963年のアイ・ジョージ)。

後年何人もの日本人アーティストがカーネーギー・ホールのステージに立ってはいるが、70年代まだまだ日本人の影響力が少ない中でそのステージに立てたのは、本場アメリカのショー・ビジネス界で鍛えられた本当の実力派のシンガーだったからなのだろう。

そんなことを知ると、このキタキツネ物語のサントラで彼女の歌唱をゴダイゴの演奏をバックに味わってみたかったと今更ながら思う。


久々にシカゴでも

2022年12月15日 | Chicago

1971年4月にカーネギー・ホールでの公演を録音したライブ・アルバム、Chicago At Carnegie Hall(シカゴのアルバムには発売順にそれぞれ番号が振ってあって、このアルバムはChicago IVにあたる)。

発売当初は豪華ボックスに入ったLP4枚組の超大作。4枚組と言うことで、収録時間に余裕があることから、当時彼らの芸風だったジャズっぽい長尺インプロビゼーションが楽しめる。

皆さんお若い。時代を遡ってアルバムを聴いていくと、こっちはオジンのままなのにアーティストの方はどんどん若くなっていき、ちょっと不公平。

パワフルな演奏の4枚のアルバムを爆音でテンション上げて一気に聴くとなると、今じゃ流石に辛いかな?

オイラも時代を遡り同じく若くなってコレ聴いてみたいね。

それならこの分量でもFair Enough!

 

 


野人なあの人

2022年12月14日 | AMERICAN ROCK/POPS

本日は北風が強く、いよいよ冬になってきたって感じで、この分だと北国では雪模様ですかね。

学生時代はスキーをやっていてシーズンには雪山に結構いた。

ある日、高校の同級生からスキーしに行かないかとお誘いがあり、彼の車で高速ぶっ飛ばして日帰りスキーを楽しんだ。

その彼の車のカーステで唸りを上げていたのがテッド・ニュージェントのハード・ロック。

爆音で流れていた曲は1976年の彼の2枚目のアルバム、Free-For-All(ハード・ギター爆撃機)全米24位、ミリオン・セラー、に収録されていたDog Eat Dog!

ラジオ体操、第一〜

                                          Dog Eat Dog!

芸風はシンプルなアメリカン・ハード・ロックだが、ギブソンのソリッドなエレキではなくセミ・アコ・エレキをエフェクターなしにアンプに直結。ディストーションの少ない綺麗な音色でなっている。

このアルバムでは、9曲のうち3曲は前作でリード・ボーカルをとったデレク・ホームスがマイクを取り、1曲はテッド・ニュージェントご本人が、そして残りの5曲はなんとミート・ローフが担当。ニュージェントのギターだけでなく彼のボーカルもこのアルバムの聴きどころですかね。

ところで、このお方何故かギターだけで無くその出立ちも野人そのもの。別にそこまで拘らなくともそのままでかっこいいと思うのだが。

1975年ファースト・アルバム、Ted Nugent(閃光のハード・ロック) 全米28位、ミリオン・セラー

野人だね〜

1977年サード・アルバム、Cat Scratch Fever(傷だらけの野獣) 全米17位、ミリオン・セラー

何も変顔しなくとも...

1978年と1979年の2枚のスタジオ・アルバム(それぞれ全米24位と18位に輝く)を挟んでの1980年6thアルバム、Scream Dream 全米13

ウギャ〜、両腕がギターに変身!何もここまでやらなくとも。

1982年7thアルバム、Nugent(炎のギター・ヒーロー) 

エピックからアトランティック・レーベル移籍の第一弾。やっとまともになったと思いきや、全米51位と振るわず。

やっぱり野人のままでよかったのかな。


カントリーなあの人

2022年12月13日 | AMERICAN ROCK/POPS

日本じゃカントリーはそれほど人気のあるジャンルではないが、アメリカではカントリーはお家芸、日本ではあまりその名を知られていない大金を稼ぐ大物スターがゴロゴロ。

1971年にジョン・デンバーのRCAレーベルからの4枚目のアルバム、Poems, Prayers & Promisesが出た。彼のマスター・ピースとも入れるお馴染みのTake Me Home, Country RoadsがSunshine On My Shoulderが収録され、全米カントリー・チャートで6位、一般チャートでも15位と大ヒット。

まだこの時期は初々しさが残り、ポールのLet It BeやJunkにジェームス・テイラーのFire And Rainを生真面目にカバーしている。

そして1973年に出たGreatest Hitsがメガ・ヒットを記録し、ついにカントリー界のビッグ・スターに仲間入り。

その後活動の幅を広げ、社会・政治活動などにも参加したが、1997年自身が操縦していた飛行機で事故死し享年53歳で帰らぬ人となった。

しかし私の中の彼のイメージはいつまで経っても飾らない素朴なカントリーな人ですね。


スウィートな野郎ども

2022年12月12日 | BRITISH ROCK

スウィートのデビューは古く、1968年に遡る。シングル・レコードを何枚か出したもののヒットにつながらず、1971年RCAレーベルに移籍。

ヒットメーカーのニッキー・チンとマイク・チャップマンのコンビによるプロデュースと楽曲提供によってイギリスではヒットを飛ばした。

そして1974年には英国とヨーロッパでRCA移籍第3弾のアルバム、Desolation Boulevardを出すことに。

アメリカでは翌年にアルバムを出すもその収録曲は彼らのアメリカでのお披露目って形で編集されていて、1973年のシングル、Ballroom Blitz、前作のアルバム、Sweet Funny Adamsから5曲と英盤、Desolation Boulevardから4曲の計10曲でいいところ取りしたスウィートなアルバムに仕上がった。

結果、発売され全米チャート25位入りを果たした。シングル・カットされたFox On The Runはヨーロッパだけでなくアメリカでも全米5位と大ヒット。

彼らはこの後ニッキー・チンとマイク・チャップマンらのプロデュースから離れて自作曲を数多く取り入たセルフ・プロデュースのハード路線へと舵を切ることに。

もう、スウィートな野郎どもではなくなったってことか....