CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

ついにリック登場、1973年頃

2015年07月31日 | PROG ROCK
前回からの続きで、リック・ウェイクマンがT.REXのアルバム“電気の武者”の中の一曲でピアノを弾いていた事を書いたら、今朝、そういえば、リンゴはT.REXの次作“スライダー”のジャケット用にマーク・ボランを撮影したと思い出す。

じゃあ、リンゴとリックが同時に関わっていたプロジェクトがあったかと探してみると、二人が同時に同じステージに立って演奏をした事はないようだが、1975年フーのトミーを斬新な映像で映画化したあのケン・ラッセル監督が同年、同様のミュージカル映画であるリスト・マニアを撮影した。その映画を見ていないのでなんとも言えないが、リックはその映画のサントラを担当、そして映画にも“放尿して暖炉の火を消す”というちょい役で出演しており、またリンゴも教皇役で出演したとあった。

リストマニア・サントラ盤

申し合わせたわけでもないのに、同じ人になんども遭遇するとか、この手の偶然は身近にもたまに起こる。

今日紹介するアルバムは、リック・ウェイクマンが1972年にかけて録音され1973年に発売となった“ヘンリー6世の六人の妻”である。

ジョン・アンダーソンを除いたイエスのメンバーが参加した一曲目の“アラゴンのキャサリン”は、当初、1971年のイエスのアルバム“こわれもの、FRAGILE”に収録予定であった“こわれもの注意、HANDLE WITH CARE”という冗談 みたいなタイトルの曲を焼き直してできたとのこと。

また、それ以外の曲には、前所属のバンド、ストローブスのメンバーやイエス加入前のアラン・ホワイトなどのセッション・ミュージシャンなど、腕利きのミュージシャンの参加によって制作された。

最新鋭のシンセサイザーなどの電子楽器を使いこなし、鍵盤のマスターと言われたリックだったが、出来上がった楽曲は、エレクトロニクスを基調にした現代的なミニマル・サウンドではなく、メロディ重視のクラッシックとロックのサウンドを融合させ、更に得意とする印象的なフレーズを所々の演奏に散りばめられ、ハイブリッドなサウンドがここに生まれたのだ。

司会者:ではここで話しをまとめていただくために、リック・ウェイクマンさんに登場してもらいましょう。

リックさん。昔から不思議に思っていたのですが、アトランティック・レーベルと契約していたイエスに加わったにも関わらず、一人だけA&Mレーベルの所属となっていましたが、これはどう言う訳ですか?

リック:その前に所属していたストローブスが既に英A&Mと契約していたので、正式メンバーになった時ストローブスのキーボード担当として同様の契約をしていたからだよ。

司会者:なるほど。それで、ソロはA&Mから出されたのですね。

リック:A&Mの創設者であった、ハープ・アルパートは現役ミュージシャンでジェリー・モスは音楽プロデューサー出身、営業担当者との感覚とは異なり、彼らは我々アーチストに対して非常に理解があったのだよ。

司会者:それで、あの“ヘンリー6世の六人の妻”という、失礼とは思いますが、タイトル名からしていかにも売れそうに無い“プログレ・インストのコンセプト・アルバム”を出すことが出来たのですね?

リック:“売れそうに無い”と言うのは本当に失礼だと思うが、今回のような場合、経営者がミュージシャンの意向をあまり重く受けず、コストの面ばかり気にするようでは、発売は難しかったかもしれない。

司会者:そういえば、日本でも同じことがありましたね。

名プロデューサーだった村井邦彦氏(60-70年代に数々のグループ・サウンズや赤い鳥などに楽曲を提供、荒井由美やYMOのプロデュース)がアルファ・レーベルを70年代に立ち上げた時、A&Mはキング・レコードと契約を延長せず、アルファと日本での販売権の契約を結びましたね。その後80年代に村井邦彦氏がアルファをやめると、アルファとは契約を更新せず新たにポニー・キャニオンと契約したなーんて聞いた事があります。もしそうであれば、全くA&Mらしい動きですね。

リック:たまたまA&Mと契約していた偶然が素晴らしい結果を導く事になったのだよ。

またリスナーも何か新しいものを求めていた時代でもあり、評論家のネガティブな批評に反して、リスナーからの想像以上の高評価のおかげもあり、このアルバムは今日までに全世界で1500万枚も売れたのさ。
 
というような会話があったかは定かでは無いが、“ヘンリ-6世の六人の妻”というヒット・レコードとは全く正反対に属するアルバムが非常に売れたことは、いろいろな偶然が重なったと言えるのかも…

偶然が重なり合うと必然になり得ると、本日は少し強引に結論付けた。

Catherine Of Aragon - Rick Wakeman

こんなところにもリック、1971年頃

2015年07月30日 | Bowie, T.Rex, Hoople and Glam.

そう、リック・ウェイクマンのことです。

マーク・ボラン率いるT.REXのアルバム、“電気の武者”からシングルカットされ全英1位に輝いた“GET IT ON”に、アルバムのクレジットにはリックの名前は見当たらないが、どうもピアノで参加しているとのことです。

あれ? “電気の武者”の英文のライナーには、このアルバムからセッション・プレーヤーを使い始めたと書いてあって、ホーンにはキング・クリムゾンのイアン・マクドナルドを起用、キーボードにはブルー・ウィーバー(エーメン・コーナーというグループ出身で、リックがストローブスからイエスに引き抜かれた後、ストローブスに加入、その後ディスコ時代のビー・ジーズでキーボードを担当する。)となっている。

英文のWIKIには, リックとブルー・ウィーバーの両方が“GET IT ON”でそれぞれ別のパートを弾いていたとなっている。そしてピアノのグリサンド奏法のところはリックじゃないかと書いてある。

本当のところはどうなのかな?

とは言え、プロデューサーのトニー・ビスコンティがこの曲に得意のストリングスを被せたのでピアノの演奏がほとんど目立たなくなっていて、誰がピアノを演奏しても同じような気が~

そのため、アルバムのクレジットからリックを外したのかな?

まあ、マーク・ボランとしては、アルバムがヒットさえすればいいので、誰がどの曲に客演したなんてあまり関心がなかったのかもしれない。

“電気の武者”は“GET IT ON”JEEP STAR MANBOSUNなどボラン得意のブギー・サウンドと、アコースティック・ギターやストリングスを使ったバラードやブルースなどの楽曲などがうまく混ざり会うことによってアクセントがつけられ、アルバム全体が単調にならないよう工夫してある。

プロデューサーがトニー・ビスコンティということで、アコースティック・ギターやストリングスを使ったバラード、特に“COSMIC DANCER”なんかは、彼が1969年にプロデュースしたデビッド・ボウイーのスペース・オデッティー風で、一連のヒットのツボを押さえて制作されたものと思う。おかげでは全英1位となり、日本で19位、アメリカでも32位とチャートに食い込んでヒット・アルバムとなった。

セッション・ミュージシャンとは、誰でも簡単になれるものではなく、プロデューサーのどんな要求にも対応できる高度な演奏能力は最低条件で、そのミュージシャンの参加によってアルバムの格を上げるため、すでにある程度名の通ったバンドもしくはソロとしで活躍していることも必要である。

そういう意味では、当時卓越した演奏技術によりイエスに引き抜かれたリックは、その条件に完全に合致していた。しかしながら、彼のイメージとしてはクラッシックやプログレのサウンドがあったので、もしWIKIの記載通り、ボラン独特の怪しげなボーカルに裏声のバック・コーラス絡むグラム・ロック・ブギーのセッションにも参加していたとしたら、やっぱり驚きますね。

Get It On by T.Rex


リックって誰よ?、1973年のこと

2015年07月28日 | 考察シリーズ
1973年の多分11月頃?だと記憶しているのだが、リンゴスターの話題の新譜、“RINGO”が発売されたので早速近所の行きつけのレコード屋に出かけた。レコードの購入後レコード屋のオヤジと色々世間話をしていると、同じような年代の学生風の女の子がやってきて、リック・ウェイクマンとストローブスというバンドの“砂時計”というアルバムを買ったのだった。


リックって誰だっけ? そのストローなんたらって何処のバンド? そういえば、リックってイエスでキーボード弾いているんだっけと、思い出した。

リックは凄いテクニックを持った奏者でナンタラカンタラ…、それに引き替えリンゴの音楽はナンタラカンタラ…と言ってきて、そこでその女の子となんやら口論があったような。レコード屋のオヤジが “音楽の趣味は人それぞれ” って言ってその場を収めたような記憶も。

件の“砂時計”というアルバムは、リックのソロ・アルバム、“ヘンリー八世の六人の妻”と同様に当時イエスのメンバーとして来日した記念盤として日本のみで発売されたコンピ盤であったような気が? レコードの帯にあった、”リック・ウェイクマンとストローブス”というのは実際の彼らの立ち位置を示していたのではない。このアルバムは、リックがストローブスのメンバーとして在籍していた時代に発売された2枚のアルバムから計6曲と、ストローブスのリーダーであったデイブ・カズンズのソロ・アルバム制作に参加した中からの1曲を収録したのであった。すなわち、リックのキーボードの演奏が特に目立っていた曲を集めたものだった。

口論の事はさておき、特殊なコンピ盤の場合、普通メーカーからの取り寄せとなって試聴が全くできないリスクがある状態で、十代の若い人が迷いもなくかなりディープな分野を聴いていたことに今更ながら感心するのだ。

今回のキーワードは、レコード屋のオヤジが“音楽の趣味は人それぞれ”。タイトルにあるリックもリンゴもストローブスは残念ながら登場しません。また次の機会に。

というわけで、ロックではなく純日本的なフォーク歌謡ソングの代表である、1976年に発売された因幡晃の“何か言い忘れたようで…”を紹介します。このアルバムは、オリコン週間チャート2位を獲得、その後約2年間、オリコンのLPチャートにランクインした彼の大ヒット・デビュー・アルバムです。

“わかってください”というヒット曲のように、女性サイドからの思いを歌う曲が結構あり、ハード・ロックを聴いている人からすれば四畳半的サウンドが弱々しいと感じるかも。しかし、よく聴きこむと曲自体は良く出来ており、また情感を込めてしっかり歌われており、それに結構はまってしまう。

現在、因幡晃のオリジナル・アルバムはCDを含めて廃盤となっているみたいで、購入するのは難しいかもしれないが、もしレコード・プレイヤーを持っているなら、LPの中古が割と簡単に入手可能。私もこの中古LPを100円で購入した。

ベスト盤で“わかってください”のようなシングル・ヒットした曲を聴くより、オリジナル・アルバムのみに収められている何気ない曲に惹かれことが多く、これらを聴くと、なんだか70年代にタイム・スリップしたような感じがして、懐かしい気分になる。

年をとったのでしょうかね?

貴方のいない部屋 因幡晃

レノンが我が家にもやって来た、1972年のこと

2015年07月26日 | BEATLES-BADFINGER関連
と言っても、当然のごとく本人が我が家を訪問したわけではない。またレコードの“ジョンの魂”や“イマジン”という形でやってきたのでもなかった。

最初にやって来たのは、なんと“ビートルズ革命”というハード・カバーの単行本であった。なんでも、親戚の人が出版社に入社し、どうもこの本の出版に関わっていたようで、初版出版の記念の送呈本として我が家にやってきたのである。


その時に、その本を読んだかどうかしっかりとした記憶がないため、確実なことは言えないのだが、当時ビートルズというグループは知っていても、ジョン・レノンという個人にはあまり関心がなかったし、また本のタイトルに“革命”と言う文字が刻まれていたので、少なくとも私を含めた我が家のメンバーがその本に対してほとんど興味を示さなかったことは間違いがないと思う。

70年代の始めには、学生運動が過激な方向に行き、当時の一般的な家庭では保守的な思考を持つ風潮だったので、彼らの行動は受け入れられなかった。そのため、当時彼らの活動を連想させる言葉には、やはりネガティブな印象があったのだろう。

また1972年といえば、我が家にもステレオが購入され、ロック入門としてビートルズ、サイモンとガーファンクルや英ハード・ロック・バンドなど定番と言えるレコードが集まり始めたばかりで、ビートルズの多くの未購入だったアルバムを差し置いて、ジョンのソロアルバムを先に購入することは有り得なかった。 そして、ビートルズ時代末期にオノ・ヨーコと制作した前衛3部作の評判や、1969年のトロントでのライブのサイド2の曲の出来から、“ジョンの魂”や“イマジン”の購入は特に急ぐべきものでもなかったと判断したのであった。

と言う状況で 、最初に家にやってきたジョンのレコードは、1973年のソロ4作目(サム・タイム・イン・ニューヨーク・シティーを含めて)のマインド・ゲームだった。かなり後になって 、“ジョンの魂”や“イマジン”を購入し、それらがジョンのソロ活動におけるベストの作品であったことを知る。

特に1971年に発売されたイマジンは、少数の気心の知れたミュージシャンを起用し、ウォール・サウンドで有名なフィル・スペクターも制作に名を連ねていたがストリングスは控えめで、少し力を抜いたボーカルなどにより、派手さのないシンプルな作品に仕上がっため、メロディの良さがさらに際立ったと思った。

その中で、イマジンやジェラス・ガイなどの超有名曲の陰に隠れていた、美しいメロディーを持ったオー・マイ・ラブが個人的な好みで、この曲の延長上に後のナンバー・ナイン・ドリーム(数字の前に#がついた場合、欧米ではそれをNO.と読む)やウーマンと言う名曲が生まれたのではないかと考える。

それ以外にも、アイ・アム・ザ・ウォラスのような歌い方で始まる“真実が欲しい(GIVE ME SOME TRUTH)”や例の豚の耳をつかんだ写真と共にポールを揶揄したと言われる“ハウ・ドー・ユー・スリープ”、アップテンポのクリップルド・インサイドとオー・ヨーコなどバラエティーに富んだ内容にも注目が行った。

“ハウ・ドー・ユー・スリープ” は少しやり過ぎた印象もあるのだが、1957年ジョンがクオリーメン時代にポールと知り合って以来長い間行動を共にしていたので、各々の性格はよく掴んでいたと思う。だから第三者の目にはシリアスに対立しあっているように感じても、当の本人達は、それほどでもなく単にキツ目のジョーク合戦を楽しんでいたのではないかとさえ思えるのである。

本当にお互いを憎々しく感じていたのであれば、何もアルバムの貴重な1曲のスペースを個人攻撃の目的に使うような無駄なことはしないと思うし、後にジョンは、俺がポールとヨーコを選択したことは間違いのない判断だったなどと言ってたみたいだし…… “ジョンの魂”や“イマジン”の出来からジョンを神格化する必要もないし、音楽に関してはジョンあってのポールだし、ポールあってのジョンというごく普通の二人の立ち位置があったのではないだろうか? 

そういった意味では、前出の単行本でのビートルズやソロに置けるジョンの活動を“革命”という言葉で括り付けることは 今となっては非常に違和感がある。やはり70年代初めの頃の情勢がそうさせたのだろうか?

エルトン・ジョンやデビッド・ボウイーらとのコラボはその後ポールと一緒に何かをするための予行演習だったような気もする。それだけに、突然の死去は本当に残念なことだったと思う。

ジョージ、フィル・スペクターやニッキー・ホプキンスそれに小野洋子氏も出てきます。
Oh My Love - John Lennon

レッド・ツェッペリン II、作者の表記問題について

2015年07月26日 | LED ZEPPELIN関連
本日、以前アップしましたレッド・ツェッペリン II の記事に関しまして貴重なコメントいただきましたので、それに関連して補足した記事をアップさせていただきます。

このアルバムの数曲に既存のブルースの曲から歌詞などが引用されたにも拘らず、オリジナルの作者名がクレジットされていなかったことから、後日クレームを受けることになったのですが、ブルース自体がトラッドなど作者不詳の音楽を取り入れている場合もあるので、ブルースをオマージュとして新しいサウンドを作り上げることに関しても同様に寛容であるべきはないかという考えも有ったと書きました。

またレッド・ツェッペリンとしては、例え似通った内容があったとしても、出来上がった曲は新たに創造された全くの別物と言う自負、つまり絶対的な自信があったからこそ、このような表記になったのではないかと思います。なぜなら、このアルバム以外にも同じようなケースがあり、それらは彼ら自身の名前がクレジットされていたからです。

英盤と米盤の楽曲に関するクレジットの表記の違いは、英アトランティックか、ジミー・ペイジやピーター・グラントの意向だったのかはよくわからないのですが、私はレコード会社の英アトランティックが、欧米は訴訟天国であり一作目があまりに売れすぎたのを懸念して、内ジャケットの作者のクレジット記載を意図的に消し、その件をあまり目立たないようにしようとしたリスク管理だったのではないかと推測します。

この手の訴訟ではジョージのマイ・スィート・ロードやジョンのビートルズ時代のカム・トゥゲザーなどが有名で、一旦それに巻き込まれてしまうと、時間やお金の浪費、そして自身の名誉まで傷つけられてしまうので大変です。

ジョンの場合は、カム・トゥゲザーがチャック・ベリーのYOU CANT' CATCH ME に似ていたのことで、その版権を持つモーリス・レヴィからクレームがつけられ、ジョンは訴訟を避けるためモーリスが版権を持つ曲をソロ・アルバムに収録し、その売上からの印税でクレーム話を収めることで決着しようとしました。アルバム”心の壁、人生の橋”のYA YAと言う曲がそれに当たるものでしたが、モーリス・レヴィに言わせると曲の仕上がりがおふざけだったとのことで、ジョンは次作のロックン・ロールに、YA YA の再録とチャック・ベリーのYOU CANT' CATCH MEまで歌わされる羽目となりました。

ゼップ同様、人気があり過ぎれば、何か問題が起こるという有名税みたいなものですね。

さて、作者名のクレジットに関しまして、今回の場合再発が多く、ジャケットやレーベルの表記に関していろいろなバリエーションがありますので、その簡単なまとめとして下記に紹介します。

要約しますと、米盤と日本盤(ワーナー・パイオニア盤)はゼップの申告に従って作者のクレジットを内ジャケットに記載。
英盤は作者のクレジットを内ジャケットに記載せず。
CDが発売されたあたりから、徐々に改定が始まり、昨年のリマスター盤の記載が最終のものとなる?
という感じでしょうか。

米アトランティック盤

内ジャケとレコードのレーベルには、WHOLE LOTTA LOVEはジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムとロバート・プラントがクレジットされている。

英アトランティック盤

内ジャケには作者のクレジット無し、ただしレコードのレーベルには、WHOLE LOTTA LOVEはジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムとロバート・プラントがクレジットされている。

日本アトランティック盤(グラモフォン盤)

内ジャケには作者のクレジット無しそして曲のタイトルのカタカナのフリ付き、ただしレコードのレーベルには、WHOLE LOTTA LOVEはジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムとロバート・プラントがクレジットされている。

日本アトランティック再発盤(ワーナー・パイオニア盤、P-8042とFCPA-1040)


米盤と同様、内ジャケとレコードのレーベルには、WHOLE LOTTA LOVEはジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムとロバート・プラントがクレジットされている。

1994年のドイツプレスのCD

内ジャケとCDには作者の表記無し、WHOLE LOTTA LOVEのみのクレジットが訂正され、ウィリー・ディクソンが追加されている。他の曲のクレジットはレコード盤と同じ。

2008年のSHM-CD紙ジャケ

曲の作者のクレジットの記載が一切なし。

2014年リマスターシリーズ

内ジャケには作者の表記無し、WHOLE LOTTA LOVE、LEMON SONGとBRING IT HOME など3曲のクレジットが訂正され、ディクソンとバーネットの名前がそれぞれ追加されている。これが最終の統一形態と思われる。

コメントしていただいた方、ありがとうございました。

EAGLESのTAKE IT EASYを聴いて思うこと

2015年07月24日 | West Coast Rock

この歌を聴くといつも思い出されるのが、大昔にアメリカに行った時の記憶です。

当時短期間でしたが、サンタモニカの東隣に位置したウエスト・ロサンジェルスの下宿屋に住んでいました。そこから、オンボロのレンタカーで隣町のカルバー・シティーにある語学教室に通っていたのです。

日本の小型のカローラが運転しやすくよかったのですが、生憎大型のアメ車しかなく、短期でそれを借りて通っていました。

しかしながら、昔のアメ車の特徴である柔らかなサスペンションのためデコボコの道を走ると体がふわっと浮く感じで、舗装された平坦な直線道路を長距離走るには適しているものの、混み入った街中を走るには不向きだと感じました。また、アメ車の場合、ハイ・ビームの切り替えもハンドル横のワイパー・レバーを操作するのではなく、ブレーキ・ペダルの横にあるノブを足で押して切り替える仕組みでした。初めて夜に運転した乗った時、ハイ・ビームの設定になっていて、その切り替え方がわからず、対向車より何度もパッシング・ライトを浴び警告を受けました。

語学教室が終了し、友人とラスベガスに車で行ってキャンブルでもやってみようじゃないかとなり、今回は、大型車は扱いずらいということで、小型のフォード・フィエスタってやつを借りました。

信頼のフォード・フィエスタ

ラスベガスに行った後、“どうしようか?” という話になり、“それじゃフーバー・ダム経由でグランド・キャニオンに行こう”と行き当たりばったりの計画となりました。

ところがグランド・キャニオンから街に戻る田舎道を走っている時にラジエーターの温度が急に上がり始めました。もしエンジンが止まってしまえば、夕刻に近い雪道でしかもほとんど車が走っていいない田舎道に取り残されたら大事になっていたかもしれません。幸いにも、下り坂の道が続きだましだましの運転で、なんとか街にたどり着きことなき得ました。応急処置の後、フェニックス、サンディエゴを経由し、なんとかロスにたどり着きました。

チェーンの装備もなく、裸のタイヤで雪道をフォード・フィエスタ行く。まさか、雪が降っていたとは!本当に危険。

車の返却時に、レンタカー屋のおっさんが走行距離の多さにびっくりしていました。

走行ルート

TAKE IT EASYの2番の歌詞に"WINSLOW, ARIZONA IT'S SUCH FINE A SIGHT TO SEE"とあったので、一度WINSLOWに行ってみたいと思ったのですが、車の故障があり行くことは出来ませんでした。しかし、この歌の雰囲気を現地でなんとなく体感できたのではないかと思います。(WINSLOWは通過したFLAGSTAFFの西にある町)

真直ぐ続くアメリカの田舎道

この曲が収録されているイーグルスのファーストは、1972年にあのGETBACKセッションやその他ストーズ、ハンブル・パイなど大物アーチストとの仕事で有名なグリン・ジョンズによってプロデュースされました。そして、録音はロスではなく、なんとロンドンで行われました。

当時、メンバーはロンドンでの録音に納得がいかないと言っていたようですが、ロスで当たり前に録音するよりは、イーグルスの作る楽曲が、単にウエスト・コースト系の爽やかさだけでなく翳りのある楽曲などもあり、英国のスタイルでそれらの特徴を出せるのではないかとレコード会社は考えたのではないかと思います。

結果としてアルバムは全米21位となり、またシングル、TAKE IT EASY 12位、WITCHY WOMAN9位そして PEACEFUL EASY FEELING22位と3曲ともヒットし、上々の滑り出しとなりました。

博士:彼らはロンドンでの録音が気に入らなかったようじゃが、少なくともロスでそれまで音楽活動でしてきたこととは異なる手法を用いたプロデュースを試みたのじゃから、その手法をその後のアルバム制作に生かしたかどうかは別として、良い経験をしたと言えるじゃろう。しかもアルバムはヒットしたから、自信はついたのじゃないかのう。

私:そうですね。今思うと、私も行き当たりばったりで計画性がなかった海外での生活でしたが、 短期だったにも拘わらずカルチャー・ショックを受け、その後の人生方向を決定するのに大きく影響を与えましたね。

それから、最近日本から海外に留学する人は減ってきているみたいですね。中韓の学生がアメリカでは、かなり増えているみたいです。

博士:そうじゃのう~ 日本に住むと何をするにも非常に便利じゃからのう。街中で数分歩けばコンビニにぶつかるが、アメリカじゃそうはいかん。車で行かねなければ、何も買えん。

私:わざわざ海外に行って、面倒な生活を送りたくないのかな?

博士:日本での教育システムが、平均的な人物を生み出すように設計されているので、個々の実力は大体均衡しているように思えるのじゃ。その中で同じ実力の者同士で競争させると、やはり最終的に個々の経験値が物を言うと思うのじゃ。別に海外に行って何かを学んで来いとは言わんが、色々なことを面倒とは思わず経験もしくは体験してほしいものじゃのう~

まあ、お主みたいに、整備不良の車で長距離を走るのは経験を積むというよりは、無謀と言うものじゃ。

Take It Easy Lyrics


映画の中のTINY DANCER

2015年07月22日 | ELTON JOHN
エルトン・ジョンといえば、フォークやロックから、カントリー、クラッシック、ジャズそしてディスコ調の曲まで非常に守備範囲の広い音楽の才能を持ち合わせています。しかしながら、幼少の頃から始めたクラッシックのピアノの影響から、やはりバラードを得意とする歌手兼作曲家ではないかと思います。

バラードとは、音楽のジャンルによって意味合いが異なってきますが、ポピュラー・ミュージックに限れば、ゆったりとしたテンポ 、比較的静かなアレンジ、美しいメロディーやハーモニーが曲に取り込まれてれている、また歌詞の特徴としてはラブソングや感傷的な内容、などなどのイメージになるのでは。

エルトンの曲であれば、古くはYES, IT’S ME、 YOUR SONG、 GOODBY YELLOW BRICK ROAD、 CANDLE IN THE WIND、 SORRY SEEMS TO BE THE HARDEST WORLDなどから少し前のヒット曲I WANT LOVEなど数多くの素晴らしいバラードを残しています。

それらの中で、お気に入りの一つは1971年に発売されたアルバムMAD MAN ACROSS THE WATERから、翌年シングルカット(アメリカのみ)されたTINY DANCERという曲です。


ピアノの前奏から曲が静かに始まるのですが、美しいスティール・ギターにバック・バンドのサウンドが絡まり、その後美しくかつ分厚いコーラスとポール・バックマスター編曲の重厚なストリングスが順次被さって盛り上がっていくドラマチックな構成となっています。

歌詞はエルトンの相棒であるバーニーが書いたもので、彼の前妻であったMAXINEに捧げる内容とのことですが、その歌を聴いて瞬時に内容が理解できるほど英語力があるわけでもないのですが、どういうわけか今でも、歌い出しのBLUE JEANS BABY, L.A. LADY~と言う歌詞がメロディーにうまくマッチし心地よく感じ、今でも心に残っています。

美しいメロディーを持ちながらも、6分以上の長い曲のためラジオでオン・エヤーするには不向きだったのか、アメリカのチャートでは41位と大ヒットには至りませんでした。

しかし、素晴らしい曲はいつの世に成っても評価は変わらず、なんと発売から40年経った2011年にアメリカレコード協会(RIAA)から通算で100万枚以上売れたことから、プラチナ・シングルとして認定されました。

他の歌手やバンドによってこの曲がカバーされたことが、再評価に繋がり、スロー・ペースではあるがプラチナ・シングルの認定に貢献したと思うのですが、かなり昔観た映画(どんな筋だったかは、思い出せない)にも、バスの中でこの歌が歌われていたシーンがあったのを思い出しました。

ネットで調べてみると、2000年にキャメロン・クロウ監督によって製作されたALMOST FAMOUS(邦題あの頃ペニー・レインと)と言う映画でした。ロックバンドの追っかけをしていたグルーピーのペニー・レインという娘と若いロック・ジャーナリストの主人公が出会う話でした。

もちろんフィクションですが、監督が青年時代にローリング・ストーン誌のロック・ジャーナリストとして活動していた経験からこのストーリーが生み出されたみたいです。 この映画なんかもTINY DANCERの再評価に貢献したのではないでしょうかね?

バスの中でこの歌が合唱される映画の中の演出は、エルトンの一ファンとしてはちょっといいシーンだなと思いました。

映画の中のTINY DANCER
Almost Famous - Tiny Dancer


Elton John - Tiny Dancer

前回の続き、昨日と今日

2015年07月21日 | BEATLES-BADFINGER関連
博士:1966年6月、ビートルズにとって前代未聞のアルバムがアメリカで発売されたのじゃ。それは、アメリカ編集のYESTERDAY AND TODAYじゃ。裏ジャケにタイトルとして”YESTERDAY”…AND TODAYと記載されていることから、”YESTERDAY”(曲名)と今日と言う意味であろうかのう?

助手:アメリカでシングル・カットされた2曲、YESTERDAYとACT NATURALLY(英盤では、HELPのB面に収録されていたが 、アメリカではサントラとして発売されたため、英盤のB面の曲はアメリカでは幾つかのアルバムに振り分けられた)、RUBBER SOULから4曲、ダブルA面の英盤シングルの2曲、WE CAN WORK IT OUTとDAY TRIPPER、そして英盤リボルバーから3曲で構成された、コンピアルバムですね。

信頼のレーベル、キャピトル・レコード。それって本当?

博士:リボルバーの英・米盤は同年の8月に発売されたため、6月の時点ではコンピ盤が英盤のオリジナルより早く新曲が出されたのじゃ。

当時は、アルバムはその年の中間と年末に発売されるルーティーンだったので、アメリカのビートルズ・ファンにとっては、ビートルズのアルバムがわずか1ヶ月とチョットの間に2枚も出された事から、盆と正月が一度に来たようなものじゃっただろう。

ビートルズ・サイドも、これらのオリジナルを無視した販売方式に不満を持っていたみたいで、チョット悪ノリしたのか、このアルバムのジャケットを飾る写真として、後日ブッチャー・ジャケットと呼ばれる、例の写真を送った。

助手:聞いたことがあります。

なんでも発売後、現場サイドのクレームから急遽異なる写真をジャケットの上に貼り付け急場を凌ぎ、その後ジャケットは、その差し替えた写真を使用し造り直されたんですよね。

博士:そうじゃ。この回収騒ぎで、キャピトル・レコードは多くの損害を被ったが、アルバムはチャート1位の大ヒットとなり、その損失は難なく補填されたであろう。

しかしながら、これらのトラブルにより、この後のビートルズのオリジナル・アルバムは英盤に準拠することとなったんじゃ。とは言え、次作のサージャントのアルバムはバラ売りするのは難しかっただろうし、マジカル・ミステリー・ツアーでまた編集盤のLP出したから、なんとも言えんのう~

助手:ファースト・ステートと呼ばれたブッチャー・ジャケット・バージョンやセカンド・ステートと呼ばれた、写真張り付けバージョンは、今でもオークションなんかで非常に高価で取引されていますね。

博士:そうジャケも重要だが、このアルバムも英盤バージョンと異なる曲を収録しており、マニアの間では貴重な音源となっておる事も見逃せん。

日本でも1970年になって、東芝音工がこのアルバムをプレスしたのじゃが、なんと彼らは米盤であるのに関わらず、音源はどうも既出の英盤ミックスを使用したとのことじゃ。(1970年の時点では、英盤シングルのWE CAN WORK IT OUTとDAY TRIPPERは彼らの1966年末発売のベストアルバム、オールディーズで聴くことが出来た)

だからマニアとしては、このアルバムの日本盤に関しては、日本独自の堅牢なゲート・フォールド・ジャケットと帯の仕様に価値を見い出すほかなかった。

日本独自の堅牢なゲート・フォールド・ジャケットと国旗帯、博士のようなへなちょこマニアならば、この再発盤でオーケーだが、マニアであれば、丸帯付きの初回盤が欲しいところ。

助手:おおー 博士! 今回のアップは、真面目路線で話がサクサクと進みましたね。

博士:そうYESTERDAY AND TODAYは寄せ集めのアルバムじゃから、米盤リボルバーのように曲を落とそうにも、そもそもこのアルバムにはオチの付け所がないのじゃ。

The Beatles- Day Tripper

ジョージ2位となる、REVOLVER

2015年07月19日 | BEATLES-BADFINGER関連
博士:何処のどなたかはわからないが、昨日ストーンズのサティスファクションのシングル盤について、ブログにアップしてくれたのじゃ。そこにはなんとレーベルの写真まで掲載されており、おかげでシュリンクを破り開封しなくて済んだのじゃ。

本当に有難いことじゃ。これで当分の間、未開封のままご飯を3杯ほど食べながらジャケが鑑賞できるということじゃ。

助手:そんなセコイこと言わないで。ところで、今回のタイトルの”ジョージ2位となる”ってどういうことですか?

博士:ああこれか、アメリカ盤のREVOLVERのことじゃよ。

信頼のレーベル、キャピトル・レコード。それって本当?

60年代、イギリスのビートルズやストーンズなど人気バンドのアメリカでの発売はレコード会社が英オリジナル盤を無視して編集をして販売をしておったのじゃ。

アメリカにおける著作権使用料は、英国のそれに比べて高額になるため、各アルバムから数曲をカットし、それらと英国ではシングル盤でしか発売されなかった曲を加えて新たなアルバムを作ると言う手口じゃ。そのため、アルバムの収録時間はトータルでも30分を切るようなものが出てきて、英オリジナル盤と比べると少し物足りない感じもしたのじゃが、その反面英盤に含まれていないシングルのヒット曲が加えられているので、アメリカ盤は派手さがあった。

助手:ああー、このことですね。11曲収録のうち、8曲はレノン-マッカートニー共作となっていますが、そのうちポール主導と考えられる曲が6曲、ジョンのはSHE SAID SHE SAIDとTOMORROW NEVER KNOWSの2曲で、そしてジョージのが3曲入っているからですね。つまり、ジョン主導のI’M ONLY SLEEPING、AND YOUR BIRD CAN SINGやDOCTOR ROBERTをアメリカ編集アルバム、YESTERDAY & TODAYの方に持って行ったからですね。しかし、REVOLVERの場合は、単に曲が削られただけで、英盤と比べるとジャケットのロゴなどが違うだけでありがたみはあまりないですね。


博士:もちろんジョンは、そんなこと気にも留めていなかったじゃろう。ワシとしてはAND YOUR BIRD CAN SINGなどはなかなか良い曲じゃと思っていたのじゃが、なんとジョンは後に、“そんなのあったけ、ANOTHER OF MY THROWAWAYS(駄作の一つ)”と言い切っておる。

助手:なるほど。作った本人が駄作と言い切ると、他の人はなんとも言えませんから。

博士:ところで、ジョージの作った3曲に触れてみると、ジョージはREVOLVERに収められたこれらの曲の出来からして、彼の音楽制作を含めたアートの才能が飛躍的に伸びたと言えるだろう。

TAXMANは税務署を揶揄すると言う大胆な歌詞が使われている。特に2番の歌詞のバック・コーラスの部分で、当時の労働党出身のウィルソン首相とその後の保守党出身のヒース首相の両方の名前が出てくると言う事から、両名を通じて英国政府に対して”くそったれ”と言っているのじゃろう。当時のメジャーで人気バンドであればなかなか言い出せない事。これこそがロックの真髄じゃ。

言論の自由がかなり浸透した今でも、某国でこのような歌を歌えば即逮捕されるからのう。ちなみに後の1992年に出されたLIVE IN JAPANのバージョンでは、その箇所の名前がジョン・メージャー英首相とアメリカのブッシュ大統領に差し替えられているとのことじゃが、実際聴いてみるとワシはMR.BUSHは聞き取れたが、JOHN MAJORの方はよく聞き取れなかった。

またこの曲でポールが弾くリードギターもかなり革新的なじゃな。彼は、ベース、ギター、キーボードさらにドラムも叩けるロックのマルチ・ミュージシャンのはしりとも言えるのう~

LOVE YOU TOは、当時シタールなどのインド楽器をノルウェーの森みたいにロック・サウンドに取り入れる試みは、他のバンドも行っていたようじゃが、この曲はインド音楽に英詩を乗せて歌うという全く異なったコンセプトで、最先端を行く試みじゃったと思う。当時は、この手の曲を聴くのは苦手でじゃったが、世界の文化が混ざり合った現代においては、ありゃ不思議!なんの違和感もなくサクサクと聴けるのじゃよ。

最後に、I WANT TO TELL YOUは、RUBBER SOULに収録されたジョージ流のポップ路線を継承したもので、少しサイケデリックなアレンジもあり中々よろし~

助手:アメリカ編集だったのが原因で2位となりましたが、ジョンやポールのいるバンドでは、かなりの才能があったとしても、やっぱり万年3位の扱いになるのは仕方がないですね。

博士:確かにその通りじゃが、ソロ・デビュー作のALL THINGS MUST PASSはジョンやポール達の同時期のソロには完勝じゃったと思う。そのとき得た自信から、やれば出来るという気持ちが芽生え、後日本命(ジョンやポール)を追い越すことをイメージし、穴馬すなわちダークホース・レーベルを立ち上げたのではなかろうか?

JOHN MAJORと聞き取れた方、ご一報ください。
Taxman -- George Harrison and Eric Clapton (live)

SATISFACTIONで博士は満足、THE ROLLING STONES

2015年07月17日 | ROLLING STONES関連
博士:ジャジャーン、ジャジャジャジャジャジャジャ、ジャジャーン、ジャジャジャジャジャジャジャ♪
I CAN’T GET NO, I CAN’T GET NO ~♪♪

助手:博士、歌など口ずさんでご機嫌ですね。一体どうしたんですか? 

博士:よくぞ聞いてくれた。実はストーンズの20000枚限定の50周年記念のシングル買ったのじゃよ。シリアル・ナンバー入りじゃ。

助手:ああ、あのSATISFACTIONですね。だけど、手持ちのレコードやCDに同じ音源いっぱいあるじゃないですか?

博士:イヤー、初めは買うつもりは全くなかったのじゃが、その広告をよく見てみると、12インチシングルとなっておった。

助手:そういえば、ビートルズにもそんなのがありましたね~
LPサイズのレコードの外周に、短いシングルの曲がちょこっとカットされ、ほとんどの部分がのっぺりとしたなんとなく間抜けな感じがしますね。

80年代に出た、20周年記念の12インチシングル

博士:何を言うか! レコードの外周部の線速度は内周部より速い。すなわちレコード針による外周部分でトレースされる溝の距離が長くなるため、その部分の音源のデータは、内周部比べて余裕を持って刻まれることから、再生がよりスムーズに行われ、その結果音質がよくなるのじゃ。

言い換えれば、レコードの外周部といえば、トロの部分なのじゃ。そしてシングルと同じ45回転の速度で12インチ盤を回転させるのでさらに良い音質が期待出来るのじゃよ。

助手:じゃ早速、その12インチ45回転盤の威力とやらを体験してみましょうよ。

博士:待ちなさい! せっかくシュリンク・ラッピングで密封されているので、当分の間、未開封のままジャケを鑑賞しようではないか。ワシはこのジャケットを見ているだけで、ご飯2杯いける。

助手:ガクッ

博士:それよりもワシの研究では、この歌の肝は最初の4行の歌詞に集約されていて、残りのパートは、語呂合わせのお飾りじゃと思う。

I CAN’T GET NO SATISFACTIONは、NOが二つ使われているが、否定を強調した口語文体で、そして“なぜなら”というCAUSE(BECAUSEの短縮形)を使っていることから、簡単に意訳してみると、

 “決して満足しちゃいねーよ
 決して満足しちゃいねーよ
 なぜって、何度も何度も成功するまでやってみる質だから
 決して、決して満足しちゃいねーよ”

と解釈出来るのじゃ。

すなわち、1964年のデビュー・アルバムを出し、その後英国で1枚、アメリカで2枚のアルバム、そして数々のシングルを出してきて、翌年にはかなりの地位を築き上げた。

しかしまだ彼らのとっては、道半ばと言うことで “俺たちの実力はこんなもんじゃない” とでも言いたかったのじゃないかと思うのだが。

そして1965年に出されたこのシングルで英米両方で1位を獲得したのじゃ。なんともストーンズらしく強気で、そしてそれを大ヒットさせてしまうところがすごいじゃないか。

助手:なるほど、有言実行ですね。ところで博士、お金がないのに、これよく買う事が出来ましたね?

博士:おー、それについては問題が全くなかったのじゃ。何しろ、君が密かに貯めていた通販のポイントそっくり使わせていただいたのじゃ。

助手:ガクッ

Satisfaction-Rolling Stones

ニールとポールのA DAY IN THE LIFE

2015年07月16日 | CSN&Y

私は、CSN&Yの中では、ニール・ヤングが一番のお気に入りです。

現在70歳近くになっているはずですが、その歳になっても精力的にコンサートを行ったりあるいは新譜を出し続けられるミュージシャンと言えば、ボブ・ディラン、ポール・マッカートニーやストーンズなど本当に限られた人達だけです。

ニールの存在は以前から知っていたのですが、70年代初め頃は、英国ハード・ロックの方に興味が行っており、そちらのレコードを買い求めていくと、当然アメリカのロックまで手が回らなかったのでした。

しかし、70年代中盤のウエストコースト・サウンド・ブームで、イーグルスやアメリカなどハーモニーを重視した心地よいサウンド作りをするグループが出てきて、それじゃと最初に買ったのが1975年発売のZUMA(全米25位)というアルバムでした。

ジャケはメキシコのアズテック文明のイメージを描いたイラストですが、曲の内容は、B面の3曲目にあるコルテス・ザ・キラーを除いては、どうもそのイラストとは関係があまりないみたいです。シンプルで馴染みやすいフォーク・カントリー系の曲と自身の独特な ギター・ソロを入れたロック系の曲などから構成されていて、まあ、割と親しみ安いアルバムと言えるでしょう。

ニールのファンにとって一番困ることは、彼がアルバムごとに作風を全く変えて制作することが多いことでしょう。初期のフォーク・ロックから、急にハード・ロックをやったり、そうかと思えば、R&B、もろカントリーやボコーダを使ったエレクトロ・サウンド、そして歪んだギターサウンドのグランジ・ロックへと、またフォーク・ロックに戻ったりと、全く気の向くままに音楽活動を行ってきました。

ニールは全くコマーシャリズムを無視して新作を発表するレコード会社泣かせの存在と言えるでしょう。前作が気に入って、そのイメージで次作を購入すると全く異なった作風の場合があり、ファンとして彼の活動を継続して追いかけるのは骨が折れます。

そんなニールがポール・マッカートニーと凄く親しい関係だと最近知ってびっくりしました。ジョージの場合は、ボブ・ディランの繋がりで、ニールと何らかの交友関係がもしあったとしても不思議ではないのですが。

両者の音楽性が全く異なり、二人の接点なんて一体どこにあるのか調べてみると、2004年に地雷除去運動やBRIDGE SCHOLL BENEFIT CONCERTのチャリティー関連で一緒に歌っているようですが、実際はかなり昔に遡ることになります。

1967年まだポールと結婚する前の写真家リンダ・イーストマンが彼の写真を取っており、2008年にアーカイブ・ライブ・シリーズとして発売された、SUGAR MOUNTAIN(1968年のライブ音源)のジャケットに彼女が撮影したポートレイトが使われています。多分、ポールはリンダ経由で知り合ったということでしょうか? 


非常に親しい関係を見ることができるビデオ・クリップがあります。それは2009年のハイドパークで行われたENGLAND FOR HARD ROCK CALLING というライブ・ショウのもので、ニールはビートルズのA DAY IN THE LIFEを歌っていて、この時ポールが途中でステージに乱入し、両者がステージ上でかなりハチャメチャな行動を取っています。酔っ払っているのでしょうか? もしそうだとしても、数万人の観客の前でこの手のパフォーマンスがあったのは、驚いたのと、また彼らが凄く仲のいい関係だと思いました。

暇な時に、結婚していればその相方、もしくは親しい友人たちとどのような経緯で知り合ったかなんて、過去を遡ってみるのも楽しいのでは? 新事実が出て来るかも知れませんよ。

ただし年を重ねると、昔の記憶がメモでも取ってない限り確かでない事が多く、どうでもいい事の方が数多く記憶に残っていたりします。

アルバムZUMAのオープニング・ナンバー
Neil Young - Don't Cry No Tears


ハチャメチャなA DAY IN THE LIFE
Neil Young & Paul McCartney A Day In The Life(In HD)


虚しい言葉、ALLMAN BROTHERS BAND

2015年07月15日 | Southern Rock

1971年10月、バンドのリーダーかつリード・ギタリストのデュアン・オールマンの交通事故死により、大きなダメージを受けたオールマン・ブラザーズ・バンドであったが、事故死する直前に制作していたスタジオ録音の楽曲と例のフィルモア・イースト・ライブの未収録曲を合わせた2枚組のアルバム、EAT A PEACHをなんとか出すことができた。

しかしながら、それ以降のアルバムの制作となると、看板ギタリストであったデュアンの補充として新たなギタリストを探す必要があったのだが、当然の事ながらそう簡単に見つけることは出来なかった。何しろ、新たなギタリストはデュアンと比較の対象になるわけだから、超一流でないと務まらないのである。

そのため、もう一人のギタリストであったディッキー・ベッツにはかなりのプレッシャーが掛かったのでないかと思われる。当面の間、一人で二人分の作業をしなければならない。スタジオ録音ではオーバ・ダブが可能だが、ライブとなると一本のギターでは以前と比べて音が細くなるのは避けられないので、弾き方になんらかの工夫が必要となる。

そのような危機的な状況で、バンドは上手く事に対応出来たのではないかと思う。すなわち、替えのきかないギタリストのポジションの補充を諦め、代わりにキーボードのチャック・リーヴェル(後に、新バンド、シー・レベルの結成やストーンズのツアーのサポート・メンバーとして知られている)を加入させ、2台のキーボードに1本のギターを絡ませるアンサンブルに変更した。

また、ギタリストをディッキー、一人に固定することにより、今までデュアンの陰に隠れていたディッキーがリーダー・シップを発揮し、バンドに新たな魅力を出す事に成功した。すなわち、ランブリン・マンなどのカントリー系のロックやジェシカなどラテン系のノリの良い楽曲がバンドのレパートリーとして新たに加わったのである。

特にシングルで出したランブリン・マンの大ヒット(全米2位)は、アルバム、BROTHERS & SISTERSの全米1位のチャート・アクションに貢献し、バンドを一気にトップの座に上り詰めさせた。

BROTHERS & SISTERSのジャケ裏の写真。ジャケの表裏に写っている男の子と女の仔は、バンド・メンバーの子供。

その後、バンドは活動休止を経て再結成やメンバーの交代など色々なことがあったが、現在に至るまでバンドとして活動が継続できたのは、この時の大ブレイクのお陰であると言っても過言ではないだろう。

助手:どうなることかと思いましたが、バンドの編成を上手く変えることで窮地を見事に脱し、ブレークのチャンスに変えましたね。

博士:そうじゃのう。ランブリン・マンの大ヒット一発で、トップ・バンドになったんじゃから。

その昔、尾崎紀世彦の “また会う日まで”が大ヒットした時、毎日同じ歌をなんども歌わされて、彼は閉口したという事じゃったが。

やはり大ヒット曲は、必要じゃ。大ヒットから得られる経済的な余裕は、音楽活動を続ける上で重要なファクターじゃからのう。我がロック研究所も予算不足で、ストーンズのスティッキー・フィンガーは、デラックス盤ではなく輸入通常盤に変更されてしまった。

なんとも寂しい事じゃのう~

助手:博士! この間、研究所の予算でジャズのボックス・セットを無断で買ってしまい悪いと思ったので、先日博士の好きなスプゥーキー・ツゥースのボックス・セット注文しておきました。

博士:それはでかした。

助手:といっても予算が全く無かったので、博士のカードで翌月一括払いでの発注です。

博士:なんと、それじゃわしの来月の小遣い全部が~ せめて3回の分割決済にして欲しかった。

翌月一括払いという言葉が、心に虚しく響くのう~ 

という事で、WASTED WORDSを聴いてください。

The Allman Brothers Band - Wasted Words


変革を求めて、キャット・スティーブンス

2015年07月13日 | BRITISH ROCK
2015年7月、アテネ・シンタグマ広場
ギリシャがデフォルトに陥る可能性が高まり、EUから差し出された緊縮経済の提案に対する7月5日の国民投票の是非を問う集会がこの場で開かれた。

緊縮経済の提案を受け入れEUに留まるのか、それともEUから脱退の道を選ぶのか? ギリシャ国民にとって、どちらの方向を選ぶにせよ今までのギリシャであり続けることは不可能で、ついに変革を選択する時が来たと言えよう。

1973年5月、アテネ・シンタグマ広場
その40数年前、なんと同じ場所に、キャット・スティーブンスが音楽雑誌のインタビューを受けるために訪れていたのであった。イギリス生まれのキャットではあるが、父親がギリシャ人でギリシャの血を半分引いて、また親戚一同がその地に暮らしていたので、アテネという場所が彼にとって場違いではなかった。

そして、キャットは彼自身の変革を告げるアルバムをジャマイカで録音したと雑誌の編集者に答えるのであった。

ジャケ裏の写真、ジャマイカ一度行ってみたい~

FOREIGNER、これが1973年に発売された、1967年のデビューから数えて7枚目のアルバムである。

MONA BONE JAKON、TEA FOR THE TILLERMAN、TEASER AND THE FIRE CATそしてCATCH BULL AT FOURなど、過去の4枚のアルバムで大成功した、アコースティック・ギターによるフォークもしくはフォーク・ロックのスタイルをすべて捨て去り、変革を求めて今までと異なった音楽を作り出すことにした。

今までの音楽性を消し去る意味から、彼の成功に多大に寄与した、プロ デューサのポール・サミュエル・スミスやギターのアラン・デービスを外し、セッション・ミュージシャンを新たに雇い入れ、録音に臨んだのである。

その音楽とは、彼が当時興味を持っていた、アイザック・ヘイズやスティービー・ワンダーらの作る黒人のソウルやR&B・ミュージックを目指したものであった。A面がフォーリナー組曲となっており約18分以上に及ぶ起伏のあるソウルフルかつファンキーさも持つ楽曲である。B面は4曲納められており同様の方向性を持っている。

以前のアルバムと同じようなサウンドを期待したファンからは失望の声もあったが、彼自身にとってミュージシャンとしての視点は思うままの音楽を制作し続けることであったから、それが受け入られようが受け入れられまいが、必ずと通るべき道だったと考えそれを実行したのであろう。

前作(全米1位・全英2位)と比べると売り上げは落ちたが、それでも全米3位・全英3位と健闘し注目に値するアルバムとなったことは間違いない。そしてこの時のソウルやR&B・ミュージックのアプローチが今後のアルバムの制作にも生かされたのは言うまでもない。

さて件の、追い詰められたギリシャ国民が、キャットのように退路を断ち切り過去の良き日々を捨ててでも変革し、新しいギリシャにどう生まれ変わるのか注目したい。

貧乏人の私などは直接的な利害関係がギリシャとは無いので、お気楽な気分でこのようなことが言えるのであるが、数百億円にも上るギリシャのサムライ債の償還期日が近づいていることから、それらの有価証券を所持している日本の投資家たちは眠れない日々を送っているかも知れない。金儲けにリスクは付き物だが、何が起こるか、期近のことでさえ予想できない不安定な世の中になったものだ。

シングルカットされたTHE HURT( 灰色のえのぐ)聴いてみてください。
Cat Stevens - The Hurt



レコードのジャケットは、キャットの顔がカラーになっていました。

コスモの工場(倉庫)、CCR

2015年07月12日 | CCR and John Fogerty

長い間アポストロフィーと日本語の濁点を見逃していました。我ながら不覚でした。

1970年7月に発売されたCCRの5枚目のアルバムのタイトルをずっと“コスモス・ファクトリー”と思っていたのです。また70年代に同名の日本のプログレ・ロックバンドが存在し、彼らがCCRのアルバムのタイトルをバンド名に拝借したものだとずっとも思っていました。

調べてみると、CCRが当時練習場所として使っていた倉庫をファクトリーと呼び、ドラムのダグ・コスモ・クリフォードのミドルネーム(もしくはニックネームか?)を拝借して、このアルバムのタイトルをCOSMO’S FACTORYとしたみたいです。日本語に訳すと“コスモの工場(倉庫)”となり、なんとも間の抜けたタイトルになるので、発音をカタカナ表記にして邦題をコスモズ・ファクトリーとしたのでしょうね。

思い込みとは恐ろしいもので、A面の1曲目のRAMBLE TAMBLEはカントリー・ロック・タッチの曲であるが、突如プログレ風な結構長めの間奏があったり、B面の4曲めI HEARD IT THROUGH THE GRPEVINEは延々と続くギター・インプロビゼーションがあり、これがCCRの宇宙観(COSMOS)などと深読みしていました。

このアルバムは、CCRのベストと言ってもいいほどで、ロックンロール、カントリー・ロック、R&Bなどバラエティに富んだ内容となっており、英米でもチャートで1位を獲得しました。そして、アルバムからは贅沢にも両面Aサイドのシングル3枚が出され、それぞれ大ヒットしました。




因みに、オリコンでは10位で、次作のペンデュラム(オリコン2位)よりランクが下、これは多分次作に日本人が好む、哀愁に満ちたメロディーを持つ“雨を見たかい”が入っていたからじゃないかと思います。

とはいえ、“雨を見たかい”はベトナム戦争に於いて、ジャングルに隠れているベトコンを炙り出す為、アメリカ軍が空中からジャングルに散布 した、オレンジ・エージェント(枯れ葉剤)のことを歌っているのではと言われています。哀愁に満ちたメロディーからは想像のつかない内容ですね。

I WANT TO KNOW, HAVE YOU EVER SEEN THE RAIN, COMING DOWN ON A SUNNY DAY. 君は晴れた日に降り注ぐ雨を見たことはあるかい?

このアルバムにも、A面の6曲目にRUN THROUGH THE JUNGLEという曲がありベトナム戦争(アメリカ軍のプラトーンの行動)のことを歌ったのではないかと思います。
BETTER RUN THROUGH THE JUNGLE, DON’T LOOK BACK TO SEE. ジャングルの中は走り抜けたほうがいい、振り向いてはダメだ!

ベトナム戦争の時代は、中国は少なくとも盟友の関係でしたが、つい最近ベトナムの首相が対戦国であったアメリカを訪問し、中国の南シナ海進出を牽制するという、その当時では思いもよらなかったことが起こっています。

なんとも不思議な世の中。

Creedence Clearwater Revival: Run Through The Jungle


Creedence Clearwater Revival - Who'll Stop The Rain


F-1と言ってもフォーミュラーワンの事ではない、1978年の思い出

2015年07月11日 | AMERICAN ROCK/POPS
一番古いパスポートに、F-1と呼ばれる4年間有効のアメリカのスチューデント・ビザのスタンプがある。これは1978年のもので、一時期漠然とアメリカ留学を考えていた。


今は、どうなっているのかわからないが、当時は最初にアメリカの語学学校に行き、その後ミシガン・テストかTOEFLを受けて、その試験の点数で、入学可能な大学に振り分けられるのであった。残念な事に、いろいろな事情で最終的に留学は諦め、語学学校のみの渡米となったわけだったが、いろいろと楽しい思い出となった。

その当時、よく彼の地でラジオによくかかっていた曲で記憶に残っているのは、

BEE GEESのディスコものである、SATYN’ ALIVEやHOW DEEP IS LOVE


SAMANTH SANGのEMOTION(BEE GEES作)
Samantha Sang - Emotion (w/ The Bee Gees)


CHUCK MANGIONEのFEEL SO GOOD(フリューゲル・ホーンを使ったフュージョン系で、ホテルのハウス・バンドがラウンジで演奏していたのを聴いた。ライブで聴くと迫力がある。)


GERRY RAFFERTYのBAKER STREET(英国のSTEELER’SMIANA WHEELSの中心メンバーだった、GERRY RAFFERTYのソロ。どうゆうわけかアメリカでこの曲が受けた)
Gerry Rafferty - Baker Street


FOREIGNERのHOT BLOODED(これもよく流行った)


PABLO CRUISEのLOVE WILL FIND A WAY(私はサーファーではなかったので、日本にいた時はこのバンドの事は全く知らなかった。)
Pablo Cruise - Love Will Find A Way


GEORGE BENSONのON BROADWAY(流れるような滑らかなギター、いいですね。)


JEFFERON STARSHIPのCOUNT ON ME(JEFFERON STARSHIPも日本ではあまり聴かなかった。JEFFERSONと言えばAIRPLANEのあの“おっさんバディ・トゥ・ラブ”ぐらいしか知らなかった。)
Jefferson Starship - Count on Me


BOSTONのDON’T LOOK BACK(2作目でアリーナ・ロックの王者になった。)


KENNY LOGGINSのWHENEVER I CALL YOU FRIEND(STIVIE NICKSとハモって歌っているのが心地よく聴こえる。)
Kenny Loggins and Stevie Nicks - Whenever I call You Friend


ELOのTURN TO STONE(当時コンサート・ツアーを演っていた。しかしテープでの演奏や効果音を使いすぎと文句を言われていたような記憶が?)


などなど。 
もちろん日本語でのテレビやラジオなどはなかったから、毎日がビルボード・ホット100聴き放題であった、と言うかそれしかなかった。

みなさんは、その頃一体何をしていたでしょうか?