CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

ブラス・ロック誕生

2024年12月31日 | AMERICAN ROCK/POPS

60年代末、コロンビア・レコードからデビューしたブラッド、スウェット・アンド・ティアーズ。

本日は彼らの1968年のセルフ・タイトルのセカンド・アルバム、Blood, Sweat And Tearsでも。

(1978年の再発盤)

BS&Tは、ブルース・プロジェクトを脱退したアル・クーパーが中心となって新しい方向性を求めてバンドを結成しデビューも、1作目の制作後アル・クーパーやランディー・ブレッカーらが脱退。そこでプロデューサーにジェームス・ガルシオを据えそしてパワフルなボーカリストとして、デビット・クレイトン・トーマスが加入し他ことで音楽の方向性が一変。

これが全米1位の大ヒットをもたらす事に。

同じ時期に同じコロンビア・レーベルからデビューしたシカゴとホーン・セクションを駆使したブラス・ロック・バンドとしてよく比較される。しかも本作はシカゴと同じジェームス・ガルシオはプロデューサーを務めている。

ただシカゴの若いロック世代をターゲットにしたサウンドに対して、BS&Tは少々ジャズ寄りで少し上の世代のリスナー向けって印象で棲み分けが出来ていたって感じですかね。


ハード・ロックの王道

2024年12月29日 | DEEP PURPLE-RAINBOW関連

もうすぐ今年もおしまい。

ソフト・タッチで年越しするも悪くないが、オイラとしてはハードに締め括りたい。

てな事で、本日はディープ・パープルでも。

デビューしてから内容のいいアルバムを制作してきたもののイマイチ人気が出ない。ツェッペリンがブルージーでヘビーなロックでアメリカで成功を収めたことから、我らリッチー師匠はこれだ!って叫んだかどうかは定かではないが俺たちも続け〜って事でハード・ロック路線に舵を切る。

第1期でのバンド編成でボーカルだったロッド・エバンスとベーシストのニック・シンバーが脱退し、1969年にハード・ロック仕様に対応できるイアン・ギランとロジャー・グローバーが新たに加入した事からここに第2期パープルが誕生。

ただ、新メンバー加入後のツアー最中にバンド・リーダーのジョン・ロードたってのお願いにより、ロンドン交響楽団を引っ張り出しクラシックとロックの対話・融合なる実験的なライブを敢行する寄り道はあったものの、かえって思い残すことは無くなったのかハード・ロック路線まっしぐら。

完成したアルバムが1970年に出た彼らにとって通算4枚目のスタジオ・アルバム、In Rock。

(2016年の再発LP)

ポップな要素、プログレ的な展開やオーケストレーションのダビングなど余計なものを削ぎ落としここにシンプルなれどビートとギター・リフを強調したハード・ロックが完成。

いや~、久々に聴くといいね。

これで今年にあったろくでもない負の記憶を全て吹っ飛ばしスッキリさせようじゃないの。


地味だけれど悪くない

2024年12月28日 | PROG ROCK

オランダのロック・バンド、フォーカスは1975年に5枚目のスタジオ・アルバム、Mother Focusを出した。

当時はプログレ・ロックも勢いを無くし転換点に来ていた時期だった事、また中心メンバーのタイス・ファン・レールとヤン・アッカーマンがソロ・アルバムの準備などに時間を取られていた関係もあってかっての制作されたアルバムにおける熱量は今回それほど感じられなかった。そしてそんな負の雰囲気がバンド内を覆い尽くしたのかこのアルバムを最後にバンドは一旦解散。

かく言うオイラもほとんどこのアルバムを手にすることはなかったのだが、今回聴いてみてプログレ・バンドとして格付けされたいたのが今回フュージョン系にイメチェンしていて驚いた。かってのようなとびきり目立つ曲はなくまたプログレ・バンドの代名詞とでも言える長尺の大作志向の組曲も今回収録されず全編が3分程度の比較的地味目の小品で構成されていた。

ただ、肩の力の抜けた落ち着いたサウンドは今のオイラには不思議としっくり来る。

それから帯に記載された宣伝文句は、ジャケに描かれたイラストを眺めて単に妄想を膨らませただけの相変わらずのやっつけ仕事だったね。

..... 空かける乱雲は妙なる子守唄。戦艦マザー・フォーカス号の見出した愛の港へ!

一体何のこっちゃ?

 


当時の問題作、マッカートニー

2024年12月27日 | BEATLES-BADFINGER関連

久々にポールの1970年のファースト・ソロ・アルバム、McCartneyでも聴いてみようとレコードを引っ張り出す。

以前このブログでもアップした通り、当時はビートルズ最終アルバム、Let It Beより先にこのアルバムが登場した事で色々とすったもんだあったみたいだけれど….

またアルバムの内容がポールの作品としては超ライト級って感もあって当時はちょっとやっつけ仕事のように感じたけれど、そんな思いもいつしか風化しオイラとしては肩肘張らずにリラックスしてイージー・リスニング的に楽しんでいる。

あれから約45年も経つ今となってはもそんな事どうでも良くね~って話かな。


ボウイー・ライブをヘビロテする

2024年12月26日 | Bowie, T.Rex, Hoople and Glam.

70年代後半ベルリン三部作を完成させたデビッド・ボウイー。1980年にそれまで築き上げて来たイメージに区切りをつけるためのアルバム、Scary Monstersを制作。

更に1983年のLet’s Danceにて新たなポップ・スターを誕生させたものの、続くアルバムで自身が納得いかなかったのか、バンド・サウンドを追求するってことでティン・マシーンを結成し、90年代にはソロ活動に戻りアルバムの制作していく事に。

あまりの変遷具合にオイラとしても少々興味が薄れ、Let’s Dance以降はボウイーの作品をあまり聴くことが無くなった。

そんな中2018年に2000年に開催されたイギリス、グラストンベリーでのフェスで約25万人の大観衆を前にしたボウイーのライブ・アルバムが急遽登場。オイラはYouTubeにて視聴。セット・リストには70年代の曲も結構取り上げていて、ボウイーも往年の高域は出せずともリラックスした中で歌いきり久々に楽しめた。

調べてみると、2000年6月にボウイーはミニ・ツアーを敢行、アメリカで2回とイギリスで2回の計4回のツアーを行った。イギリスでのライブの一つが6月25日のグラストンベリー・フェスでのものでもう一つは6月27日にBBC Radio Theaterで行われたライブ。本日はその音源を楽しんでみることに。

(何だか目から光線が出ているみたいでエスパーかって感があるが、聴いてみるとそこにはリラックスいたボウイーがいる。)

観客はわずか250人のこじんまりした会場で収録が行われたそうで、その音源には観客の反応や拍手などが無くライブ感は乏しいのではあるが演奏はかっての尖ったものでは無くリラックスした上で安定感があってかつスタジオ・ライブ並みの臨場感もあって良い感じ。

オイラとしてはジギーからヨーロッパ三部作辺りが一番聴いた時代で、久々にCD2を何度もリピートした次第。


J-Pop、旧時代はつらいよ

2024年12月24日 | JAPANESE

今のアーティストは、Cool JapanなるプラスのイメージとYouTubeやTikTokなどの画像メディアなる新たの武器に一気に海外でも成功できるチャンスがある恵まれた時代に生きている。

70年代のJ-Pop アーティストは海外進出となると余程の実力がないと中々難しい時代だった。MTVもまだ無く、日本のアーティストを売り出そうとするなら海外での公演が不可欠で実績のないアーティストにそんなセールス・プロモーションに割ける資金などなかった。

そんなこんなでちょっと1980年のサンディー(Sandii)のソロ・アルバムを引っ張り出してみた。

(初回盤は緑色の別ジャケだった)

(昔は日本なんて中国の一部って思っていた人もいたので、あえてこの図柄で勝負!)

(5曲目のAlive, Okinawanな旋律にロックが絡んできて心地よい)

プロデュースが細野晴臣。脇を固めるは久保田麻琴、高橋幸宏、教授、大村憲司、松武秀樹らイエロー・マジック系の実力派アーティストの面々。

そして、ジャケ表はピンクの色彩を基調とした背景にプラスティック製のようにピチッとしたサンディーのナイス・バディーがドドォーンと登場。そして裏は日本と言うよりは、アジアをイメージしたエキゾチックなイラスト。

更にテクノ・ポップに日米ハーフを生かした達者な英語で歌われているのがポイント。

てな事で当時の日本の先物買いのリスナーを狙っていたのと、海外でも特定のリスナーに少しは刺されば良いかなって感じのプロダクションだったかな?

あれから約45年経った今聴いてもそれほど古いって感じはしない中々の出来。もしあの時代にYouTubeやTikTokがあればそこそこ彼の地でも売れたんじゃないかと….


J-Pop 新時代

2024年12月23日 | JAPANESE

いや~ これほどまでにオイラがオジン過ぎたのを感じた事はない。

昨日、久々に点けた見たテレビでNHKスペシャル、J-Pop 新時代、熱狂は世界を駆けるという番組を観た。最近一番流行りのCreepy Nuts、Number_iと新しい学校のリーダーズなる3組のグループが登場し世界進出を果たしているという内容だった。

Number_iはジャニーズの会社が解散したことから新たに結成されたグループだったのはかろうじて知ってはいたが、それ以外の事は全く知らずにこれら3組の今流行のヒップホップをベースにした曲を初めて聴き、今やすごい事になっているのだと感じたね。

オイラが特に親しみを持っているその昔の日本ミュージック・シーンでは、60年代に洋楽のポップ、R &Bやロックが進出してきてコピーされ更にグループ・サウンズが登場。70年代になるとそれらをベースに日本的なオリジナリティーを更に高めていく事になる。

70年代初めの中心的な存在の一つがはっぴいえんどだったかな。バンドの活動自体は短命だったが、解散後70年代のJ-Popや歌謡界を牽引していく役割をそれぞれが果たしていく事になる。

本日は彼らの1974年に出たコンピ・アルバム、Singlesでも。とは言え当時バンド名義で出したシングルが3枚だけだったので、サイド−1は大瀧詠一の2枚のシングルと細野晴臣のシングル、A面・B面合わせて計6曲。サイドー2に彼らの3枚のシングルA面・B面合わせて計6曲が収録された変則的な内容となっている。

(2001年に再発されたレコード盤)

(巌窟王のエドモン・ダンテスをもじった作詞家、江戸門弾鉄には笑った)

(ヴァン・ダイク・パークスが何気に作曲に参加している)

フォークでもなく、また歌謡曲やグループ・サウンズ系でも無いあちらの影響を受けた不思議な感じで、なるほどこれがニュー・ミュージックなのかと当時じんわりと理解していったものだ。

ところが、21世紀になってJ-Pop 新時代を飾る高速ジャージー・クラブのビートに乗ってBling-Bang-Bang-Bornって歌われるとロートルなオイラにはそのスピードにはもう付いていけないね。

Bling-Bang-Bang-ボケ〜ってなる。


時代劇が少なくなったね

2024年12月22日 | JAPANESE

オアシスがデビューして早30年以上が経つ、昭和は遠くになりにけりってよく言われるけれど、平成の世もそろそろ一昔前の懐かしの時代に突入って思える今日この頃。ただオイラの音楽史における更なる発掘をするとなるとやっぱり二昔前の60ー70年代ですかね。

そこで本日は70年代末の岡林信康でも。

岡林信康と言えば60年代末から70年初期ごろ、山谷ブルース、友よとかチューリップのアップリケなんて深夜のラジオで掛かっていた記憶が…  ただ洋楽により親しみを感じていたオイラはそれほど関心を示さなかった。

ディランとザ・ホークス(後のザ・バンド)の如くはっぴい・えんどを従えてフォーク・ロックでブイブイ歌っていたが、活動を停止しその後田舎に籠って農業に勤しむ。その後更に活動再開するとフォークや演歌の方に流れたかと思いきや急にポップな芸風に路線変更と目まぐるしかった。

日本コロンビアからビクター系のインヴィテーション・レーベルに移籍し1979年に制作したアルバムが “街はステキなカーニバル” だった。

昔、フォークの神様と呼ばれていた岡林信康を知っている者としては、なんだかおちょくられている様なタイトルではあるが、フォーク、ポップそして歌謡曲が混ざり合い、歌詞に関してもポリティカルな要素が抜けたより時代に即したより身近なものとなった。またデビュー当時のフォーク・シンガーのイメージを覆すようにポップな曲を演奏する姿が、なんとなく今は自身が演りたい音楽を演るだけ!何か文句ある?と開き直っているかの様にも感じたね。

“君に捧げるラブ・ソング” がピカイチであるが、このCDにはボートラとして個人的に一押しの “Gの祈り” (服部半蔵、影の軍団のエンディング)が収録されていたのでつい買ってしまった。

そう言えば、最近は殆ど時代劇に新作テレビで見ないね。時代劇は現代劇と比べて制作にお金がより掛かるのと、視聴者がオイラの様な年配が多くスポンサーが重視するコア視聴率が取れないからですかね?

こんな時、更に昭和は遠くになりにけりって強く思っちゃいますね。


あれから30年

2024年12月21日 | BRITISH ROCK

90年代のミュージック・シーンといえば、R&BやHip Hop系のミュージシャン達が全盛の時代。ロック系となるとオイラのようなクラシック・ロックを好む世代の嗜好に合うようなバンドを見つけ出すことは中々難しいかったが、そんな中で例外であったのがOasisだった。

ギャラガー兄弟を中心に結成されたバンドが1994年に出したファースト・アルバム、Definately Maybeは大ヒット、翌年のセカンド・アルバム、(What’s The Story) Morning Glory?で更なる世界的人気を獲得することになる。このセカンド・アルバムは全英1位・全米4位と大ヒットし、世界中で通算2200万枚の売り上げを記録し、彼らのキャリアのなかで最も売れたアルバムとなった。

当時彼らはビートルズのファンだと公言しており、ビートルズの影響も幾らか感じ取れる。例えば大ヒットしたシングルのDon’t Look Back In Angerの歌詞の中のI Start Revolution From My Bedなんて下りはジョン・レノンとオノ・ヨーコの一連の実験音楽のテーマを思い出させるし、音に関してもイマジン風のピアノから始まるなど、特にジョンの影響をただ受けているようだ。 

シンプルなギター・バンド編成のポップな演奏にオイラも70年代を思い出しつい引き込まれた。

この兄弟はいつも喧嘩していたような印象があって、結局バンドは解散となり非常にもったいないことになるのであが、数ヶ月前に再結成のアナウンスが出て来年にツアーをするらしい。

兄貴の歌うDon’t Look Back In Angerをお互い心に刻んで是非ともツアーを成功させて欲しいものだ。

アンガー・コントロールよろしく!


若きシカゴ

2024年12月20日 | Chicago

1969年のCSN&Yのライブを聴いていると、シカゴのその当時のライブも聴いてみたくなった。

1969年、アルバム、Chicago Transit Authorityでデビューしたシカゴが同年の9月にトロント・ロックンロール・フェスティバルでライブ公演を行った際にレコーディングされた音源がある。もちろんその当時は発売されずお蔵入り。

(全7曲入り、8曲入りのバージョンもある。それから1曲目はBeginningsではなくIntroduction、やっぱり海賊盤だね。)

1978年になってから所属していたコロンビア・レーベルからではなくアン・オフィシャル盤としてマグナム・レーベルから発売されたいわゆる海賊盤だった。

因みに1978年といえばテリー・キャスがレボルバーで事故死した年だ。アルバムのジャケにもデリーに捧ぐとの記述があったので多分テリーの追悼盤として急遽発売されたのかも知れない。その後数多くの小規模なレコード会社が再発し、オイラも1998年イーグル・レコードから発売されたCDを手に入れた。

翌年のセカンド・アルバムからはシンプルにChicagoに改名して活動することになるので、この盤の売りはChicago Transit Authorityとしての最後の公演ですかね。

このCDには観客の声援や拍手などが収録されていない編集なのでライブの臨場感に欠けるが、アン・オフィシャル盤としては音質がそれほど悪いという事もなく、それとセカンド・アルバムに収録される予定でまだ発売されていない25 Or 6 To 4が聴けるのも興味深い。

テリーのギターは唸り、ピートのハイトーンのボーカルも力強く、更にダニーの嵐の様なパワー溢れるドラミングがスゲー。

若き日の彼らの熱気に満ちた演奏を存分に楽しめる。

やっぱり若いっていいね。


懐かしのCSN&Y

2024年12月19日 | CSN&Y

1968年、スティーブン・スティルス、デヴィッド・クロスビーとホリーズをだったしイギリスからアメリカに渡ったグラハム・ナッシュがフォーク・ロック・バンド、CS&Nを結成。

1969年5月にファースト・アルバムを出すもバンドにもっとエレクトリックな要素を加えたいとスティルスから提案があり、ギター奏者を探していたところバッファロー・スプリングフィールドでスティルスと同僚だったニール・ヤングが加入することに。

そして同年8月にウッド・ストックの舞台に立ち、更に翌月にはニューヨークのフィルモア・イーストでの公演の模様を録音したものがLive Fillmore East 1969と銘打たれつい最近彼らの公式音源として発売された。

CSN&Yとしてのライブは1970年のライブ音源をまとめ翌年に発売された4 Way Streetが有名ではあるが、個人的には何故か曲の最後の方だけぶつ切りで収録された中途半端なSuite, Judy Blue Eyesに不満を持っていたので、今回のライブ盤では全編が収録されているとの事からいつもの悪い癖でついこの新譜を買ってみた。

アコギ・セットとエレキ・セットの2部構成となっていてそのどちらもが聴きどころ満載のサウンドが楽しめるが、特に16分にも及ぶDown By The Riverでのスティスルとヤングのギター・バトルはオイラとしてはこのアルバムの最大の聴きどころかな。

一気に60年代末から70年代初めの頃にかけてのあの混沌としエネルギーに満ちたアメリカにタイム・スリップした様な…


細かいことが気になるオイラ

2024年12月18日 | S&G and etc.

1964年サイモンとガーファンクルはアルバム、Wednesday Morning 3PMでコロンビア・レーベルかメジャー・デビューを果たす。全編二人のヴォーカルをポールのギターがバック・アップするフォーク調の至ってシンプルなアレンジメント。

デビューの作品と注目を集めるにはちょっぴり地味でパンチが足りなかったのか、アルバムのセールスは見事ズッコケ、傷心のポールは新たな何かを求めてロンドンへと旅立つ。

その翌年、コロンビア・レーベルのスタッフ、トム・ウィルソンによってファースト・アルバムに収録されたアコースティック・バージョンのSounds Of Silenceにエレキでの伴奏をオーバー・ダブしフォーク・ロック調に変換しシングルで出したところ、これが大ヒット。

ポールはニューヨークに舞い戻り次のアルバムの制作に復帰し、1966年に完成したのがヒットしたニュー・バージョンのタイトル曲を中心としたアルバム、Sounds Of Silence。アルバムは全米・英のチャートでそれぞれ21位に13位と大躍進。エレキとドラムによるリズム・セクションのオーバーダブというちょっとした工夫が曲にメリハリをつけリスナーに新鮮さを感じさせた。

本来オイラよりも上の世代の方々がオン・タイムのリスナーなんだけれど、70年代になってステレオ・セットが我が家に来た時に真っ先に買ったレコードがサイモンとガーファンクルのベスト物のLPだった事から結構思い入れがあり、本日は当時海外で買った80年代の末頃にプレスされた初期のCDを聴いてみることに。

後にリマスターされた再発CDと比べると音圧が低いのであまり聴く機会が無いのだけれど、久々に手に取ってみてある事を発見。

なぬ〜? このCDはオーストラリアで発売されたものだけれど、CDの内径部に刻まれたデータを見るとヨーロッパのオーストリアでプレスされたって何かの洒落みたいだけれど…

(発売元がSony Music Ent. Australia Limited、CDの内側のシルバーのリングにはManufactured By DADC Austriaって記載が。)

因みにソニーとオランダのフィリップス社によって共同開発されたCDは80年代初期のCD販売黎明期にはまだ生産体制が整っていないレーベルもあってソニーが他社のCDをプレスしていた事があり短い間ではあったが日本や海外でMade In JapanのCDが出回っていたそうな。

そんな細かい事気にするより、もっと中身を語りなさい!

え〜っと、Sounds Of Silenceだからこの場合 “静寂” って事で何も語らずですかね。


44年前の12月

2024年12月17日 | ELTON JOHN

今日、アメリカの学校で銃乱射、容疑者は15歳女子なんて見出しがネットのニュースで…

その昔彼の地に住んでいる友人に郊外のバカでっかいホームセンターに連れて行ってもらったことがある。その中に銃器を販売しているコーナーがありレボルバーやオートマチック、ショットガンにアーミー・ライフルなんかが展示してあって、店員に頼めば手に取ることも出来き、彼の地では本当に銃器が身近な存在だと思った。

文化や考え方の異なる彼の地で暮らしていない第三者が銃規制法に関して物申すのは如何なものかと言う考えもあるけれど、やっぱり子供がこの手の事件を起こすとなると既に事を制御出来ない段階に近づいてきて、より声を大にする時がきたのかも知れない。

更に同様のことが起きないよう早くその問題をなんとか解決する手段を見つけて欲しいものだ。

ところで思い起こすは丁度44年前の1980年12月、ジョン・レノンが訳のわからぬ奴から発射された凶弾に倒れた。

かってお互いの曲を歌い合って親交を深めたエルトンがジョンに対しての鎮魂歌とも言えるEmpty Gardenを捧げた。この曲は1982年のアルバム、Jump Up!に収録されていてしっとりとしたバラードに乗せられた歌詞、ジョンがいなくなった世界を優れた庭師がいなくなって荒れ果てた庭(Empty Garden)の情景がなんとも泣ける。

我が家にはシングル盤もあって、日本盤は大ヒットしたBlue Eyes(サイドーA扱い)とのカップリングだった。

(因みにこのシングル盤のレーベルは多分制作サイドのエラーだと思うが、BサイドにあるべきEmpty Gardenがサイドー1、反対にBlue Eyesがサイド−2と記載されている。)

この曲を聴くにあたっては、やっぱり他の曲の印象が混ざり合うLPで聴くよりはシングル盤で聴いた方がより心に響くかもね。


個性強すぎ

2024年12月16日 | BEATLES-BADFINGER関連

ポールが曲を他のアーティストとコラボしたとなると有名な所ではスティーヴィー・ワンダー、マイケル・ジャクソン、エルヴィス・コステロや10CCのエリック・スチュワートなんかが思い浮かぶが、曲の提供となるとリンゴ、バッドフィンガーにメリー・ホプキンぐらいかな。

ポールの曲を歌うとなると何から何まで全てポールがお膳立てをしてしまい完全にポールの色に染まってしまうので、当のアーティストの個性が消されてしまう。ポール作のバッドフィンガーのヒット曲、Come And Get Itなんてポール自身が歌ったデモの音源をコピーして歌う様にって指示があったとかなかったとか?

本日はポール作でメリー・ホプキンの曲でも。

メリーはアップルのアーティストの契約第1号で、ポールがプロデュースしたThose Were The Days(悲しき天使)がシングル・チャート全英・全米でそれぞれ1位と2位を獲得した大ヒット作。そして1969年のシングル第二弾がポール作のGoodbyeで、全英チャートではビートルズのゲット・バックが1位の座に君臨していて惜しくも2位(全米13位)だった。

(別アートによるジャケのシングル盤)

ポールのプロデュースに更に全ての楽器をポールが担当する入れ込み様。2019年のアビー・ロードの再発盤に収録されたポールによるこの曲のデモを聴いて、思った通りシングル盤のアレンジとほぼ一緒。

カバーとして他のアーティストが原曲のアレンジを崩して歌うのは悪くないが、ポールの提供曲としてヒットを狙う企画の場合はポールのイメージが定まり過ぎていて、売れればそれに越した事はないのかも知れないが、その通りに歌えとなると当の本人たちは何か引っかかっていたかもね?

それから思い出したのだけれど、フィービー・スノウがポールのEvery Nightをカバーしていたけれど、これは彼女の個性がよく出ていてソウルフルでファンキーな仕上がりで中々いいカバーかな。


年末近し

2024年12月15日 | BEATLES-BADFINGER関連

年の瀬も押し迫ってくると何故か聴きたい歌がある。

Let It Beである。

(日本盤の初期シングルは、ジャケにはステレオ表記だが実際の音源はモノ。オイラは何故かこのシングル・バージョンがお気に入り。間奏でレスリーのアンプを通したギター・ソロがほんわかしたキーボードの演奏に聞こえるところがいいのかな?)

あたかも神の手に導かれた如く波風無しにただ流されるままに生きて来たオイラ。

Let It be、あるがままにって省エネでほんとに心地良い響き。

ダメな時は何をやってもダメ。こんな時は無駄に動くより、結果はどうあれ、もうあるがままにって感じでやってきた。

さあそこの貴方、そんなに悩んでいないでレリビーでいきましょう!

ってぼんやりと夢想していると、クレカの12月末の支払い予定通知書がメイルで届く。

ガビィ~ン、先月こんなに使った?

クレカの場合、財布からお金が減らないからアレもコレもっていらないものまでつい買ってしまう。こんなの見つかったらカーチャンに怒られちまうよ。

早く夢の中から目醒めて、口先だけのレリビーじゃなく現実的なリボで!

どうもすいません。