CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

マラソン・レースでボビー・コールドウェルが出てくるかって?

2016年02月29日 | AMERICAN ROCK/POPS
脚が痛てぇー!

昨日レースに出たのだ。ゴールした後、右足のふくらはぎが急につってしまい、1分ほど半泣きの痛みが続いた。

もちろんあの東京マラソンを走ったのでない。

地方で開催された、ハーフに出場。陸連公認ではないが、ハーフとクウォーターのレースで同時に5、6千人程度のランナーが走る割と大きな規模の大会。

しかも、河川敷や人通りの少ない田舎道ではなく、幹線道路を通行止めにして住宅地の中を走り回る人件費のかかった大会で有る。

ここのところ、足の故障などで練習不足となり、いまいちタイムも悪かったので、今回なんとかハーフで2時間を切ってリベンジに燃えていたわけであるが、結果は2時間10分も掛かり今までで最低の記録となった。

最初の11キロでなんとか1時間を切ることが出来たので、最後スパートをかければ、なんとかギリギリで2時間内に滑り込めるのではと淡い期待を抱いていたところ、 練習不足からか、その後急に足が止まりスピードがガタ落ち、さらに悪いことに14キロ地点で急にお腹が張ってきた。

その原因は多分おならだけの気がしたのだが、もしそうでなかったら悲惨なことになるので、エイド・ステーションまでなんとか我慢して走り簡易トイレに飛び込んだ。

やっぱりおならだけだった~

ここで2、3分ロスし、ゴール直前の4、50メートル程度登る坂で精も根も尽きはて、予定より10分以上もかかってしまった。まあ、おじいさん予備軍としては健闘した方だと自身を慰める。

マラソン・レースと言えば沿道からの声援がつきもので、和太鼓の演奏や2、30名程度の楽団によるマーチなどの演奏が定番で、ランナーを元気付けてくれる。

“負けないで~もう少し、最後まで走り抜けて~♪♪”と演奏されるのであるが、今回は練習不足からくる予想外の足の疲れとおならによって、その意に反して負けてしまった。

痛みの残った右足を引きずりながらなんとか家にたどり着き、その夜、久々に聴いたアルバムがこれ。

1978年、アメリカのシンガー、ボビー・コールドウェルがセルフ・タイトルで出したファースト・アルバム。日本でAORのキングと呼ばれるなどに常に人気が高かったシンガー・ソング・ライターである。

ソウルやスムーズなジャズ系ボーカルが特徴で、あのボズ・スキャッグスのAOR時代の名アルバム、SILK DEGREESやDOWN TO LEFT THENのアルバムから、ロック・サウンドを抜き取った感じと言えるのでは… また、ボズにHEART OF MINE、EX-シカゴのピート・セテラにNEXT TIME I FALLを提供し、ソング・ライターとしての実力も非常にある。

アルバムは全米21位、シングル・カットされたYOU WON’T DO FOR LOVEも全米9位とヒットし、まずまずの滑り出しだった。

ただ残念だったことは、2作目のCAT IN THE HATを出した後、所属していたTK・プロダクション(KC・アンド・サンシャイン・バンドも所属していたマイアミのレコード会社)が経営不振に陥り他社に買収されてしまったことだ。そのため継続したプロモーションが出来ず、3枚目のアルバムは、別の会社から発売もチャート・インせず、4枚目は欧米では発売されず人気のあった日本のみでアルバムが発売された。

そういえば、彼の1枚目と2枚目のアルバムのレコードやCDでの再発は日本のみだったということから、彼の日本での高い人気がよくわかる。

夜も更け薄明かりの照明の中で、一人ウィスキーのオン・ザ・ロックのグラスを傾け、今日あったことを思い出しながら1日の締めを行うという日本人が好むシチュエーションにぴったりのアーティストだと言える。

ほんまかいな?

もしレース中にヒット曲、YOU WON’T DO FOR LOVEが頭の中に浮かぶぐらいの余裕があれば、目標のタイムなどいとも簡単に切る事が出来るのではないか? 少なくとも、今回の14キロ地点でお腹の張りの原因はおならである瞬時に判断出来、走りながら放出すれば2、3分の不必要なロスは防げたのでは?

しかし、“君がしないことだって、俺は愛のために何でもするのさ”…そう俺は君への愛のために走り続けるのさ、と妄想しながらレースを続けるのはかなり無理がある!

マラソン・レースでの応援歌は、やっぱりZARDの“負けないで~ほらそこに、ゴールは近づいている~♪♪”

そう、トイレはもうそこだ~


我が家のレコードは、輸入盤だった。TK・プロダクションのインナーが付いている。

TK・プロダクション傘下の、クラウドレーベルから販売

そういえば、グロバー・ワシントン・ジュニアのJUST THE TWO OF USとよく間違える。
Bobby Caldwell - What You Won't Do for Love (Album Version)

ジャズから和物まで

2016年02月27日 | 特になし
洋楽ロック一辺倒ではない。たまにはそれ以外のジャズなんかも聴く。と言っても、ジャズの場合、その入口近辺をうろつく程度の初心者である。

ここにジャズの名門レーベル、ブルーノートから出された、レコード番号1595番のキャノンボール・アダレイのリーダー・アルバム、SOMETHIN’ ELSEがある。


演奏は、CBSレーベル所属のマイルス・ディビスがリーダーで当時結成していたバンドによるものだが、契約の関係でリーダーとしてマイルスの名義では発売できなかったらしく、リーダーのキャノンボールと影のリーダー、マイルスのコラボ・アルバムと言って良いのかも… 

“ああだ”、“こうだ”とレビューするほどの知識もなく、バック・グラウンドで流して楽しむ。これぞ古き良き時代のジャズというイメージ。

但し再発のバーゲン価格で買ったCD盤ではあるが…

ブルーノート・レーベルは1933年に設立され、44年にニューヨークのLEXINGTON AVENUEに社屋を構えた。その後、1957年に47 WEST 63RD STREETに移る。

なんでも、この頃に発売された1500番台の98枚のレコードに名演が多く、オリジナル初回盤はファンの間では人気の高いコレクター・アイテムになっているそうな… レコードのレーベル部分に印刷されたブルーノートの社屋の住所の表記はオリジナルのレコードかどうか見極めるために重要だそうだ。なぜなら、その後リバティ社に買い取られてしまい、再発盤には住所の表記がなくなってしまったからだとか… 

詳しくはその道の専門家に~♪

ところで海外での住所の表記と言えば、日本のブロック単位ではなく、通りの名称が使用されている場合が多い。

通りの片側に奇数の番地、反対側は偶数の番地が割り振られ、番地と通りの名前がわかれば、番地が奇数か偶数かで、通りの一方側の番号のみを順に追って行けば、目的の地所にたどり着くという合理的なものである。

ニューヨークの場合、マンハッタン島の中心街は、碁盤の目に道路が引かれ、南北の道にはアベニュー(日本流では、XX街)、東西に横切る道にはストリート(日本流では、XX丁目)と呼称されている。すなわち、47 WEST 63RD STREETは西63丁目47番となる。

何故、頭に西が付くかと言うと、ニューヨークの場合は、フィフス・アベニューもしくはセントラル・パークの縦のラインで市街地を東西に別けており、63丁目の場合は、その中心にセントラル・パークがあるからだ。ストリートの延長上のセントラル・パークの反対側には、EAST 63RD STREETなるものが存在するというわかり易い配置となっている。

日本の場合は、道が地域の境界線となることが多く、通りに面した反対側は、異なった地名になることが多い。そして4方道路に囲まれたブロックを時計回りに地番号を振っていく。地名が通りの名前と必ずしも一致しないので地図を一瞥するだけでは目的地探しにくい。

京都市内中心部は他の地域と同じように町ごとに分割されているが、街全体が碁盤の目になっているため、道案内をする際、東西と南北に交わる交差点を起点とし、そこから上る(北に)、下る(南に)、もしくは東入る(地図上では右の方向)とか西入る(地図上では右の方向)と表現するらしい。

例えば“四条河原町上る”と言えば、四条通と河原町通の交差点を北の方向に向かうという意味である。碁盤の目のように配置されたニューヨークの街並みみたいに、”どこそこの交差点を西に2ブロック行く”とかわかり易い。

それから、京都には結構難読ではあるが昔ながらの地名が数多く残り、今もそれらの地名発音する響きから、町の長い歴史の雰囲気を感じ取ることは出来る。

そして、この後ニューヨークつながりで久々に日本のバンドのアルバムを聴いてみた。

甲斐バンドの1983年のアルバム、ゴールドである。


ジャケットにはニューヨークのマンハッタンの景色をハドソン川から撮った金色に輝く写真が使われている。そのころレコード・プレーヤは故障で廃棄してしまい、カセットを買って車の中で聴いていたような覚えがある。

ミキシング・エンジニアにボブ・クリアマウンテン、マスタリング・エンジニアにボブ・ラドウィックとアメリカ最強の超大物二人を起用しアルバムの最後の仕上げをニューヨークで行った。すっきりくっきりサウンドとでも言うのか… ボブ・クリアマウンテンは当時ストンーズ、スプリングスティーンや他の有名処と仕事をしていたそうなので、お金かかっただろうね。

そのミキシングを行ったのはニューヨークにあるレコード・プラントのスタジオで、住所は321 WEST 44th STREETと、当時のブルーノートの社屋とそれほど離れていない。

今や、ブルーノートの社屋もその地になく、レコード・プラントのスタジオも廃止されこの世に存在しないのであるが、両アルバムの音楽だけはレコード(記録)として後世に残り、今も当時の雰囲気や面影を伝え続けるのである。

安心してください。MP3付いてます。

2016年02月23日 | DEEP PURPLE-RAINBOW関連
”パープル7枚組LPボックス・セットを買っちまった~!” と前回のアップした記事に書いたわけであるが、この7枚の内訳が2期のマシーン・ヘッドと紫の肖像(ウーマン・フロム・トウキョーが入ったアルバム)、3期の紫の炎(ご存知バーン)と嵐の使者(ストームブリンガー)、4期のカム・テイスト・ザ・バンド、そして2期のメンバーでの再結成された時の2枚のアルバム、パーフェクト・ストレンジャーズとザ・ハウス・オブ・ブルーライトだった。


どう言うわけか、2期の重要アルバム、イン・ロックとファイヤーボールが漏れているという、中途半端な編成だった。


このLPボックスを出すときにこの2枚も含めた9枚組するか、もしくはパーフェクト・ストレンジャーズとザ・ハウス・オブ・ブルーライトの代わりにイン・ロックとファイヤーボールを入れれば、2期から4期までのスタジオ・アルバムが全て揃うというすっきりとした形になったのに?

そこでちょっと調べてみると、ディープ・パープルの70年台の初回盤発売当時は、北米や日本ではワーナーが、そして英国などヨーロッパ諸国ではEMIがそれぞれ販売権を持っていた。すなわち、1970年のイン・ロックと1971年のファイヤーボールは、当時英国などヨーロッパ諸国では、EMI傘下のハード・プログレ専門レーベル、ハーベストから発売されていた。


数年前の音楽関連の企業再編によって、EMIの所属アーティストとして最も有名なビートルズの最新リマスターのCDやレコードはユニバーサルから発売された事からもわかる通り、EMIのレコード事業部はユニーバーサル・グループの、そしてEMIの音楽出版事業(著作権の管理)はSONY/ATVのグループのそれぞれの傘下となった。

マシーン・ヘッド発売前に設立された自身のレーベル、パープル・レコードは、EMIの傘下だったことから、最近のリイシューはEMIを傘下に収めたユニバーサルから発売となったわけである。

しかし、ややこしいことに、ユニバーサルは2013年にEMIの一部のレーベルをワーナーに売却し、そこに旧ハーベスト・レーベルのアーティストだったピンク・フロイドやディープ・パープルも含まれていたため、イン・ロックとファイヤーボールだけが今回のボックス・セットから漏れ、ワーナーからバラ売りされたのである。

なるほど。

ユニバーサルによるLPのリ・イシューの場合、BACK TO BLACKのサイトからMP3のダウン・ロードが出来るクーポンが付いてくるのであるが、果たしてワーナーからリ・イシューされたものはどうなのか…


ありました!、THISISVINYLCOLLECTORS.COMからダウン・ロード出来るようだ。


また、イン・ロックとファイヤーボールは、アビーロード・スタジオにて ハーフ・スピード・カッティングで制作されたとのこと。ハーフ・スピード・カッティングといえば、原盤をカットするスピードを半速にして、その分レコードの音溝を正確に刻むことが出来、分解度の高いクリアーな再生音を聴く事が出来るらしい。その昔、東芝EMIがビートルズのアビー・ロードのレコードをプロ・ユースとして制作した時に使われた技術だったと記憶しているのだが…


果たして、パープルのレコードでハーフ・スピード・カッティングの効果なるものを実感出来るであろうか…

MP3のダウン・ロードのクーポンが付いているだけで喜ぶ程度のリスナーなので、あまり期待は出来ないだろうと自ら悟るのである。


買っちまった~!

2016年02月20日 | 特になし
今日はレコードの規格について話をしてみたい。

19世紀末に円盤型のレコードと蓄音機が発明されたのであるが、当初はレコードの規格はばらつきがあったようで、工業製品として世に出していくには、規格を統一する必要があった。その後にサイズが12インチで78回転のレコード規格へと収斂されていく。20世紀の中頃、新たな技術によって、12インチのサイズで33-1/3回転のレコードの登場となった。

それによって2つのレコードの規格が誕生し、78回転のものをSP(スタンダード・プレイ)と呼び、後者は、回転数が従来の半分以下と低いことから長時間の収録が可能となり、LP(ロング・プレイ)と呼ばれることになった。

しかしながら、より良い材質の使用などを含めたLP盤の圧倒的な性能によってSP盤は消えていく運命となる。

同じ頃、両面合わせて2曲のみ収録し、コンパクトでかつ音質も良いとされる、45回転の7インチ盤が世に出た。これがシングル盤である。

そして、カッティング技術がさらに進化し、音質をそれほど落とさずに45回転の7インチ盤の収録時間を延ばすことが出来るようになり、片面に長尺もしくは2曲程度の楽曲を収録する規格であるEP(エクステンデッド・プレイ)が誕生した。

これ以外に、収録曲を表裏の両面で4曲に絞り、7インチのサイズで33-1/3回転の規格のレコードをコンパクト盤と呼ぶ。

LPが高価であった時代、収録曲数は少ないが安価で購入することが出来るので一定の人気はあった。特に日本の場合は、レコードの値段が非常に高く、60年代後半から70年代全般にかけては、平均月収が10万円を割る時代に、一枚千五百円から二千円もするLPを買ってと言われても中々手が出ない時代であり、コンパクト盤の需要があったと考える。

但し音質としては、7インチ盤にカットされる場所がLPで言うとレーベル面に近い内周部になり、レコード針で溝をトレースする線速度は12インチLPの外周部と比べると遅くなるため音質はLP音源やシングル盤と比べると良くないという欠点がある。

日本では、両面で計4曲を収録する場合は、45回転の7インチ盤であるEP規格ではなく、33-1/3回転の規格に統一され独自に製作されたみたいである。

一番身近なところでは、ビートルズの英盤EPは33-1/3回転で会ったが、日本では45回転のコンパクト盤である時期まで製作された。

マジカル・ミステリー英国再発EP盤、45回転

マジカル・ミステリー日本再発コンパクト盤、33-1/3回転

アメリカでは、7インチのサイズは家庭だけでなくジューク・ボックスで使用されることも多いので、規格外のEPやコンパクト盤の需要はあまりなかったのではないかと思う。

レコードの中での規格闘争で勝ち抜いたLPとシングル盤であったが、CDの登場で風前の灯、さらにダウン・ロードやストリーミングなどの配信により、息絶えたと思いきや、最近レコードの売り上げが伸びてきている。全盛時代のそれと比べると微々たるものの、今に時代にあって売れ行きが伸びているのは不思議なこと。

マニアに言わせれば、レコードの音は柔らかく温かみのある音となるのであろうが、私の場合はその存在感にあると言える。そこそこの再生機器を使い耳を凝らして聴けば、その違いがわかるのであろうが、私の老いた駄耳とオンボロ・オーディオでは果たしてそこまで言い切れるのかな?

と、ここまでいつもの長いフリのあまり意味のないうんちくを披露したのだが、今日の本題は、“やっちまったー”である。何を“やっちまったー”かと言うと“買っちまったー”である。

ああー、これね! じゃ、早速開封の儀を執り行い、最新リマスターのハイウェイ・スターでも爆音で聴こうじゃありませんか~

パープル7枚組LPボックス・セット、再結成の2枚のアルバムが最新リマスターで再発されたのがこのボックスの売り。どうゆうわけか、IN ROCKとFIREBALLが漏れている。

いやー、ちょっと。一旦開封すると何だか存在感がなくなるみたいで。今度、心が落ち着いて一息入れたところで、その儀を執り行いたいと~

右手が勝手に通販のサイトをオープンし、購入のボタンをプチっといっちゃったんです。左手でそれを抑えようと試みたのですが…

またまた、無駄遣いしちゃってすみませんでした。あの~、明日から卵かけ御飯お願いします。

“おっさん達 OF THE CANYON”の人生って! サークル・ゲーム

2016年02月20日 | SSW

ジョニ・ミッチェルといえば、柔らかなソプラノボイスをシンプルなアコースティックサウンドに乗せて、独特な節回しで自作曲を歌うカナディアン女性シンガー・ソング・ライターである。

当初はフォーク調の曲が主であったが、その後ジャズ・ミュージシャンを起用しジャズ風なアルバムを制作するなどフォークとジャズの領域をクロス・オーバーするとでも言うべきか、彼女独自のスタイルを構築していった。そして、つい数年前までアルバムを出し音楽活動をしていたようだが、最近脳動脈瘤という大病を患い病院に入院していたらしく心配なところである。

1970年に発表されたアルバムにLADIES OF THE CANYONがある。そのアルバムの最後を飾るサークル・ゲームという歌はいつ聴いても瑞々しく感じる。

同年に60年台後半の学生運動の走りとでも言える回想を記録した、いちご白書(STRAWBERRY STATEMENTS)というノン・フィクションの本が映画化された。

その映画の主題歌に、パフィー・セント・マリーという女性歌手によるサークル・ゲームのカバーが使用された。映画を見た人はこちらのバージョンがしっくりくるかもしれないが、私としてはシンプルなアコースティック・ギターの伴奏でゆっくり目に歌われる、ジョニのオリジナル・アルバム・バージョンを押したい。

一般的に言われる平均年齢の半分をすでに通り越し、残りの人生が今まで生きてきた時間よりはるかに少なくなると、どうしても昔のことに回帰する傾向があるように思える。もちろん歳を取っても過去のことは一切振り返らず、前に見えることだけに全力を注ぐポジティブな考えを持った方もいるのではあろうが、私としては、この手の曲を聴くとどうしてもノスタルジックなムードになってしまう。

ゆっくりした、ジョニ・バージョンをどうして薦めるのかというと、この曲はメロディーも秀逸だが、歌詞も示唆に富み重要で、歌詞カードで言葉をゆっくりした歌唱に合わせて追っていくと、結構頭に内容がストレートに入ってくるのである。

リフレインのパートで、

And the seasons they go round and round(そう、季節は巡り巡って過ぎ去る)
And the painted ponies go up and down(木馬もアップ・ダウンを繰り返しながら)
We're captive on the carousel of time(時の回転木馬に囚われたみたいに)
We can't return(元に戻ることはできない)
We can only look behind from where we came(今来た道から振り返れるだけ)
And go round and round and round(そう、巡り巡って過ぎ去る)
In the circle game (サークル・ゲームみたいに)

二番の歌詞のところで、

Sixteen springs and sixteen summers gone now(16回目の春と夏が過ぎ去り)
Cartwheels turn to car wheels thru the town(おもちゃのカートから街を通り抜ける自動車へと)
And they tell him,(みんなは彼に言う)
Take your time, it won't be long now(ゆっくり楽しみな、今の時はそれほど長くはないよ)
Till you drag your feet to slow the circles down(足を引きずらしてまで、時の歩みをスローダウンさせようとする迄のことさ)

三番の歌詞は、

So the years spin by and now the boy is twenty(時は過ぎ去り今や二十歳となる)
Though his dreams have lost some grandeur coming true(幾らかの夢は失うも、素晴らしきことも現実となる)
There'll be new dreams, maybe better dreams and plenty(新しい夢、多分より良きものでそして数多くあるだろう)
Before the last revolving year is through(大人になる最後の年を過ごす迄には)

人生にアップ・ダウンは付き物で色々な困難に直面することはあるだろうけれども、希望を持って人生のサークル・ゲームを続けようというメッセージなのか、そこに絶望という文字は未だ見あたらない。

それもそのはず、ジョニは当時27歳で、まだ人生の後半を展望できる年齢には達していなかった。もし出来るなら、今20歳を過ぎてから中高年に至るサークル・ゲームなるものを聴いてみたいものだ。

と! 不意にバック・グラウンドに“二人だけのメモリ~♪ どこかでもう一度~♪♪”とバンバンのヒット曲“いちご白書をもう一度”がしんみりと流れる。

助手:博士!さっきからなぜ遠くの景色をじっと眺めているのですか? 老眼防止のトレーニングですか? 遠くの緑生い茂る山並みを見ていると眼に良いと言いますからね~

博士:バッカモ~ン!

回転木馬の木馬がアップ・ダウンするがごとく、山あり谷ありだった遠い昔に思いを馳せておったのじゃよ。過去に戻ることは出来ずとも、あの時こうすればよかったなどと省りみて、これからに繋げる事は出来るかも知れん。

とは言え、山といっても小高い丘の上に登ったのが精一杯じゃったし、ほとんど谷底じゃった。

助手:なるほど、優雅なイメージの“LADIES OF THE CANYON”ではなく“おっさん達 OF THE CANYON”となんかむさ苦しい響きが伝わるような人生だったわけですね。

Joni Mitchell - The Circle Game


スクープ!ジャケットが語る、アメリカは丘(陸)サーファーだったのか!

2016年02月18日 | West Coast Rock

1971年、ビーチ・ボーイズの17枚目のスタジオ・アルバム、SURF’S UPを出した。アルバムは全米31位であった。


SURF’S UPとは、“サーフィンするのにいい波が来た”と言うサーファーがよく使う言葉だそうだが、アルバムのジャケットを見ると、 槍のような長い棒を持っているライダーが馬上でガックリと頭を垂れている様が暗いタッチで描かれている。

アメリカの有名な彫刻家が作った作品を描いているとのことで、そのタイトルはEND OF THE TRAIL(旅路の果て)。アメリカのネイティブ・インディアンが北米大陸に入植してきた白人に西へ西へと追い回され、終にたどり着いた地で、絶望を感じている情景を表わしたのだろうか…

サーフィン・ミュージックをルーツに活躍してきたビーチ・ボーイズが、SURF’S UPと名付けられたアルバムに“旅路の果て”とはちょっと矛盾しているように思えるのだが…

新しく雇ったバンド・マネージャーが、ビーチ・ボーイズの今後の活動の方向性として政治、社会(環境問題など)に影響を与えるようなものにしていくと提案したからで、以前のような波乗り(単純明快なサーフィン・ミュージック)はもうお終いで、これからは歌詞の内容にも目を向けて!と言うことだったんだろうか?

1970年に出した前作、SUNFLOWERはのっけからビーチ・ボーイズが得意とするコーラス満載で、私としてはよく出来たアルバムだと思った のだが、あら不思議、期待に反して大コケ(全米151位)。


その反省を踏まえてのSURF’S UPだったのだろうか…

道理で楽曲のタイトルには、DON’T GO NEAR THE WATER(汚染された水には近づかないで!と言う意か?)、STUDENT DEMONSTRATION TIME(学生デモの時)とかLOOKIN’ AT TOMMROW-A WELFARE SONG(明日を見つめて、生活保護の歌、と言う意か?)などそれらしい歌が並んでいる。

ウィルソン兄弟の長男で、バンド内の音楽制作の要であった、ブライアンはライブ活動には全く出てこなくなったが、このアルバムの曲作りやレコーディングにおいて彼の才能を遺憾なく発揮したことは間違いない。

しかしながら、美しいけれど作り込み過ぎたアレンジ、そして政治や社会的な歌詞にはあまりピンとこなかった。

多くのビーチ・ボーイズ・ファンもそう思っていたのではないだろうか?

その証拠に、1973年に出した2枚組のアルバム、THE BEACH BOYS IN CONCERTは、ブライアン抜きで行われたコンサートの模様をレコード化した。

観客の声がしぼってある編集なので、臨場感には乏しいが良いライブだと思う。

ギターとドラムスに新メンバーが加入したのを機に、 新曲はもちろん懐かしのヒット曲をシンプルかつ力強いアレンジで歌い上げた。(全米25位となり久々にゴールド・ディスクを獲得)

やはり、後世に歌い継がれる歌というものは、その都度変化する政治や社会に関する内容は避けられ、あまり小難しくない普遍的な内容になっているのではと考えるのである… 

と言う長い~長い~前振りがあって、さて本題である。

今日この記事を書いたのは、ある発見があったからである。

アメリカが1972年に出した2枚目のアルバム、HOMECOMINGのジャケットになんとEND OF THE TRAILがいるではないか! 


丘の上の三人組、アメリカのメンバーは丘(陸)サーファーだったのか!


ちなみに、翌年のサードアルバム、HAT TRICKにビーチ・ボーイズのブルース・ジョンストンがゲストで参加している。


そういや、昔そのような人物をよく見かけた。

ルーフ・キャリアを取り付けたステーション・ワゴン(但しサーフ・ボードは取り付けない)、長髪で、OPのTシャツにジーンズとビーチ・サンダル。
鼻の下にヒゲ、そして眩しくもないのにグラサン。

助手:まるで、若き日の博士のようですね。

博士:ワシはステーション・ワゴンを持っていなかったぞー 移動はもっぱら電車じゃったわい。

なんと、しけた丘サーファー


マラソン・マン、RUNNING ON EMPTY

2016年02月16日 | West Coast Rock

ウィンター・スポーツといえば、スキー、スノボとかスケートが定番であるが、雪の降らない地域では最近マラソンが盛んである。

東京マラソンや大阪マラソンなど数万人が走る規模の大きな大会が毎年開催され盛況を極めている。適した服装と靴があれば、チーム・スポーツと違って時間に縛られず一人で練習が出来る手軽さが受けているのだと思う。

20年ほど前、仕事の関係で運動不足となり下っ腹が飛び出てきて、体重も学生時代に運動していた時と比べると20キロ以上増えてしまい、同時に生活習慣病が大挙してやって来た。

血液検査の数値も良くなかったので、一念奮起しタバコをやめ、お酒も控えるようにした。しかしながら、この程度では大きく増えた体重を短期間に減らすことは不可能なので、会社から帰ってから近所を一回りするジョッギングを週四、五回行うことにした。

初めからあまり長い距離を設定してしまうと長続きできないので、2-3キロのコースをゆっくり走り続けた。その後距離が5キロに増え、10キロを走る大会があると聞いたので、試しにエントリーして走ってみた。

初レースは大変苦しかったのだが、レースに出るというモチベーションが出来たので、初レースから10数年経った今もジョッギングを続けている。お陰様で、生活習慣病が完全に治ることはないが、症状は緩和され体重もかなり落とすことが出来た。

少し前の日曜日に、15キロほどゆっくり走ってみようと思い家を出ると、偶然四、五千人のランナーが参加するマラソン大会に出くわした。コースはいつも練習するコースとほぼ同じだったので、途中からランナーの列に紛れてついていけるところまで走ることにした。ゆっくりしたペースで走っていた後尾付近に紛れ込んだので、リラックスして走ることが出来、結局予定の15キロを遥かに超える今年一番の距離の27-8キロを走ってしまった。

しかし、何故走り続けてしまったのだろうか?

まあ、いつも一人でジョッギングしているので、スロー・ペースであれば大勢で走るのも悪くないとでも思ったのか?

さて、マラソンと言って思い浮かぶのが1977年のジャクソン・ブラウンのRUNNING ON EMPTYという曲で、この歌は車を走らしている時の自身の人生などに関する心情を歌っているみたいだが…

アルバムは全米3位ながら、売り上げは7Xプラチナとジャクソンにとって最大のセールスを記録。シングルも11位と健闘した。

ジャクソン曰く、元々は彼は車のガソリン・タンクが満タンかどうかあまり考えないで運転するとのこと。何故なら数ブロック行けばスタンドが見つかるからだと、と言うような発想から曲が生まれたみたいだが、この歌の歌詞からは人それぞれに色々なイメージが浮かび上がるようで、この前の大統領選挙の候補者のキャンペーン活動にこの歌がマッチするという事で使用されたようだ。しかしながら無許可の使用という事で著作権の問題で裁判沙汰になり、当然の事ながらジャクソン・ブラウンが勝訴したらしいとか。

私としては、1994年公開の映画、フォレスト・ガンプのイメージが強い。主人公のフォレストの恋人が何も告げずに去っていたことから、フォレストが発作的に何度もアメリカの東西縦断しながら走り続ける姿に共鳴した多くのフォロワーを従えて走り続けた。

そのバックに流されたのがこの歌だった。

RUNNING ON, RUNNING ON EMPTY(空虚なままに走り続ける)
RUNNING ON, RUNING BLIND (やみくもながら走り続ける)
RUNNING ON, RUNNING INTO THE SUN (太陽に向かって走り続ける)
BUT I’M RUNNIGN BEHIND (だけど、追いつくことは出来ない)

そして映画の中で、フォレストが急に立ち止まり走ることを止める。

フォロワー達はフォレストが何かの悟りを開いたのかと思いきや、急に家に帰りたいと思い走り続けることへの興味を失った、という話だったように記憶している。

何のために走り続けるのかよくわからない、太陽に向かって走り続けても永遠に追いつく事は出来ない、にもかかわらず走り続けなければならないのが人生なのだろうか? 

周りは走り続けているのに、それを自分だけが止めるとなると大きな不安を感じてしまうからなのか?

フォレストのように他人に影響されずに直感的に物事を決断出来れば、どれほど楽に暮らしていけるであろう、と思う今日この頃である。

Forrest Gump - Running on Empty


あなたのメイン・コースは?、ビー・ジーズの場合

2016年02月15日 | BRITISH ROCK
1970年代初頭までのビー・ジーズといえば、主にフォーク・ロック調のバンド・サウンド、もしくはストリングスをバックに歌うバラッド系の楽曲を得意とする中堅バンドであった。

60年代の終わり頃から、数多くのロック・バンドが誕生することにより、新しいサウンドが巷に流行しだすこととなり、ビー・ジーズの楽曲はメロディーは美しいが、いわゆる、ニューロックと呼ばれるサウンドと比べると、いまいちインパクトに欠け、当時の新し物好きの若いリスナーからの支持はあまり得られなかったのではと推測する。

オーストラリアからイギリスに渡ってきたビー・ジーズの才能を見出し、マネジメントを引き受けていたロバート・ステッグウッドは、ビー・ジーズが万年中堅バンドの地位に甘んじるような存在ではないと常々感じていたのだろう。自身が1973年に設立したRSOレーベルにビー・ジーズを移籍させ、彼らの能力を最大限に引き出せるように、アルバム制作にさらに深く関わることになる。

1973年の9作目のアルバム、LIFE IN TIN CANは、ビー・ジーズのセルフ・プロデュースで、今までとそれほど変わり映えしない構成のアルバムであったと思う。


なんらかの変化を加えるため、プロデュースをR&Bが専門のアリフ・マーディンに依頼し、1974年に次作 MR. NATURALを制作した。


残念ながら、前作の全米チャート69位から178位と大幅に売上を落とし、新しい試みを使ったこのアルバムは商業的に大失敗に終わった。

しかし、このアルバムを今一度聴いてみると、シングル・カットされ大ヒットするような楽曲もなく少し地味に感じるかもしれないが、個人的には従来の楽曲とは異なり、ビートの効いたいかにもプロデューサ好みのR&Bの影響が幾らかの曲に現れているいう変化が感じられ、そこそこの出来ではないかという感想を持つ。

一般的には、1975年のMAIN COURSEがビー・ジーズのサウンドの転換点と言われているが、実は前作で方向転換は進んでいたのだ。


MAIN COURSEを制作する前に、レコーディングの環境を変えることによって、さらなる新しいアイデアが生まれるかも知れないということで、ロバート・ステッグウッドや当時RSOレーベルに所属していたエリック・クラプトンのどがマイアミのクリテリア・スタジオを推薦したと言われる。新しい制作環境の下、出来上がった楽曲は、前作の変化をさらに推し進めて、従来のスタイルを持つ曲も収録されているが、中心となったのはアメリカ受けするであろうディスコやカントリー調の楽曲となった。

サウンド面で注目されるのは、新たにバンド・メンバーにキーボード担当のブルー・ウィーバーを加えたことであろう。

シンセサイザーを使って作ったベース音を通常のベースの音にオーバ・ダブしたり、オーケストレーションについてもシンセサイザーがその役目を担当することにより、今までのイギリス・スタイルの若干重苦しく聴こえたサウンドは、非常に聴きやすい軽いタッチのものに仕上げられ、これが北米で受けたのでないか… 

期待通りアルバムは、全米14位、カナダ1位、そしてシングルでもJIVE TALKINGが1位、NIGHT ON THE BROADWAY7位、FANNY12位と盛り返した。しかし、イギリスではディスコ・ブームが到来していなかったのか、アルバムは不思議な事にチャート・インせず。

このアルバムに収録された中心となる楽曲がビー・ジーズにとってのメイン・コースだと言っているわけで、脱イギリス、すなわち巨大マーケットである北米に軸足を置いて活動していくことになる。

博士:今日の我が家のメイン・コースとやらは何かね?

助手:白ご飯に生卵一個とお新香です。

博士:何と、卵かけ御飯じゃと! ここのところ、毎日同じメニューばかりのような気がするのじゃが? 

助手:当研究所の運営予算も限られています。それにも拘わらず博士が無駄遣いするので、どこかで倹約しないといけません。

卵かけ御飯は栄養もあり、それほど噛まずに一瞬で胃の中に流し込むこと出来るので時間の節約にもなります。

博士:状況はよくわかったのじゃが、何とかもう一品、卵かけ御飯にインパクトを与える様な食品、そうじゃ! 振り掛け用の“刻み海苔”追加してくれんかのう…

海苔を追加することにより、ディスコ・サウンドのノリを取り入れた大ヒット・アルバム、メイン・コースみたいに当ブログも人気急上昇となるかも知れんぞ!

Bee Gees - Come on Over

チューブラー・ベルズって?

2016年02月10日 | PROG ROCK
ジャーン、ジャジャジャジャ、ジャンジャジャジャン~♪♪
(のど自慢のオープニングのテーマソング)

カン~
(テーマソング終了のかねの音)

司会:MHKのど自慢の時間がやってまいりました。司会のオダギリ万です。本日は東京都板橋区は板橋本町の交差点付近からの生放送です。

トップ・バッターはイギリスからお越しのマイクさんです。

それでは張り切ってどうぞ~

マイク:一番! チューブラー・ベルズ。

チャンチャンチャン、チャチャチャンチャン、チャンチャンチャン、チャチャチャンチャン~♪♪ (ピアノのような音)

カーン!(カネの音一つ)

司会:マイクさん、のど自慢だから歌を歌わないとダメですよ。

マイク:チューブラー・ベルズという曲には歌詞がないので歌うことは出来ないのです。この曲はチューブラー・ベルズの音が鳴り響くことが重要です。 残念ながら一回だけですが、最後に鳴りました。

そう、チューブラー・ベルズとは打楽器で、パイプと叩いて色々な音階を出す。のど自慢で使われているあのカネはチューブラー・ベルズなのである。

と今回、無意味に長い前振りだった。

1973年7月、あのリチャード・ブランソンが設立したバージン・レコードの記念すべき第一弾として世に出たのが、マイク・オールドフィールド作、チューブラー・ベルズである。

レコードのA面にパート1、B面にパート2と24-5分の楽曲が2曲納められた。このレコードから抜粋して制作されたのが、有名なオカルト映画、エクソシストのサントラのテーマ曲に使用された。

実はサントラの音源は、著作権の関係で、LPからのものではなく新たに別の演奏者によって録音され、ワーナー系(アトランティック・レーベル?)から1973年の末に世に出された。なんとチューブラー・ベルズの音が入っていないではないか! (オリジナルの音源にはマイクがチューブラー・ベルズを演奏している箇所がある。)


マイクとしては、ほぼ一人で数多くのダビングを重ね制作した渾身のデビューアルバムだったから、勝手にオカルト映画のテーマに使われるのは良しとはしなかったようだ。

実際、A面のパート1とB面のパート2を通して聴いてみると、イギリスの牧歌的雰囲気のフォーク・ソングみたいな印象を受けるのだが、エクソシストのテーマ曲として使用されたため、チューブラー・ベルズ イコール オカルトなるイメージが出来上がってしまって、微妙な気分になったのではないか?

しかしながら、新興かつ弱小レーベルであったバージンにとっては、エクソシストのサントラ盤によるヒットは非常に有り難かったと言えるだろう。

発売当時は、全英31位で数ヶ月後に7位まで上がったが、年末のエクソシスト効果により、翌年全英チャート1位を獲得。アメリカでもシングルが7位とヒットし、なんとアルバムはインスト部門でグラミーを獲得。

バージン・レコードは、当初売上がそれほど期待出来ないプログレ関連のバンドを全面的にプロモートしていたのだが、マイクのアルバムの大ヒットにより、有望な新人アーティストらとその後契約することが出来た。

特に1977年にパンク・ブームを牽引したセックス・ピストルと契約し大成功したことが、さらにレーベルの勢力の拡大へと繋がった。

リチャード・ブランソンは無名の新人だったマイクをレーベルの第一弾に起用すると決めた時には、後に彼が航空会社を傘下にするほどの巨大なバージン・グループを形成することなど夢にも思わなかっただろう。

全く、エクソシスト様様なのである。

司会:なるほど、カネ一つではチューブラー・ベルズとは言えないのですね?

わかりました。せっかくイギリスからお越し頂いたので、今回不合格ではありましたが、カネを連打させていただきます。

カンカンカンカン カンカンカンカン カンカン カン~♪♪

マイク:おー! これぞエクソシストではないチューブラー・ベルズ。感動しました。

一体何んのこっちゃ…

映画「エクソシスト」 チューブラー・ベルズ サウンドトラック・スコア

“ビートルズで好きな曲は?”から派生した小ネタ

2016年02月09日 | SSW

このブログは、NTT系列のNTT RESONAT INCという会社が運営するGOO BLOG経由でアップされている。

GOO BLOGのサイトには、あるトピックに関して各ブログ参加者が自由に意見を投稿出来る企画がある。

その“お題”の中の一つに“ビートルズで好きな曲は?”とある。それらの投稿を読んでみると、LET IT BE、YESTERDAYとかHEY JUDEやその他もろもろの曲が好きであると報告されている。

私の場合はと言うと、213の楽曲がオフィシャルで出ていて、そのどれも聴き慣れてしまっているので甲乙がつけがたく、ほとんど全部好ましいと答えてしまいそうだが、その中からあえて選ぶとすると、ジョンでもポールでもなく、ジョージ作曲のSOMETHINGを押したい。

SOMETHING IN THE WAY SHE MOVES~♪♪と歌うと、あれ?どっかで聞いたことのあるフレーズ。

そう、ジェームス・テイラー が1968年にアップル・レーベルから発売したアルバムにそのタイトルの曲があるではないか!


ジョージがそのフレーズを非常に気に入り、曲の冒頭に借りてきて作った曲がSOMETHING。

冒頭の歌詞が同じとは言え、ジョージの曲の構成、そしてそのメロディーやその他の歌詞が全く異なることから、ジェームスも驚きはしたものの、当然の如くこの件に関してはスルー。

と言うか、ジェームスのSOMETHING IN THE WAY SHE MOVESという曲は、なんとI FEEL FINEと歌って終わる。

何と言う偶然!

ジェームスのアップルからのデビュー・アルバムは、残念ながら全米62位と思ったより振るわなかった。その後のアップル経営に関するゴタゴタで、ジェームスはアメリカに戻りワーナーと契約することになる。

その後の彼の活躍は、御存知の通り、出すアルバムのほとんどが大ヒットとなる。昨年出した7年ぶり久々のスタジオ・アルバム、BEFORE THIS WORLDは全米1位を獲得、非常に息の長いアーティストである。

ちなみに、ヒットしなかったアップルのデビュー・アルバムから、SOMETHING IN THE WAY SHE MOVESとCAROLINA IN MY MINDの2曲を再録し、1976年ワーナーから出したグレーテスト・ヒットのアルバムに収録した。


James Taylor - Something In The Way She Moves (再録の音源)


たまには映画でも その2、インターステラーとQueen の’39

2016年02月07日 | BRITISH ROCK
先日SF新作のODYSSEY(オデッセイ)についてちらっと書いてみたが、宇宙物のSFとなると、この映画も個人的には外すことはできない。

2014年に公開されたインターステラー(惑星間)である。3時間弱の超大作で、この映画も機内で見たので、長い搭乗時間を短く感じさせ非常に楽しめた。しかし、少しストーリーを端折って短縮した方が個人的には見やすかったのではと後になって思う。

近未来の話で、植物の枯死と異常気象により地球が滅亡する運命と成り、第二の地球を探すために、ワーム・ホールを経由し別の銀河に惑星間航行を行うストーリーだった。

ワーム・ホールを経由し別の銀河に移動するという話は、前回触れた1997年のコンタクトというSF映画でも描かれていた。調べてみると、インターステラーの元ネタは同じ映画プロデューサーと理論物理学者によって構築されたものだった。

道理で、突拍子もない設定の所謂スーパーSFの映画とは異なり、4次元の世界、ワーム・ホールやブラック・ホールや特殊相対性理論などなど、最新の物理学の理論を用いた科学的考証によるストーリーの設定で、映画を見た人も“なるほど”となる。

SFの場合リアリティーを持って映像で再現するには非常にお金がかかるが、出来るだけ映像や構成を現実に近づければストーリーに入っていきやすい利点がある。最新映画オデッセイでも、火星の重力は地球よりも弱いという事象の表現は映像では見られなかったが、概ね現実に近い形で火星の状況を再現していたのが印象的であった。

とここまで書くと、その遥か昔に映画と同様なストーリーを歌にしていた先見の明を持った人がいたのを思い出した。

'39

In the year of '39 assembled here the volunteers
In the days when the lands were few
Here the ship sailed out into the blue and sunny morn
The sweetest sight ever seen
年はXX39年、ここに志願者たちが結集された。
土地が少なくなった日々、
ついにその船は朝の輝きの中、青い宇宙へと船出した。
見たことのない美しい光景!

And the night followed day
And the story tellers say
That the score brave souls inside
For many a lonely day sailed across the milky seas
Ne'er looked back, never feared, never cried
その日の晩のこと、
語り部たちは語る。
勇敢な魂を心に刻み、
長い孤独な日々、乳白色の大海を航海した彼らのことを、
決して振り返らず、恐れず、そして泣き叫ぶこともせず。

Don't you hear my call though you're many years away
Don't you hear me calling you
Write your letters in the sand
For the day I take your hand
In the land that our grandchildren knew
長い年月が経ったけど、私の声は聞こえてはいないかい?
君を呼んでいる声が聞こえないかい?
じゃあ、砂の上に手紙を書いておいてよ。
君の手を握りしめるその日のために、
私たちの孫たちが暮らすその土地で。

In the year of '39 came a ship in from the blue
The Volunteers came home that day
And they bring good news of a world so newly born
Though their hearts so heavily weigh
年はXX39年、青い宇宙から船が帰還した。
志願者たちがその日に地球に帰ってきた。
そして、新しく生まれる世界についての素晴らしいニュースを持ち帰る。
ただ彼らの心境はずっしり重いものだったのだが、

For the earth is old and grey,
Little darlin’ we'll away (To a new home we'll awayとアルバムのインナーの歌詞には書いてあるが、ブライアンは Little darlin’と歌っている。)
But my love this cannot be
For so many years have gone though I'm older but a year
Your mother's eyes from your eyes cry to me
地球は年老いて灰色となり、
君!、私たちは旅立つだろう。
だけど、私の愛はそうはさせない…
一つ歳をとるだけなのに、多くの年月が過ぎ去った
君の目と通して君の母の涙が見て取れる

Don't you hear my call though you're many years away
Don't you hear me calling you
Write your letters in the sand
For the day I take your hand
In the land that our grandchildren knew
長い年月が経ったけど、私の声は聞こえてはいないかい?
君を呼んでいる声が聞こえないかい?
じゃあ、砂の上に手紙を書いておいてよ。
君の手を握りしめるその日のために、
私たちの孫たちが暮らすその土地で。

Don't you hear my call though you're many years away
Don't you hear me calling you
All your letters in the sand cannot heal me like your hand
長い年月が経ったけど、私の声は聞こえてはいないかい?
君を呼んでいる声が聞こえないかい?
砂の上に書いた手紙だけじゃ、君の手のように私を癒すことは出来ない。

For my life
Still ahead
Pity me
私の人生
それはまだ続く
憐れんでくれ

QUEENのブライアン・メイが書いた’39という曲で、1975年のアルバムA NIGHT AT THE OPERAに収録されている。


下手くそな和訳で申し訳ないが、新たな地球を探しに行く志願者の悲しみが歌われているように読み取れる。

別の銀河に惑星間航行を行うことは、地球に残った愛する人と同じスパンの時間を共有出来ない、しかし人類全体のために任務は遂行しなければならない。

インターステラーでも歳を殆どとらなかった主人公が元の世界に戻ってくると、自分の娘が既に高齢の老人へと化していて、浦島太郎的な時代に取り残されるという悲哀溢れるものだった。

ネット・サーフィンでの通りすがりの人:そこのあなた!

私:えっ! 私のことですか?

ネット・サーフィンでの通りすがりの人:そう!

あなたが今消費している1秒という時間は、宇宙の彼方ではもっと長い時間のスパンの概念になっているかもしれないのだよ。つまらないブログを書くのに多くの時間を費やすなら、もう少し世のためになる事に時間を費やしなさい。それとも、屁でもこいで、寝てなさい!

私:ハハッー、仰せの通りに。

アコースティック・ギターとベースを用いたトラッド・フォーク薫る曲調から想像できないまさかの惑星間航行の悲哀に満ちたストーリーが歌われているとは!
Queen - '39

オツムが楽しく跳ね回っている連中って? BRAIN CAPERS - MOTT THE HOOPLE

2016年02月06日 | Bowie, T.Rex, Hoople and Glam.

初めて聴いた時の印象は、アメリカン・バンドじゃないかと感じた。

1971年MOTT THE HOOPLEがアイランド・レーベルから出した4枚目のスタジオ・アルバムBRAIN CAPERSである。

当初の仮タイトルは、ロックなナンバーとスローなナンバーの2面性があるということでAC/DCであったが、収録後に、BIZARRE CAPERS(奇妙に跳ね回っている連中)とBRAIN DAMAGE(脳損傷)の二つのアルバム・タイトルが浮かび、中をとってBRAIN CAPERSとなったそうである。なんといい加減で意味不明な…

プロデューサーのガイ・スティーブンスが、個人的な意向でストーンズとボブ・ディランをミックスしたようなロック・バンドを作ってみたいということから、MOTT THE HOOPLEの前身バンドのボーカルを個性的な歌い方をするイアン・ハンターに差し替え、1969年にスタジオ・アルバム、MOTT THE HOOPLEを制作しデビューさせた。

今回のアルバムは、ライブ感の溢れるストレートでラフな演奏をするアメリカ志向のロック・バンドという印象である。

しかし、アメリカで受けてイギリスで全く受けないケースなどはよくあることで、残念ながらアルバムの出来の良さや熱狂的なライブ活動で、カルト的なファンは付いてきてくれたものの、アルバムのセールスには繋がらず、1971年の時点で解散する方向に向かっていた。

その後ファンだったデビット・ボウイーの助けも借り、解散せずにコロンビア・レーベルに移籍し出したアルバム、ALL THE YOUNG DUDESがイギリスでよく受けたみたいで大ヒットとなった。まあ、同じバンドでもプロデュースの仕方でこれほどまでに変化するのかと非常に興味深い。

彼らのどの時期のサウンドが好みかは、意見の分かれるところで、聴く人のそれぞれの音楽の嗜好によって変わるのであるが…

イアンは、たった5日間のやっつけ仕事のような期間で制作されたBRAIN CAPERSについては、セールスが良くなかった理由もあったのか、それほど気に留めなかったと言っていたのだが、 後日それを改めて聴いてみると意外にもご機嫌になり、今までの活動の中でも良い出来だと思い直したとも言っている。

ライブでの大騒ぎと穏やかなスタジオ録音の中間を狙った、HAPPY MEDIUMと彼は称している。つまり、スタジオ録音でありながらライブに近いMOTT THE HOOPLEを楽しむ事が出来るのではと言っている。

興味のある人は、是非御一聴をと言いたいところだが、オリジナルがほとんど売れなかったので、 再発CDのプレス量も多くはなく、名盤といわれている割にはなかなか手に入らないのが難点である。コロンビア時代のものは安価で結構出回っているのだが…

それから、びっくりしたのはイアンが1939年生まれだとわかったことである。何と御歳、76歳なのである。

2009年に40周年再結成ライブを行い、2013年にも同様のものをやっているし、自身のバンド活動も2015年時点で継続している。

歳を取っても楽器はこなせる人が多いが、この人の場合は昔と比べると声量は落ちたかもしれないが、ハード・ロック・バンドの現役ボーカリストなのである。

1959年にリッチー・バレンス(ラ・バンバで有名)とバディー・ホリーらが飛行機事故で亡くなった日をTHE DAY THE MUSIC DIEDと歌ったドン・マクリーンのアメリカン・パイという曲があった。

MOTT THE HOOPLEは、かって彼らのライブ・アクトでその曲をオープニングに持ってきて、THE DAY THE MUSIC DIEDという言葉を否定する形でTHE GOLDEN AGE OF THE ROCK ’N’ ROLL(ロックン・ロール黄金時代)に繋げ歌い上げた。

そして今でもイアン・ハンターは歌う、ロックン・ロール黄金時代なのだと。

ライブでのSWEET ANGELINEはアップテンポで歌われるハード・ロック・ナンバーのアレンジであるが、BRAIN CAPERSに収録されているスタジオ録音盤は、まるでボブ・ディランが歌っているかのようなミッド・テンポのアレンジとなっている。

Mott The Hoople - Sweet Angeline


GRATITUDEとは感謝の意、EARTH, WIND & FIRE

2016年02月05日 | AMERICAN ROCK/POPS
ヤフー・ニュースを見ていると、またまた訃報を見つけてしまった。

EARTH, WIND & FIREのリーダだったモーリス・ホワイトが御歳74歳で死去と書いてあった。

最近この手の話が多いのだが、考えてみれば当時ガキンチョだったロック・ファンが今現在もれなく中高年の世代へと突入してしまったわけだから、60年代後半から70年代に活躍したクラッシック・ロックの大スターたちも同様に年を重ね、当然60歳後半から70歳台の年齢に達しているわけで、その歳にたどり着くとなると体のあちこちにガタがきて、まあ仕方のない事かなと思う。

ところで、最近親しい掛かり付けの医師と少しばかり話したのだが、医療に関しては日本ほど恵まれた国は他にあまりないのではないかと結論に達した。

特に皆保険である国民健康保険のシステムは先進国ではあまり例がないのではないか?

アメリカなんかで、旅行中に病院に緊急手術で入院となると、個人的に医療保険に入っていない場合は、目の玉が飛び出るような請求書が来ることを覚悟しなければならない。たとえ旅行保険に入っていたとしても、持病を申告しないで保険を買ったら、保険会社からお金が下りないケースもあるみたいだ。

アメリカなんかでは一流企業に就職していれば、その会社が医療保険料を負担してくれたり、指定のクリニックで無料の診察を受けられたりするようになってる。

もし、そのような保険に自腹で個人的に加入するとなると、これまた結構な金額が請求されるので、そこそこの年収がない限りなかなか加入する事が出来ないでいるわけである。

彼の地では、保険に加入していない場合は、病気にかからないようにと常時祈ることになる。

日本の場合は、国民健康保険があるので、医者からもし検査しなければならないと言われても、”どんな検査でもやります”と余裕である。しかし海外で、そのような要請があれば、特にCTやMRIの検査を受けろと言われると本当にドッキリもんである。何しろ、検査費用がバカ高いのである。

一度海外に住んでみればわかるが、医療面に関して、日本はかなり恵まれた国で、それゆえ”男女合わせた平均寿命が世界一なのかな~”などと思ってしまう。

だから、海外の有名アーチストが70歳代になって病気なんかで死去すると“まだ若いのに”なんて思ってしまうのかもしれない。

EARTH, WIND & FIREに話を戻すと、彼らは、他のファンクやディスコ一辺倒のバンドと異なりアフロ、ラテン、ファンク、ジャズ、ソウル、ロックやディスコなどあらゆるジャンルの要素を取り入れた、クロス・オーバーなサウンドが売りだった。

1971年にセルフ・タイトルのアルバムでデビュー。

1973年4枚目のスタジオ・アルバム、HEAD TO THE SKYあたりから人気に火が付き、 1974年にOPEN THE EYEでさらに人気が上昇、そして1975年はTHAT’S THE WAY OF THE WORLDで遂に全米1位と頂点を極めた。

その御礼として同年出されたのが、GRATITUDE(感謝)という2枚組アルバムで、1/2/3面がライブで4面はスタジオを録音という変則的な構成であった。これまた全米一を獲得、演奏も上手いし、今聴いてもなかなかいいと感じる。

我が家にあるのは、CDではなく2枚組のLP。4-5年前に輸入盤を買った。いつ再発されたかは、よくわからないのだが、レーベルにSONY MUSIC ENTERTAINMENT INC.と記載されているので、SONYが社名を現在のSONY MUSIC ENTERTAINMENT INC.に変更した2008年以降に再発されたものだろう。オリジナルジャケットはゲート・ホールドだったが、この再発盤はシングルジャケットにLP2枚が入っているという手抜きのものだった。
音は悪くはないが、音量のレベルの設定は低くなっている。

EARTH, WIND & FIREというバンドを当時よく知らなかったのだが、ある日大学のコンパで終電を逃してしまい、それほど親しくはなかったのだが、コンパに参加していたメンバーの家に泊めてもらうことになった。

そこで聴かしてもらったのが、このGRATITUDE。こちらは当時ロック一辺倒だったから、今まであまり馴染みのなかったサウンドを聴かされると、同じ学年なのに、妙に“この人スゲ~な、オトナだな~”なんて思ったものだ。

その家で朝ごはんまでご馳走になり、家に帰らず学校に行ったという好き放題ののんびりした学生時代を送らしてもらった両親に今更ながらGRATITUDE。とは言っても残念ながら両親は既に他界している。

そこの若いお方! 両親がまだ健在な時に感謝の気持ちを表すことを決して忘れてはなりませぬぞ。

それから、国民健康保険にもGRATITUDE。

このアルバムでは、SUN GODDESという曲のライブ・バージョンが個人的には好きだが、とりあえずヒット・シングルをどうぞ。

Earth, Wind & Fire - Sing a Song

ブログ一周年記念のA HARD DAY’S NIGHT祭り

2016年02月02日 | BEATLES-BADFINGER関連
博士:最近わしらの出番もとんとなくなってしまったのう。

助手:今までは、必ず毎日記事をアップしていたのが、週2から3回のペースになったので、出番は限られてきますね。

ところで、このブログ2月1日で始まって一年が経ちました。

博士:光陰矢の如しというか、特に歳をとってからは、本当に時が経つのは早く感じるのう~

週末が終わって新しい週がやってきて、ちょっとバタバタしとると、あっ!という間にまた金曜日がやって来て、また週末となる。

助手:記念すべき初回の記事は、

72年に我が家にもついにステレオ・セットがやって来ました。それまでポータブルの電蓄で鳴らしていた歌謡曲のシングル盤ではなく、洋楽のLPをステレオで聴いてみようではないかという話となり、 早速近所のレコード・ショップに行って買ってきたのが、ビートルズのA HARD DAY'S NIGHT、アップル・レーベルの赤盤でした。

全てオリジナルの曲でアルバムが制作されており、カバー曲にはないビートルズ本来の味が出た非常に聴きやすいアルバムでした。 それを機に、ビートルズの他のアルバムを順次購入することとなったのです。

博士:なるほど、初々しいと言うか、中坊が書いたような文章じゃのう~

助手:自己弁護するわけではありませんが、まあブログ初心者の初回の記事ならこんなものでは?

博士:学校で作文を書く練習をもう少ししておけば良かったのじゃが…

助手:そんなことを言っても後の祭り、気をとり直してブログ一周年を記念してA HARD DAY’S NIGHTアナログ祭りといきましょう。それにしても、アホみたいに同じもの集めましたね。

博士:ビー・マニアからすれば、ほとんどガラクタみたいなものじゃが、レコード棚にこのまま眠らせておくのも何じゃから、虫干しも兼ねて出してみたんじゃ。


記念すべき初めてのA HARD DAY’S NIGHT、ジャケットは日本独自のデザインで、ジャケ裏は当時若者向けラジオ番組で人気だった高崎一郎氏が書いている。

1969年のAP-8147、アップル・レーベル、サード・プレスのステレオ赤盤。1964年の初回盤はオデオンレーベル、OP7123で発売され帯は半掛けと帯と呼ばれ、後に一般的になるレコードのジャケットに巻きつける帯でななく、長さもその半分だった。そして、ジャケット上部の裏側に糊付けして、ジャケットにぶら下げた形式であった。その美品のオリジナル盤は、オークションで非常に高額で取引されているそうな。

購入は70年代になってからだが、田舎のレコードショップで売れ残りを買った。1973年にフォーエバー・シリーズとして同じデザインのジャケットだったが、ジャケットの紙はペラ紙から厚手のボール紙を使ったもので再発された。


1976年のEAS-80552、アップル・レーベル、ステレオ黒盤国旗帯付き。後追いで、ファンになった人は大体この盤を所有か?


1982年のEAS-66013、オデオン・レーベル、ステレオ黒盤帯なし。THE BEATLES COLLECTIONとしてボックスで再発されたうちの一枚。
初回盤のTHE BEATLES COLLECTIONのボックスセットは、アップル・レーベルで1979年に発売された。A HARD DAY’S NIGHTのレコード番号はEAS-50033。


1982年のEAS-70132、オデオン・レーベル、”結成”二十周年記念モノ赤盤。太い帯で1986年に”来日”二十周年記念として再発。


1992年のTOJP-7073、オデオン・レーベル、三十周年記念、モノ黒盤。デジタル・マスター・テープよりカッティングする。価格は破格の一枚3000円也。


2003年のTOJP-60133、パーロフォン・レーベル、日本における最終プレス盤、モノ黒盤。デジタル・マスター・テープよりカッティングする。価格は消費税込みの一枚2548円也。


PCS3058, 英ステレオ盤。黒のパーロフォン・レーベルとレベル上の曲目の記載スタイルから、1980年の再発盤と思われる。


2009年のアメリカ・プレスのステレオ・ボックスセットの中の一枚。レコード番号はPCS3058, 黒のパーロフォン・レーベル。シュリンクでジャケットが包装されているため、写真を撮ると反射する。

アメリカのプレスは質が悪いと、ブーイングが起こる。


2012年のヨーロッパ・プレスのモノ・ボックスセットの中の一枚。 黒のパーロフォン・レーベル。

今回は、前回のブーイングから学んだのか、プレスはヨーロッパで統一。ジャケ制作も前回のステレオ・ボックスよりはオリジナルにできるだけ忠実に作り込まれている。


番外、米サントラ盤。当時映画はユナイトによって制作されたため、サントラ盤もユナイトから出た。

キャピトルが80年代にユナイトから権利を買い取り、1980年にキャピトル・レーベルで再発。手持ちの盤は、キャピトルのレインボー・バンド・レーベルだったので、1983年の再発盤と思われる。レコード番号はSW-11921

博士:と書き綴ってはみたが、これらの情報が果たして何かの役に立つだろうか?

助手:まあ、ビー・マニアの方々なら常識と言うレベルで、普通の人は”何!このおっさん”となるのでは… しかし、趣味の世界は人それぞれ、博士が満足しているのならそれでいいのではないかと。

毎週末に、パチンコに出掛けて2-3万円すってくるのを思えば、レア物をコレクションするのでなければ、この程度の散財は大したことがないと。

博士:おおー、よう言ってくれた。では早速、つい最近発売されたディープ・パープルのアナログ・ボックスでも購入してみようかのう。何しろ、PERFECT STRENGERとTHE HOUSE OF BLUE LIGHTが初めてアナログでリマスターされるのじゃ。

助手:いやー、それはさすがにちょっと無駄使いじゃないかと…