CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

レインボーの完成

2015年04月30日 | DEEP PURPLE-RAINBOW関連
1976年発表の2作目のRIGINGでレインボーは完成したと言っていいでしょう。

迫力のあるロニーのボーカル、コージーによる怒涛のドラミング、そしてリッチーのノリに乗ったギターサウンド、これらが一体化し、正に無敵のハードロック・サウンドがついに出来上がったのです。

レコードのA面の4曲の演奏は、2期頃のディープ・パープルの香りも微かに残っていますが、ロニーのパワフルなボーカルがレインボーの色を出していると思います。イアン・ギランのように高音でシャウトすることはあまりありませんが、その分圧倒的な分厚い声でねじ伏せる感じです。特に、4曲目のDO YOU CLOSE YOUR EYESは3分弱のレインボーにとっては比較的短い曲になるのですが、ギターなどの間奏は特に入らず、最初から最後までパワフルに歌い切っています。よく息が続くな~

このアルバムのハイライトは何と言ってもB面の長尺な2曲でしょう。

STARGAZERはまさしくリッチーがやりたかった曲で、スロー・ミディアム・テンポのうねりを持ったサウンドで、オーケストラの音が曲をさらに分厚くしています。またリッチーのギターソロやコージーの曲の出だしでのドラミングも印象的です。

最後の曲の A LIGHT IN THE BLACK はアップ・テンポのメタル系ハードロックで、非常に乗りの良い曲です。しかしながら、家の中でこの曲を爆音でかけると苦情が出るし、ヘッドフォンではなんとなく物足りなかったので、その当時は、主に車を走らせながらカーステで、レコードからダビングしたテープを爆音で再生し聴いていました。

英チャートでは11位でしたが米チャートでは48位とそれほど伸びませんでした。この業界で成功しようと思えば、やはりアメリカで受け入れられることが必要なため、そのサウンドを追求するため、その後メンバーチェンジが再びなされるのでした。アメリカ受けとなると、どうしてもカラッとしたサウンド作りになって、レインボーの個性を壊しかねることになるので、個人的にはこの体制でレインボーを続けて欲しかったですね。

私:リッチーさん、今回はすごい気合いの入ったギターソロでしたね。

リッチー:これが俺のやりたかったやつさ。やっぱ、俺にはファンキーなんて似合わないのさ。

私:なるほど。これがパープルを抜けた理由ですね?

リッチー:もう4回も登場したので、今度は本当に帰らしてもらうよ。ロニー、それじゃ、俺のためにA LIGHT IN THE BLACKでも歌ってくれよ。

ロニー:I’M GOING BACK TO MY HOME~♪♪

リッチー:やっぱり、レインボーは俺のもの♪♪
注:ベースのジミーとキーボードのトニーは、1976年のライブ公演終了後リッチーから解雇されるのであった。

Rainbow - Light In The Black

8分以上の曲ですが、出だしを聴いてもらえば大体どのような曲かわかります、I’M GOING BACK TO MY HOME~♪♪のフレーズは2分40秒あたりで出てきます。


ジミー・クリフ 、カリブの星

2015年04月29日 | REGGAE
レゲエとは、簡単に言いますと1960年代末期にジャマイカで生まれた音楽で、ドラムとベースの刻む特有のグルーブに、4分の4拍子の2泊目と4泊目にギターもしくはキーボードのカッティングを入れる特徴があります。もちろん、時代の流れにより、それから派生したいろいろな演奏法が現在では確立されています。

ジャマイカはカリブ海に浮かぶイギリスの植民地だった小さな島国で、過去宗主国の植民地経営による抑圧や搾取が貧困を生み、リズムやメロディーは地域独特の明るさがあるにもかかわらず、歌詞は社会の現状や政治に対する辛辣な批判が組み込まれている場合が多く、ノン・ポリティクスの主義のリスナーにとっては、少しとっつきにくい感じを受けるかもしれません。

ボブ・マーリーの歌う、I SHOT THE SHERIFFは、“保安官を撃っちまったぜ、だけど副保安官は殺っちゃいねーよ。”と物騒な歌い出しですが、これは1974年にエリック・クラプトンが歌ったため大ヒットとなったわけで、それがなければ、いくら素晴らしいレゲエ・ソングでも、世界的にブレークするには時間がかかったと思います。当時保守的な人々にとっては、歌詞に人種差別を伺わす言葉が散りばめられた歌は、やはり物議を醸し出すような内容と映り敬遠されるのは明白だったからです。

今回紹介する、ジミー・クリフはレゲエ・サウンドを世界に拡散させたパイオニアで、1960年代後半頃から知られるようになり、イギリスのアイランド・レコードと契約を交わし、好アルバムを数枚出したにもかかわらず、すぐにはイギリスで成功を収めることが出来ませんでした。

1970年にキャット・スティーブンスのWILD WORLDのシングルを出した頃から、徐々に人気が出てきて、1972年公開の映画でサントラ、HARDER THEY COME(本人は映画にも主演で出ていました)あたりでようやく認められ、その後コンスタントにレコードを出し成功に至っています。

ジミー・クリフの場合 、レゲエのリズムに乗せて社会や政治に関する事柄を歌っているだけではなく、勇気を与えるポジティブなメッセージを歌詞に込めてソウルフルに歌うところに共感が集まるのではないでしょうか。

例えば、YOU CAN GET IT IF YOU REALLY WANTでは、“その気になれば、欲しいものは手に入る、必死で頑張れば、いつか成功を収める。厳しい戦いの後、素晴らしい勝利が待っている。また ”MANY RIVERS TO CROSSでは、“渡らねばならぬ河は沢山あるが、果たしてどれを渡るべきなのかはわからない。しかし、沢山渡るべき河があることが、私を支え、今までに色々な出来事があったが、私の心の中の誇りを信じて生きて来た 。” というような内容の歌で、聴く人をエンカレッジしています。

1976年ニューヨークでライブ録音されたIN CONCERT は、それまでの代表曲を網羅したベスト盤といえます。機会が有りましたら一度聴いてみてください。 

Jimmy Cliff - Many Rivers To Cross

古くは、二ルソン、ジョー・コッカー、レニー・クラビッツそしてブライアン・アダムスなど多くのシンガーにカバーされていている名曲です。

カーペンターズはヤッパリ大工だった。

2015年04月28日 | AMERICAN ROCK/POPS
72年に我が家にもついにステレオセットがやってきて、近所のレコードショップで 最初に買ってきたのが、ビートルズのA HARD DAY'S NIGHTでした。それ以外のアーチストは、 オリジナル・アルバムを金銭的に1枚ごと揃えていく余裕もなく、ベスト物のレコードを買うことにしました。ベスト物であれば、当然ヒット曲中心に収録されているのでハズレはないだろうという考えもありました。

カーペンターズもその中の1枚で、買ったアルバムは、1971年発売のカーペンターズ ゴールデン・プライズ、スーパー・スターというベスト物で、初期の3枚のアルバムから選曲されていました。調べて見ますと、このアルバムは、日本独自の編集で、オリコン3位を記録したそうです。71年から82年にかけてオリジナルアルバム以外に、実に9枚の日本独自の編集アルバムが発売されたようです。また、外国アーチストとして日本での総売上がマライヤ・キャリーやビートルズに続く3位を記録したことから、本当に日本人に親しまれ愛されたアーチストだったと言えるでしょう。

今日紹介するのは、1970年発売の全米2位になった2枚目のオリジナル・アルバム、CLOSE TO YOU(遥かなる影)です。

ここでは、カバーとして大御所であるバート・バカラックの作品を3曲(CLOSE TO YOU、 BABY IT’S YOU、 I’LL NEVER FALL IN LOVE AGAIN)、ソングライターのロジャー・ニコルス/ポール・ウィリアムスの作品を2曲(WE’VE ONLY JUST BEGUN、 I KEPT ON LOVING YOU)、 ティム・ハーディン(REASON TO BELIEVE、ロッド・スチュワートもカバーしています)、そしてビートルズ(HELP)など非常に良い選曲だと思います。

カーペンターズといえばもちろんカレンの素晴らしい歌唱力が目立つのですが、個人的にはリチャードのアレンジがカーペンターズ・サウンドの要であると評価しています。カレンの歌唱力を最大限引き出せるアレンジにカーペンターズ流のゴージャスなコーラスを加えて、オリジナルもしくは他の歌手のカバーとは全く異なるサウンドを作り上げる手腕は見事です。

バンド名は、カーペンター兄妹からきているのですが、曲をいろいろなアレンジで組み上げて完成させる作業からしますと、この場合大工さんと捉えたほうが適切ですね。

そこのハードロッカーの貴方! たまにはこういうのを聴くのもいいですよ。

Carpenters, Close to you (遥かなる影)


Carpenters, Help (ヘルプ)

ビートルズのヘルプとは全く違ったアレンジです。


このアルバムを当時買ったのですが、行方不明となっています。

シンガプーラ~ シンガプーラ~♪♪

2015年04月27日 | JAPANESE
いつも当ブログご覧いただきありがとうございます。

修行の旅ということで、シンガポールに行ってまいりました。(本当は、仕事の関係で行ったわけですが。)

そこで、今回はシンガポールのCD事情について書いてみます。

シンガポールに行かれたことのある方はよくご存知と思いますが、オーチャード・ロードという3キロ弱の長さの、5車線一方通行の大通りがあります。両脇にはショッピング・モール、百貨店、ホテルが延々と連なり、また大統領官邸の入り口もこの大通りに面しているという、シンガポールのアイコンの一つとなっている通りです。

この通りの界隈に、1990年代にタワー・レコードとHMVのメガストアが進出、そして有力地元資本の小規模なCDショップも数多く点在していたのですが、今回オーチャード・ロードを訪問してみると、CDショップが全く見当たりませんでした。なんでもタワー・レコードは2006年アメリカの親会社の廃業で閉店、HMVも2013年のイギリス本国の経営難により、シンガポールでの経営権は香港資本に買い取られ、現在は別のエリアに1店舗残すのみ、また地元資本のCDショップもここ数年でほとんどが廃業してしまいました。

これは、CDの売り上げが近年極端に落ちてきたのと、通販業者との低価格競争で、家賃の高い繁華街での店舗出店は不採算となったわけです。また、シンガポールはスマホの普及率が高く、電車に乗っている人を見ると日本と同じかそれ以上に、ほとんどの人が車内でスマホを何かしら操作しています。そのため、若い年代の人は、わざわざCDを買ってPCからスマホにダウンロードするような面倒なことはしなくなり、必要な曲だけネット経由のダウンロードで購入、もしくは無料のユーチューブやストリーミングでの視聴を楽しんでいるということでしょう。

そのため、最近、日本のHMVが渋谷に旗艦店を復活させるというトレンドを逆行するようなニュースは、少し驚かされました。もちろんその道の経営のプロが勝算有りとしての決断とは思いますが、一般人からすれば大丈夫かな~って感じはします。

まあ、日本の場合、BLUE SPEC CD、SHM-CD、SASD-SHM-CD、PLATINUM SHM-CD、5.1CH再生のBLUE-RAY/DVDや紙ジャケCDなど所有感を満たすような、他国ではマニア以外手を出さない分野の商品も数多くあるので、一概に他国の現状と比較はできませんが、今後どのように展開していくのか興味深いです。

シンガポールは、古くは、マレーシア語でシンガプーラ(ライオンの町)と呼ばれ、イギリス植民地時代に現在と同じ発音になりました。ちなみに中国語では新加坡と書かれます。今日は1976年にサディスティック・ミカ・バンドが解散した後に出された、加藤和彦の1976年のアルバム“それから先のことは” からシンガプーラを取り上げたいと思います。

この曲は70年代の末期頃、たしかシンガポールの観光庁か飛行機会社のコマーシャルに使われていたような記憶があるのですが? オリジナルの加藤和彦バージョンは今聴くと非常に緩く感じるのですが、これはこれで70年代当時のシンガポールの雰囲気にマッチしています。

80年代になりますと、シンガポールでは強力な政府主導の都市開発もしくは再開発のスピードが加速し、現地に住んでいる人でさえも、久しぶりに中心部を訪れてみると昔の覚えていた景色の様変わりに驚くことになります。と言うことで、今回は2003年に杏子(EX-バービーボーイズ)によってカバーされた現代版バージョンで聴いてください。オリジナルの緩さがかなり取れたアレンジとなっていて、トロピカルなサウンドがとても心地いいです。

まあ、不必要なほど早く街並みが変遷していくのも考えものですが、道路の道幅を拡張するための用地買収に失敗し、数十年放ったらかしにされ、結局計画が中止に追い込まれるという日本の現状も結構問題です。

杏子 シンガプーラ

ROLL UP, ROLL UP FOR THE MYSTERY TOUR

2015年04月22日 | BEATLES-BADFINGER関連
コンサートのオープナーに使ってきましたね。上の写真は、私のPCモニターのちょうど真後ろの壁に飾ってある額で、PCを使って仕事をする際はいつも目に入る位置にあります。コンサートには行けず、ブログの更新記事をしこしこと書いている身分としては少し嬉しい気分です。

ということで、ツアー無事スタートしましたね。ネットでレヴューされている方の記事を読みますと、セット・リストは2014年11月のブラジル公演と大体同じみたいですね。全く聴いたことのない曲を、日本公演で演奏してほしいというファンの方も多いと思いますが、残念ながら短い準備期間での公演の場合、やはりバンドにとって馴染みのある最近の公演で演奏された曲やサウンド・チェックに使われる曲を中心にセット・リストが組まれるのが現実的です。

70年代初期頃の、初来日の外タレ・ロック・コンサートでは、酒が少し入っていたり、ご機嫌斜めで適当に演奏したり、また1時間ちょっとの演奏におざなりのアンコールをつけて終わるなど、完全に日本のファンを舐めていたバンド達がいました。

そういう意味では、あの年齢で、メドレーを含んだ37曲、時間にして3時間以上の長尺コンサートを、ファンのためにやり切るというのには頭が下がります。まあ、コンサートに行かれた方は、お祭りみたいなコンサートに立ち会い、且つ生でおなじみの曲の数々を聴くことが出来、非常に満足されたのでは。

将来、私がポールの今の年齢の到達した時、果たして同じような精神的そして肉体的な活力が残っているでしょうかね~ かなり心許無いですね~

私:博士、体を鍛えるために、しばし修行の旅に行ってきます。

博士:それは良いことじゃ。ワシも付いて行きたいのじゃが、痛風でくるぶしが少し腫れて痛みがあるのじゃよ。金欠で餞別はないが、まあ、MAGICAL MYSTERY TOURでも心置きなく聴いていってくれ。

私(独り言):ええー 一緒に行けないし餞別もないって! マジか~、見捨てる、とは~

Paul McCartney - Magical Mystery Tour - Nashville 10-16-2014

ポールとジョージ

2015年04月21日 | BEATLES-BADFINGER関連
以前、ポールのソロアルバム第2作ラムを紹介した時、数曲の歌詞の中に元ビートルズのメンバーを揶揄するように取れる部分があり、それに 反応したジョンが、イマジンのアルバムにわざわざHOW DO YOU SLEEPでポールを揶揄し、パロディーとして豚の耳を持った写真をアルバムに封入したと書きました。この件に関しては、後にポールが次作のワイルド・ライフに収録された DEAR FRIENDという曲を書きジョンと仲直りしたと聞いた事があります。

先日、たまたま本屋さんに寄った時、ポール特集のレコ・コレ増刊を発見し、来日する事もあってつい買ってしまいました。

これを読むと、ポールとジョージも結構やり合っていたみたいですね~ 

レット・イット・ビーでは、ポールとジョージの険悪な場面がありましたが、ビートルズの解散後も、どれだけシリアスだったかはわかりませんが、ジョークなどを含めてお互い結構やり合っていたみたいです。

ビートル・マニアの方ならよくご存知と思いますが、私としては初耳だった事柄もありますので、下記に紹介します。

オール・シングス・マスト・パスでのジョージの反撃?:WAH-WAH、ISN’T IT A PITY、RUN OF THE MILLなんかは、歌詞を読むとなんとなく誰かに対しての当て付けみたいですね~

リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールドでのジョージのジョーク?:日本盤のLPしか持っていなかったので、全く気がつかなかったのですが、手元にある最新リマスターCDを改めて見てみると、ジャケ裏の下にJIM KELTNERのファンクラブのアドレスの記載部分に、JIM KELTNERを挟んでウィングスの羽のマークが二つ割になっているのがオリジナルプレスの英盤LPと同様に見られます。羽のマークを二つに分けるってどういう意味かな? セッション・ドラマーであるJIM KELTNERのファンクラブって存在するのかな?

ポールの仕返し?:ビーナス・アンド・マースに収録された“あの子におせっかい”という曲で、サックス奏者のトム・スコットをポールのアルバムに初めて起用、トムはジョージが先に出したダーク・ホースに客演していることから、暗にセッション・プレーヤーの使い方でどちらがうまくやっているか比較させようとしているのでは?

ポールの仕返し?その2:ジョージのDING DONGのチャイム音と同じようなチャイム音が、ポールの幸せのノック(LET’ EM IN)の冒頭で使われている。また歌詞には、BROTHER JOHN(ジョンのこと)は出てくるが、ジョージの名前は出てこない。そしてPHIL AND DON(エバリー・ブラザーズのこと)が唐突に出てくるのは、ジョージがダーク・ホースでカバーしたエバリー・ブラザーズのBYE BYE LOVEに対して出来が良くないと言っているのかな?

などなど、さすが天下のビートルですね。それらが真実なのかどうかは別にして、空想を掻き立てる興味深い小ネタがいっぱい。

また、ジョンはジョンで、ジョージが1979年 I ME MINEという自伝を出した時、ジョンのことがほとんど書かれていなかったことから、”俺を軽く扱っている”なんて激怒したという話もあります。

まあ、それらの真相は当人に確かめないとはっきりしませんが、要するに、ジョンやポールはジョージが年下だったため、バンド結成時からずっと弟分として扱い、ジョージとしてはいつまでたっても兄貴ヅラされるのはごめんだということではないでしょうか。どちらかといえば、単なる兄弟喧嘩のようですね。

しかし、ジョージの才能に関しては、アビー・ロードでのSOMETHING やHERE COMES SUNの出来や、シタールやシンセサイザーの導入の実績などから、ポールは口には出さないけど、ジョージに対して一目置いていたのではないかと想像します。なぜかっていいますと、ジョージの実験アルバムELECTRONIC SOUNDの制作現場にポールもきていて、ジョージのお手並み拝見という感じに写っている印象的な写真があります。ジョンとリンゴはそこには写ってないみたいです。

まあ、いろいろ不満は言い合ったりするけれど、ビートルズ解散後も彼らはお互いにずっと気にはかけあっていたのでしょう。

それでは、ポールの幸せのノック(LET’ EM IN)聴いてください。

Paul McCartney & Wings - Let 'Em In



リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールドの裏ジャケ、JIM KELTNERを挟んでウィングスの羽のマークが二つ割になっています。


ゲストとしてサックス奏者のトム・スコットとオール・シングス・マスト・パスにゲストで出ていたデイブ・メイソンがビーナス・アンド・マースに参加


ELECTRONIC SOUNDの制作現場のジョージとポール

ポール大阪に本日上陸!

2015年04月20日 | BEATLES-BADFINGER関連
ついにやってきましたね。明日の大阪からスタートし、来週の火曜日の武道館まで計5公演が開催されます。

私の知人は昨年ラッキーにもチケットを入手する事ができ楽しみにしていたのですが、コンサートが中止となりチケットの払い戻しの憂き目に遭いました。今回はどうするのかと聞いたところ、週末のチケット入手は難しく、 また仕事の関係で今回は無理だとの事でした。公演開始時刻は一応6時30分となっていますので、 都内や大阪市内で仕事をされている方は、平日公演の場合、その日の仕事を定時の5時までに済ませれば間に合うのですが、それ以外の地域から来られる方は有給休暇をとるかもしくは早引けされるのでしょうかね~

とにかく、仕事の絡みや高額のチケットなどの問題で、私にとってもポールのコンサートに行くのは、非常に高いハードルとなっているので、初めから諦めています。今回の日本で行われるコンサートは最後になる可能性もある事から考えますと、コンサートに行かれる方が羨ましくてたまりません。

もしコンサートに行けるのであれば、どうしても聴きたい曲があります。それは、MAYBE I’M AMAZEDです。この高音でシャウトしなければならない難しい曲は、歌手を選びます。アルバム“マッカートニー”当時の再現は難しいかもしれませんが、キーを下げてでもあの迫力のあるシャウトを聴く事が出来れば、私としましては何も言う事はありません。

そして、今回の5公演全てが大成功に終わり、武道館ライブが出ればさらに言う事はありません。

Paul McCartney - Maybe I'm Amazed

ケチャップではなく、チンチャップってご存知ですか?

2015年04月19日 | BRITISH ROCK
CHINNICHAP、すなわち、NICKY CHINN-MIKE CHAPMANというソングライター・チーム のことです。

1970年、イギリスの有名なプロデューサーだったミッキー・モスト(ジェフ・ベックのTRUTHやBECK-OLAなど)が1970年に自身のレコード会社(RAK RECORD)を設立した際、そこで働き始め、RAKレーべルに所属するアーチストなどを中心に曲を提供していました。彼らのピーク時であった1973年から74年にかけては、なんと全英チャートのトップ40に彼ら作品19曲を送り込み、そのうちの5曲は1位を獲得することになりました。

主なところでは、
スージー・クアトロのCAN THE CAN, 49 CLASHやDEVIL GATE DRIVE
スイートのBALLROOM BITZ やBLOCK BUSTER
スモーキーのIF YOU THINK YOU KNOW HOW TO LOVE ME やDON’T PLAY ROCK N ROLL TO ME
マッドのTIGER FEET
などなど馴染みの曲ばかりです。

また、マイク・チャップマンは1975年アメリカに移住し、単独で仕事を行うようになり、ナック(GET THE NACKなど) やブロンディー(大ヒットとなった3枚目のPARALLEL LINES)などをプロデュースし大成功を収めました。

ここまで成功すると、当然力関係においてソングライター兼プロデューサーであった彼らがアーチストを上回ることになり、服従を嫌ったスイートやスモーキーなどは、彼らから独立し自作曲に力を入れていくことになります。それ以外にも、ナックやブロンディーともめたようでした。

ヒット・チームに上から目線であれこれ指示されるのはアーチストとしてのプライドなんかもありそう簡単に受け入れられない場合もあるし、かといって、レノン-マッカートニー・クラスのような才能があれば問題はないのですが、普通自作曲で同じような大ヒットを連発するのはかなりハードルの高い事になります。

音楽業界に限らず、この手の決断を下さなければならないのはよくある事で、なかなか難しい問題ですね。

それでは、チンチャップの代表作、ポップでキャッチーな3曲聴いてください。

スージー・クアトロのCAN THE CAN
Suzi Quatro - Can The Can


スモーキーのDON’T PLAY ROCK N ROLL TO ME
Smokie - Don't play your Rock 'n' Roll to me


マッドのTIGER FEET
Mud - Tiger Feet

暇な昼下がりの ”A HARD DAY'S NIGHT”

2015年04月18日 | BEATLES-BADFINGER関連
今日昼過ぎに、何気に何か面白い番組はないかとテレビのチャンネルをあちらこちら切り替えていると、BSの有料映画チャンネルでA HARD DAY'S NIGHTの映画をやっていました。この有料にチャンネルには加入していないのですが、本日は特別に無料放送していたようです。有料チャンネル勧誘のテロップがずっとテレビの画面に映し出されていたのは残念に思いましたが~

映画自体はドタバタコメディーで、所々にイギリス人らしいジョークで 笑をとる場面があるのですが、残念ながら字幕を読んでいたのでは反応できません。それでも、ビートルズが警官から追い回されるドタバタの行は、後のモンティー・パイソンやミスター・ビーンなどに出てくるドタバタの場面と共通しているような楽しさがありました。まあ、ビートルズの面々が追いかけられるから面白いわけであって、普通のおっさんが追いかけられるのであれば、誰も興味は示さないでしょう。

映画に使用されたビートルズの曲の音源はライブ取りではありませんが、最後のコンサートの場面では、当時の演奏の立ち位置などもみることができ楽しめました。

それでは、最後のコンサートの場面で歌われていた、SHE LOVES YOU 聴いてください。

A Hard Day's Night - She Loves You

ジャーマン・ロード~ アウト・バーン~

2015年04月17日 | JAPANESE
日本のロック・バンド、IPPU-DOを紹介します。

1979年4人組でデビューしました。ボーカルとギター担当の土屋昌巳とキーボード担当の見岳章らが中心メンバーで、テクノ・サウンド系のロックがメインでした。1980年から1981年にかけて3枚にスタジオ・アルバムを発表しています。

今回紹介するアルバムは、1982年の“LUNARTIC MENU”というアルバムで、過去の3枚のアルバムからの選曲にシングルでヒットした“すみれ SEPTEMBER LOVE”を加えたベストコンピ・アルバムです。この当時は、ベース・プレイヤーが脱退して3名となり、バンドは1984年に解散に至ります。

土屋昌巳はその後ソロ活動に専念、見岳章は作曲や編曲の仕事につき、幾つかのヒット曲を色々な歌手に提供しヒットさせます。ちなみに美空ひばりが歌った“川の流れのように”は彼の作品です。

それでは、このアルバムから、“すみれ SEPTEMBER LOVE” と “ジャーマン・ロード”2曲聴いてみて下さい。高速道路を走る時は “ジャーマン・ロード” をいまだに車の中でかけています。

彼らの音楽のセンスいいですよ~

すみれ September Love 一風堂


German Road 一風堂

こんなの知ってますか? エイドリアン・ガービッツ

2015年04月16日 | BRITISH ROCK
ドラマーのバディー・マイルス、兄弟のポール・ガービッツ(ベース担当)とエイドリアン・ガービッツ(ギターとボーカル担当)の3人で70年代初めの頃、THREE MEN ARMYという3人組のハードロック・バンドを結成。その解散後、元クリームのドラマーだったジンジャー・ベイカーとガービッツ兄弟の3人組ハードロック・バンド、THE BAKER GURVITZ ARMY を1974年に結成し 、アルバム3枚を残して解散。1975年にはムーディー・ブルースのドラマーのグレアム・エッジとまたまた3人組のバンドGREAM EDGE BANDを結成し2枚のアルバムを残す。

本当に忙しい人です。

その後、1979年にソロ・デビューし、それまでのハードロックとは全く違うAOR路線のアルバム、スイート・バンデッタを制作。

今回紹介するのは、同じAOR路線の曲で、1982年に全英8位とヒットした "CLASSIC"です。

スイート・バンデッタ発表のあたりからエイドリアン・ガービッツを知られた方は、この曲をすんなり受け入れられると思いますが、THE BAKER GURVITZ ARMYの頃しかエイドリアンを知らない方は、サウンドの変わりように多分驚かれることでしょう。

当ブログのタイトルの一部にもなっています"CLASSIC" 聴いてみてください。

ADRIAN GURVITZ - CLASSIC [The Full Version]


こんなの知ってますか? その2

2015年04月15日 | AMERICAN ROCK/POPS
1976年にアメリカで 結成された、4人組のバンドでアメリカのルーツミュージック、すなわちフォーク、カントリーそしてR&Bなどを演奏します。

CCR が解散したため、新たなプロジェクトを模索していた、CCRのベース担当だったスチュワート・クックと同じくドラムス担当だったダグ・クリフォードが、新人歌手、ドン・ハリソンのレコードをプロデュースを手がけることになったのですが、最終的に彼ら2人ともう1人ギタリストを参加させ、バンドとしてアルバムを制作することになりました。それがドン・ハリソン・バンドです。

彼ら2人がバンドに加わったということは、当然そのサウンドはCCRに似通ったものとなります。ファースト・アルバムからシングル・カットされ、全米47位と中ヒットしました“シックスティーン・トンズ” は、カントリー・シンガーのテネシー・アーニー・フォードが1955年に歌い全米1位となったヒット曲をカバーしたものでした。ドン・ハリソン・バージョンはCCRそっくりに仕上がっています。まあ、CCRのジョン・フォガティーが歌えばもっと迫力が増したのではと思いますが、新人バンドとしては及第点以上の出来でしょう。

このバンドは、翌年もう1枚アルバムを出して解散しています。10曲中、“シックスティーン・トンズ”を除いた9曲が彼らのオリジナルの曲だったのですが、これらの曲が弱くアピールしなかったのが敗因と思います。オリジナル曲を減らし、以前ヒットしたキャチーな曲を3-4曲彼ら流に カバーすれば、もっと売れたのではないかと思います。EX-CCRの2人組がついていながら、何故そうしなったのか今でも不思議に思います。

それでは、非常にご機嫌なサウンドに生まれ変わった“シックスティーン・トンズ”聴いてください。
DON HARRISON BAND - Sixteen Tons



ジャケ裏の写真。左から、スチュワート・クック、ラッセル・ダシェル(リードギター担当)、ダグ・クリフォードとドン・ハリソン(ボーカルとリズムギター担当)

陽水と書いて“あきみ”と読む

2015年04月14日 | JAPANESE
先日ハードオフに行って何か掘り出し物のレコードはないかと店内をうろつくと、レコードの陳列棚ではなく、レジの近くの全く目立たない場所に20枚程度のLPが四角いプラスチックのバケツの中にひっそりと置かれていました。そのバケツに入っていたLPを取り出してみると、なんと井上陽水のライブ盤、もどり道がありました。 値段はたったの100円プラス消費税の108円。

早速購入して、家で中性洗剤を使って丸洗い、乾燥後ナガオカの帯電防止兼潤滑作用のあるスプレー、スタッド・バン・562をさっとかけて、ベルベットのクリナーで軽く一拭き。曲の合間に陽水が観客に向かって静かに語りかけるところで、若干チリノイズが入るのですが、演奏中は全く問題なく、中古としては良品の部類でした。

もどり道は、1973年4月に発売された、シングルの“夢の中へ”のヒットをうけて、同年7月にライブ盤として発売されたものです。そのアルバムにはアンコールで演奏されたアコースチック・バージョンの“夢の中へ”が収録されていました。

当時は、英米ロックにどっぷり漬かっていて、邦楽のフォークなんてなんと軟弱な、と思っていました。当時陽水ファンだった学生時代の友人に薦められ、そのライブ盤の“夢の中へ”のみ聴いた記憶があります。
というわけで、新ためてこのアルバムの全容を知るために、LPに針を下ろしたところ、ギター演奏だけの曲ばかりでなく、バンド編成で歌っていた曲(感謝知らずの女など)もあり、結構ロックしていて、なかなかいい感じでした。先入観だけで判断し、食わず嫌いになるのは良くないと新ためて思いました。

楽しかった学生時代から、数十年が過ぎ、どういう縁か7年前にその友人が住んでいた近くに越してきました。記憶を辿って、その友人の家まで行ったのですが、残念ながら、かなり以前にそこから引っ越したみたいで会うことは出来ませんでした。そのため、今回ハードオフで“もどり道”を偶然にも発見した時は、何か不思議な感じがしました。こんなこともあるのですね。

たったの108円で、若かった頃の思い出が買えるなんて、本当に得した気分になりました。

ちなみに、陽水は、アンドレ・カンドレという芸名で歌手デビューしたものの、ヒットすることはありませんでした。心機一転してレコード会社を変えて再出発するため、レコード会社の担当者が新しい芸名を考えていたところ、本名の“いのうえ・ゆきみ”を漢字で書くと井上陽水ということが判りました。そこで 芸名は本名を使用するが、読み方はインパクトのある“ようすい”となったとのことです。 また、アルバム内のMCで、陽水は実家の歯科医院を継ぐため、歯学部を受けたが、結局ヤクザな仕事に就くことになったと言って観客を笑わせていました。ウィキでは、受験に三回失敗したため、歯科医になることを断念したと記されています。

アメリカ人もびっくり、ディランのナッシュビル・スカイラインとは?

2015年04月13日 | Bob Dylan, Byrds, Band and etc.

1969年ディランの9作目のアルバムとして発売されたナッシュビル・スカイラインは今までのディランファンに対して、多くの疑問を投げかけました。

その代表的なものとして、

1.あのガラガラ声から澄んだ歌声変わった。

2.前作からさらにカントリー・ミュージックに傾倒したサウンドに変わった。

3.それまでの世相を風刺したり、また政治的なメッセージが含まれた歌詞が、普通の人々が頭に浮かべるような愛の歌などに変わった。

1969年といえば、ベトナム戦争も激化したり、ニクソンが大統領に就任し政権が民主党から共和党に変わったりと激動の時期でありました。以前からディランを知っていれば、当然この時期に出されたアルバムには、なんらかのディランの社会性のあるメッセージが込められると思っても不思議ではありませんでした。

しかしながら、なんというこの肩透かし, インド人だけでなくアメリカ人もびっくり!

カントリータッチのサウンドになんとも言えないホンワカした内容の歌詞が添えられ、さらっと歌われる。交通事故による怪我のため長い休養をとり、その復帰第2作目ということで、何かが吹っ切れたような感じに聞こえます。今までの一括りのイメージで、ボブ・ディランを語らないでほしい。歌いたい歌を、歌いたい時に歌うのが本当のボブ・ディランだと言っているようにも感じます。これは、次作のセルフポートレートのアルバムにも言えるのではないでしょうか。ディランもこのアルバムに思いれがあるのかその後のライブなどで、同じ曲かと思うほどアレンジが違っていますが、数曲取り上げています。

ディランの熱烈なファンの中には、このアルバムがゆるく感じて受け入れがたいという人も居るのかもしれませんが、個人的には、ジャケットの映って微笑んでいるディランとその楽曲が暖かい気分にさせてくれ、30分程度の長さのアルバムがあっと言う間に終わってしまいます。

ユー・チューブにあるミュージック・ビデオを貼り付けようと思ったのですが、今回適当なものが見つかりませんでしたので貼り付けは断念します。

ちなみに、アルバムはヒットとなり、全米3位、全英1位に輝きました。その中お薦めの曲としては、GIRL FROM THE NORTH COUNTRY, I THREW IT ALL AWAY, LAY LADY LAYやとTONIGHT I’LL BE STAYING HERE WITH YOU などです。

もし機会がありましたら、是非御一聴あれ。


ブライアンは何故作曲しなかったの?

2015年04月12日 | ROLLING STONES関連
英盤オリジナルでは、4枚目となるローリング・ストーンズの1966年発売のアフター・マスを紹介します。

それまでは、R&Bカバー中心にジャガーとリチャードのオリジナルが数曲という体裁でアルバムが発売されてきましたが、今回、全編ジャガーとリチャードのオリジナルというストーンズにとって、アルバム・タイトルが意味するところの区切り、もしくはターニングポイントとなるアルバムでした。

それ以外にも、ロックの曲で初めて10分を越すゴーイング・ホームという曲が含まれ話題となりました。彼らによりますと実際は2分半程度の曲だったのが、録音テープを止めずに各自が演奏を続け、残りの時間が所謂ジャム・セッションになったことです。またブライアン・ジョーンズ演奏によるシタール、マリンバ、ダルシマーや琴などを実験的なサウンドとして数曲に取り入れました。

助手:全編ジャガーとリチャードのオリジナルになったということですが、グループのリーダーであったブライアンが作曲者として全くクレジットされていないのは、少し不思議な気がするんですが。

博士:そうじゃのう。ブライアンはビートルズのユー・ノウ・マイ・ネームでもゲストでサックスを吹けるぐらいのマルチー・プレイヤーじゃったから、音楽のセンスは十分持ち合わせていて、作曲が全く出来なかったとは思えないのう。

助手:彼はこのアルバムで新しい楽器を持ち込んで曲に新たなイメージを植え付けていることからして、作曲よりは編曲に興味があったのでしょうか? 

博士:以前ルビー・チューズデイという曲はブライアンが作曲に関わっていたという話を聞いたことがあるのじゃが。残念なことに、ストーンズから解雇され、その後すぐに死んでしまっているからのう。もし死んでいなかったら、彼の口から何故正式に作曲に関わらなかったのか聞いてみたいものじゃ。

それでは、アンダー・マイ・サムを聴いてください。

The Rolling Stones - Under My Thumb (1966)



米盤のアフターマスのジャケット、英盤(14曲)から4曲削って、ヒット曲ペイントイットブラックを収録した11曲に変更されています。