CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

クリスマスがやってくる、オールディーズもね

2016年11月28日 | BEATLES-BADFINGER関連
一年もあと残すところ1ヶ月とチョット。

12月になるとクリスマスのイルミネーションが市内中心部の大通りに輝き、年末の大売出しが始まる。

昔はこの年末商戦の稼ぎ時に参戦するため、各レコード会社は有名アーティストの新譜を必ず発売したものだった。

ところがビートルズは、1966年の8月にリボルバーを出したばかりで、クリスマス前に出せる弾がなかった事から、ベスト・アルバム、オールディーズ(A COLLECTION OF BEATLES OLDIES, BUT GOLDIES チョット前のヒット曲だけど、ゴールド・レコードばっかりだぜ)を出し、何とかクリスマス商戦をしのぐこととなった。

このアルバムの特徴と言えば、それまで英盤では収録されていなかった、バッドボーイが初めて収録されたことだろう。

アメリカ編集のBEATLES VI制作にあたって、2曲ほど必要と言う事でやっつけ仕事で録音した2曲(バッド・ボーイとディジ・ミス・リジー)の一つだった。

地味なアルバム、アメリカ編集 BEATLES VI

そのため、ビートルズのアルバムのコレクターにとっては、欠けてはならないアルバムだった。後に、バッド・ボーイはパスト・マスターズVol.1に収録されることになり、オールディーズの存在価値が若干ではあるが薄れる。

それでも、マニアにとってはジャケ裏の日本公演の際撮影された初出の4人の集合写真は価値が有るし、それにその写真の画像は日本盤と海外盤では反転して印刷されている。

LPを拡大鏡でよく眺めると、ポールの着ている着物の襟合わせ(右前)で日本盤の写真が正しいとわかる。

英盤と日本盤のジャケ裏の写真

オールディーズはイギリスではステレオとモノの2種類で発売されたが、日本ではステレオのみで発売され、下記の通りにリー・イシューされた。

1967年 OP-8016 オデオン・レーベル赤盤 (黒盤もあっただろうか?)

1970年 AP-8016 アップル・レーベル黒盤

1973年 AP-8016 アップル・レーベル黒盤、フォーエバー帯

1976年 EAS-80557 アップル・レーベル黒盤、国旗帯

1992年 TOJP-7078 オデオン・レーベル黒盤、国旗帯、30周年記念


我が家には、1973年、1976年と1992年の3枚のオールディーズのレコードが有る。

そして個人的には、1992年のレコードが少し気になる。

何故なら、1987年にビートルズすべての英盤アルバムをCD化するためデジタル・リマスターされ、その同じデジタル音源を使いイギリスとアメリカで各レコードが再プレスされた。

日本では、少し遅れて1992年に30周年記念として同様に1987年のデジタル音源を使用し、東芝EMIによって各5000枚の限定盤がプレスされた。オールディーズに関しては、デジタル音源でのプレスは日本のみじゃなかったかと記憶しているのだが。

企画モノとはいえ、解散後の複数のコンピ・アルバムを除けば唯一CD化されていないアルバムなので、もし1992年TOJP-7078デジタル・オールディーズが日本のみのプレスだあったなら、それは世界的にも珍しく貴重ではないかと思うのだが...

まあ、それがどうした? と言われれば特に返す言葉は思いつかない。

たまには音楽以外も

2016年11月26日 | 特になし
二日ほど前の晩のこと、チョット疲れてリビングに敷いて有るIKEAで買った安物のカーペットに転がってなんとなく天井の照明器具をぼんやり眺めていると、茶色い未確認飛行物体が50センチ上空をすっと横切った。

サイズは、柿の種2個分の長さ約3センチ以上と言っても、おつまみのではなく、果物の柿の種のことである。

よくも挨拶なしに上空を通過したな、これは死刑以外にないと思い、新聞紙を丸めて天誅の一撃でも加えようと思ったのだが、手元に新聞紙が無い。

それもそのはず、此処では特定の地域を除いて新聞の宅配は無く、近所のコンビニ買いに行くのが普通で、インターネットで必要な情報は得られるので、そもそもローカルの新聞は家には存在しない。

しかし、日本に戻った時に持ち帰った古新聞が有った筈と周りを見渡している隙に、やつは壁を登り始め天井の方向に向っていた。

此処でやつを叩き潰すと壁に染みが残ってしまう可能性があり、賃貸の住居ゆえ染みのついた壁で後日オーナーともめることは避けるべきで、モップの柄を使って一旦フロアーにそろりと落とし、殺虫剤での近接攻撃で成仏してもらう作戦となった。

シンガポールのアパートと言えば、一般的には各戸のキッチンに個別のダストシュートが取り付けられていて、そこからありとあらゆるゴミを一階にあるゴミ集積場に投下するシステムになっている。

最近、緩やかではあるが資源ゴミの分別を行うようにはなったが、まだまだ日本のように徹底されていなく、ルーズな管理となっている。

そのため駐在で何年もこの地に住んだ人が、日本に戻るとゴミの正確な分別や、指定された日時のみのゴミ回収なんかに頭を悩ませることとなる。

ところでお呼びでない連中のアパート内の侵入経路は、一階から最上階まで繋がるダストシュートのダクトを昇り、そこから各家庭に侵入するのが大半だと思う。

今住んでいるアパートはダストシュートは各戸個別に設けられているのではなく、エレベーター・フロアーの一角にある共有スペースに設けられている。

そのため昔住んでいたアパートと比べると、目撃件数はかなり少なくはなってはいるのだが、アパートの外壁を登ってくるのか、はたまた共有部のダストシュート経由で玄関のドアの隙間からやってくるのか? 

ゼロではない。

熱帯気候では年中繁殖してしまい、カミさんの“ギャー”という叫び声で駆除のためスクランブル出動、年中大騒動となる。

昨今の温暖化で状況は変わったかも知れないが、その昔、北海道の旭川に転勤で住んでいた人が、一年を通してまったく見たことがないといってたのを思い出しうらやましく思う。

此処では日本のように網戸がないので、夜気温が下がったときにエヤコンを切って窓を開けていると、室内の明かりを求めてカナブンがよく入ってくる。

殺すのはチョットかわいそうなので、手で捕まえ窓の外に放逐。

同じ虫なのに、こうも対応が違うのであれば、後世は是非カナブンに生まれ変わりたいと連中は思っているかもしれない。

それから、ふと気づいたのだが、日本では夏になるとセミをよく見る。

自宅の近所の木にも、沢山見受けられうるさいくらいギンギンと鳴く。

温帯や熱帯地域に生息するのに、シンガポールではどういう訳かセミをまったく見かけない。

ご当地のセミをチョット見て見たい気持ちも有るが、まあ年中ギンギン鳴かれると大変では有る。


荒井由実アゲインです。

2016年11月25日 | JAPANESE
カシオペアつながりで、此処でまたもや登場、村井邦彦氏率いるアルファ・レコード。

ニュー・ミュージックと称されるアーティストが在籍、当時は、アルファは原盤制作中心で、国内販売の経路として、赤い鳥は東芝のリバティー・レーベル、荒井由美はこれまた東芝のエキスプレス・レーベルからレコードを出していた。

WIKIによるとその村井邦彦氏が彼女の才能を見込んでシンガー・ソング・ライターとしてデビューする事を勧めたのが始まりだったと記されている。

1973年の“ひこうき雲”、1974年の“ミスリム”そして1975年の“コバルト・アワー”を立て続けに出し、徐々に人気を獲得。


今では、3000万枚以上のアルバムを売り上げ、さらに莫大な費用をかけた派手なライブステージなどを通して、日本の音楽業界のスーパー・スターと言って間違いは無い。

当時は、海外ロック一辺倒で日本のアーティストそれほど興味が無かったのだが、ある日コバルト・アワーに収録されていた“少しだけ片思い”と言う曲をラジオかなんかで聴いて興味を持つようになった。

日本語と英語が交じり合ったサビの部分をさらりと歌う、

いつだって~♪♪
I LOVE YOU MORE THAN YOU
YOU LOVE ME
少しだけ片思い♪

今ではこんなの普通でなんとも思わないかも知れないが、これに嵌った。

これほど自然に英語が日本語の詞にフイットするとはと感じ、初期の三部作のレコードをそれぞれ購入してみようか~♪なんて気持ちが湧き出たような記憶がある。

しかしながら、1976年の次作、“14番目の月”を購入後、なんとなくそれまでの感じと少し違う印象を受け、それ以降の松任谷由美名義時代のアルバムは購入しなくなった。


初期の頃の初々しさが無くなったからなのか?

まあ、色々議論は有るかも知れないが、個人的には、彼女の全盛時代は、荒井由美の三部作と1976年のベスト・アルバム、“ユーミン・ブランド”、プラス“バンバン”に提供した“イチゴ白書をもう一度”あたりじゃないかと…


それから、彼女の作風としては、ハイトーンのメロディーが売りになっているのだが、オリジナルの楽譜通りに歌いこなすには、かなり実力を持った歌手でないと。

以前ユーチュブで、彼女がハイファイ・セットに提供した曲を一緒に歌っていた動画を目にしたことがあるが、ハイファイ・セットの山本順子はさらっと歌いこなせていたのに、本人はかなり苦しそうであった。

やっぱりライブではきついかな?

2012年彼女の40周年記念で、彼女憧れのプロコル・ハルムとのジョイント・ライブが開催され、プロコル・ハルムから影響を受けた“ひこうき雲”や“翳り行く部屋”などが歌われたそうな。

プロコル・ハルムのゲーリー爺さんは未だパワフルな歌唱は健在と聞いていたが、果たして我らがユーミンはどう立ち向かったのだろうか?

パープルのイアン・ギランが最近のコンサートでギャーと雄叫びを上げても、70年代ライブ・イン・ジャパンの頃の頭にガーンと突き刺さるような声はもう出せない。

数十年前に聴いたイメージが未だに頭に残っているのと、歌手サイドも寄る年波には勝てないって事からくるギャップで、残念に思うのは致し方ない事なのであろう。

やはり私としては、安心のスタジオ録音“ひこうき雲”、“ミスリム”そして “コバルト・アワー”を荒井由美として昔のイメージ通りに懐かしく聴き続けるのが賢明ではないかと思う今日この頃。


番外 ローランド・ヤングって誰?

2016年11月25日 | 特になし
アメリカの著名なグラフィック・デザイナー、Louis Danzigerに師事し、64年にキャピトル・レコードに入社し、レコードのパッケージ・デザインやアーティストのプロモーションのための広告デザインを担当。

後にハープ・アルバートとジェリー・モスが設立したA&Mレコードに入社、そこでクリエーティブ・ダイレクターの役職に付き、A&Mからリリースされた数多くのアルバムのアートワークを担当した。

有名なところでは、カーペンターズのアルバム、キャロル・キング、キャット・スティーブンス、それにピーター・フランプトンなどに関わったようで。

カーペンターズ

キャロル・キングにキャット・スティーブンス

ピーター・フランプトン

A&Mの作品は、当初キング・レコードが日本での販売権を持っていたのだが、その契約の期限がきたときに、キングレコードとは契約の更新をしなかった。

新しい契約先は、70年代の始め日本のフォーク、ロック、ポップスや歌謡曲に影響を与えた、作曲家兼音楽プロデューサーだった村井邦彦氏率いるアルファ・レコードとなった。

何しろ、A&Mの設立者、ハープ・アルバートとジェリー・モスは、元々ミュージシャンとプロデューサー出だったので、同じ境遇の村井邦彦氏と馬が合ったことから、販売権の契約がアルファ・レコードに決定したと何かの雑誌で読んだことが有る。

当時、カシオペアはアルファに所属しており、なんでもジャズ・ミュージシャンのハービー・メーソンがカシオペアのことをいたって気に入ったようで、彼のプロデュースでアメリカで新譜を録音することになった。

それが、1981年のEYES OF THE MINDだった。カシオペアの既出の曲と、ハービーとボブ・ジェームスらが書いた曲が録音された。

そのジャケットのデザインは、アルファと販売権で契約の有るA&Mレコードのクリエーティブ・ダイレクター、ローランド・ヤングの手によるものであった。

EYES OF THE MINDを直訳すると、心の目と言う事で、表ジャケットには二つの目が描かれている。ジャケ裏は、一つの目だけ。


素人の推測として、ジャケ裏の一つの目は、心の中に有る第三の目として描かれているのではないかと…

なるほど、これが前東京都知事が何度も繰り返し言っていた、厳しい第三の目?

いや違った、彼が言っていたのは第三者の目だったけ。

ところでEYESと複数形になっているから、心の目が一つだけって解釈するってのもなんだかおかしいかも? それに、表に描かれているダメージを受けた感じの眼球のようなものは一体どういう意味? 

むむ~

やっぱりローランド・ヤングに聞かなければならないみたい。


80年代の記憶、カシオペア

2016年11月24日 | JAPANESE
昨今のインターネットの発達により、日本の映像や音楽が海外で簡単に見聴き出来るようになった現在、日本語を含む日本固有の文化は世界的にかなり浸透し理解されてきたと思う。

ポップな日本語の単語を散りばめた曲であっても、あまり違和感を持って聴かれることはなくなり、未だ特定のミュージシャンだけでは有るが、彼らが作り出す音楽が結構海外で受けるようになってきた。

ビルボード・チャート一位を記録した、坂本九が日本語で歌う“上を向いて歩こう”を除けば、その後の長い間日本語で歌われた曲が世界で注目を集めた事例はほぼ無かったと言えたのでは...

此処東南アジアでは、華僑が多いため洋楽を除けば、昔から北京語もしくは広東語で歌われる歌謡曲が多く、数多くの日本の演歌やポップ・ソングなんかも翻訳され広く歌われていた。

そのため、当時日本から海外に進出をもくろむミュージシャンは、歌モノは出来るだけ避け、インストで勝負することになった。

テクノ系ではイエロー・マジック・オーケストラ(ボーカルが付いた歌もあったが、それらは特に感情を込めた歌ではなく、電子系のフィルターを通した楽器の一種のような感じだった)、電子音楽系では喜太郎や冨田勲などが独特の世界観を持って海外に進出した。

その中で80年代に活躍したバンドがカシオペアである。

デビューしてイギリスで演奏したり、後にモントルー・ジャズ・フェティバルなんかでも演奏し、結構ヨーロッパで人気があったようだが、此処東南アジアでも結構知られた存在だった。

なにしろ、当時彼らのカセットやCDがショップで普通に売っていたし、ナイト・クラブ・トロピカーナ(古っ~!、多分永住している60代以上の日本人で無いと知らないと思う。何故って、25年ほど前に店を閉めたからね)のカバー・バンドなんかも、時折彼らのヒット曲“朝焼け”を軽快に演奏していたのを覚えている。


1980年作サンダー・ライブ、超ハイテク演奏にぶっ飛ぶ、オン・タイムでレコードは買っていない。シンガポールでCD購入


1982年作ミント・ジャム、海外向けに、ライブでベストアルバム作成、オン・タイムでレコードは買っていない。シンガポールでCD購入


1984年作サウンドグラフィー、スタジオのベスト・アルバム、オン・タイムでシンガポールでカセット購入


1984年作ダウン・アップビート、スタジオ録音でだが一発取りと聴いてぶっ飛ぶ、オン・タイムでシンガポールでカセット購入


1985年作スゥート・サファイア、野呂一生初のソロ、オン・タイムでシンガポールでカセット購入


1988年作ワールド・ライブ88、この後活動停止。オン・タイムでシンガポールでCD購入。その後メンバー・チェンジしため興味をなくし、カシオペア打ち止めとなる。

やっぱり、サンダー・ライブから固定された最強のメンバーの演奏でないとね。

メンバー・チェンジした後は何かチョット違うような...

まあ、当時の彼らの繰り出した精密機械のような超ハイテク演奏が、現在のクール・ジャパンなるイメージの土台を作ったのではないかと…

今日の結論

おじいさんになると、昔のことをホントよく喋りだすようになるって、今は無き父親を見続けてきてよく思ったものだ。

いざ、自分がその年齢に近づくと、あら不思議! 昔のこと自動的に喋りだすね~

最近のことはあまり覚えていないのに、数十年前のことをパッと思い出す。


入れ違いとなった尾崎豊

2016年11月23日 | JAPANESE
80年代の佐野元春について書けば、当然このお方も登場させなければならないのだが、実は83年の11月急に海外駐在の辞令が下った。

そのため、その後の80年代は、私にとって日本の音楽事情に関する情報がまったく入らない空白の時代となってしまった。

とは言え、仕事関連でたまに帰国したりして、その際日本のアーティストのテープなどを結構買った。

以前は英米のロック中心聴いていたのが、いざ日本を離れると如何いうわけか、日本の歌が恋しくなる。

当時、尾崎豊の存在はまったく知らなかった。

何しろ、私が出国した83年の12月にシングル“15の夜”とアルバム“十七歳の地図”でのデビューとなり、私とはまったくの入れ違いだった。


その後ある日本の新聞記事のコラムで、尾崎豊を見直そうと言う記事を偶然読んだことから、いつか帰国した時に買ってみようと思った。

と言うわけで、彼のデビューCDアルバム、“十七歳の地図”を買ったときは、彼は既に亡くなっていた。

アマチュアの自主制作ではなく、プロの制作者が絡んでいるので鑑賞に堪えられるものだとは予想はしていたが、CDを購入し初めて聴いた時は本当に驚いた。

ゲゲー! 高校生でこれだけの創造性に溢れたレベルのアルバムが作れるのかと。

私の高校時代の生活とは比較対象にならない。もちろん、私のほうが普通で、彼が特異な存在だったと事は、言うまでもないことだった…

10代が終わるまでにさらに内容の濃いアルバム“回帰線”と“壊れた扉から”を1985年連続して出していた事にも驚いた。


お次はどうなったのか?

日本のアーティストによく有る、自身の活動が一応完結したと認識した時点で、お決まりの海外での充電期間となる。

佐野元春もアメリカに行き、帰国後最新のヒップホップ・ミュージックなどを取り入れポジティブな新境地を目指したのだが、同じくアメリカから戻った尾崎豊の場合は、少し状況が違ったように思える。

帰国してから、レコード会社を代え、心機一転かと思ったのだが、完成までに結構時間を要したアルバム第4作目の“街路樹”が1988年に出たわけだが、アメリカで生活していた影響が見受けられなかったように思う。


作風としては、以前から続く日本的なもので、さらに内向的になったと感じた。

サウンド的にはパワー全快である。

しかし、文才のなさからうまく書き示すことが出来ないのだが、多分精神的な疲弊からくる絶望感とか無力感、それとも徒労感とか何となく重苦しいネガティブなイメージばかりを感じた。

アルバムの中で、唯一アップ・テンポで明るい曲調の “遠い空”でさえ遥か彼方の遠い空に映る今にも消えそうな希望を見つめる内容。ガンバレーと鼓舞するような雰囲気はなかった。

一体アメリカで何があったのか、何を見てきたのか? と思わずにはいられない。

尾崎豊自身はこの作品の出来に満足していないし、わざとヒット・シングルを収録していないなんてどこかで読んだ記憶も有るのだが、私としては如何いう訳か、このアルバムが彼の出したアルバムの中で特に引っかかるのである。

他のアルバムと比べて、内容が同ベクトルに統一され、トータルで非常に濃い心情が味わえた。

発売されてからかなり年月が経過し、30歳半ばになった人間が初めて聴く場合は時代のギャップがあり客観的になれる。

曲に感情移入して意識を共有して聴くには、歳をとり過ぎた。

もしオン・タイムだった80年代に順番に聴いていれば、また違った感情が出てくるのかも知れない。

ロックは、やはり獲れたてピチピチで聴くのがよい。

Systemの中のディスコ・ティック、その意味は?

2016年11月22日 | JAPANESE
60年代の後半、グループ・サウンズの連中が、英米のヒット曲を日本語でよくカバーしていた。

しかしながら、英語の歌詞を直訳して歌うとなるとまったく曲のメロディーやリズムにフィットしない場合が多く、かなり意訳する必要があった。

ビートルズのオブラディ・オブラダは、シンプルに訳すと、“デズモンドは市場に屋台を持っていて、モリーはバンドのシンガー。デズモンドはモリーに、君の顔は素敵だと言うと、モリーは彼の手を握ってこういった。オブラディ・オブラダ~...”となる。

一方、ザ・カーナ・ビーツのドラマー、アイ高野は、出だしから “太郎が花子になんたらかんたら~”と歌った。

何でデズモンドが太郎で、モリーが花子になってしまったのか?子供心ではあったが“チョットそれは違う!”と言う違和感があった…

カバーでさえこれなのだから、ロックの自作曲の場合、英語で歌うべきなのか、それとも日本語なのかと言う議論が70年当初自然に巻き起こった。

内田裕也は英語でロックを歌うべきだと言い、一方日本語派といえば“はっぴいえんど”達であった。

内田裕也プロデュースのフラワー・トラベリン・バンドは、1970年カナダに進出し、日本人による英語版ロックは一定の成果を挙げた。

また日本語派もロックのリズムやメロディー日本語の歌詞が何とかのるよう試行錯誤の上工夫を凝らし、始めは少し違和感があったものの、それも徐々に解消され、その後登場したキャロルの巻き舌歌唱によって、その手の論争は手打ちとなった。

そのような土台の上に、新たなロック系シンガー・ソングライター、佐野元春が登場し、日本語を散りばめたロック・サウンドはさらに完成形に近づいたと思う。

当時は、彼の存在は知らなくて、初期三部作の後に出た1983年発売のベスト盤、NO DAMAGEで知ることとなり、日本のロックも進化したものだと思った。


初期三部作、1980年のBACK TO THE STREETと1981年のHEAT BEATは売れなかった


三枚目の1982年のSOMEDAYでようやく火がついた。


ベスト・アルバム、NO DAMEGEは、新しい創作活動を始めるため、アメリカ出発の置き土産であったようだ。

さらに驚いたのが、彼の帰国後、1984年に出したのがアルバム、VISITORSだった。


VISITORS

その土地の住人ではなく、ビジターとしての感覚で、現地の最新サウンドを持ち帰り日本語の歌詞を当てはめた冒険的なハイブリッドだった。

すなわち、過去三部作のポップ・ロック路線継承ではなく、当時一般的にはほとんど浸透していなかった黒人ヒップ・ホップ系のミュージックで、今でこそラッパーが撒き散らす日本語によるヒップホップ・ミュージックは、普通に認識されるが様になったが、当時、始めてこの手の耳慣れないミュージックに染まったアルバムを聴いて、私も含めて今までのファンはかなり惑ったのではないかと思う。

Complication Shakedownと言う曲のサビの部分が印象的でいまでも良く覚えているフレーズ。

愛をこめてコミュニケーション・ブレイク・ダウン~
I'll keep walkin' on this complication shake down~

Physicalなダンス
Mentalなダンス
Systemの中のディスコ・ティック
Systemの中のディスコ・ティック

Systemの中のディスコ・ティックのSystem(体制)の意図するところが未だに良くわからないが...

だけど、韻を踏んで曲全体に大胆に日本語を放り込んだなと感心! 訳のわからないところがまたよいのかも?

今日の結論

革新的になるには、相手に完全にわからせるより半分意味不明で置いておく、そして過去を捨てるぐらいの気概が必要じゃないかと...

私の小さな人生、チューリップ

2016年11月20日 | JAPANESE
学生時代の頃、将来何をして生きていくかなんてシリアスに考えたことはあったっけ。

はるか昔の私の時代では、大学4年生になった頃から方向性を定めて、夏ごろから会社説明会や会社訪問を始め、年内までになんとなく将来の進路を定まった就職内定って段取りだったような記憶がある。

もちろん大学入学以前に、特定の専門的分野で生きていくため、医学部や法学部などに入学し国家資格の試験に合格する目的を持って勉学に励んでいた人もいただろうが、学生全体から見ると少数派だったと思える。

私は、その他大勢のなんとなくの口であった。

実家が当時零細経営の製造業を営んでいて、小額ではあったが製品を貿易会社を経由し海外に出荷していたことから、漠然とその方向に進めれば良いなと思っていた。

当時は、70年代末の第二次オイル・ショックの影響で日本の経済が落ち込み、採用人員の大幅な削減により就職はかなり狭き門となった。

何とか最終面接まで残ったものの、例年と比べ採用者数の激減で連戦連敗。

幸いなことに、たまたま訪れた大学の就職課の求人広告が目に止まり、ギリギリで小さな貿易会社にもぐり込むことが出来た。

いつも思い出すのが、この歌。

チューリップの1972年のファースト・アルバム、“魔法の黄色い靴”に収録された曲、“私の小さな人生”。

アルバム・タイトル曲でシングル・カットされた“魔法の黄色い靴”の陰に隠れた少し地味目の曲ではあるが、彼らにとって記念すべきシングル第一弾(自主制作盤を除く)だったようだ。

アマチュア時代から歌っていた自信作でコーラス・アレンジなどもチューリップさを発揮していたと思うが、残念ながらヒットはしなかった。

ビートルズに影響を受けたチューリップの楽曲に興味はあったものの、当時は洋楽のロック専門で、国内のミュージシャンのレコードを買う事はまれであった。

時は流れ、貿易会社の駐在員だった80年代の有る日海外から一時帰国し、たまには日本の曲も良いかもと、彼らのベストのカセット・テープを購入し持ち帰り、この曲の存在を知った。

私が今日まで 生きてきて
何がこの手に 残ったろう
生まれて死ぬまで 私は何をする
お金をもらって 何に使おう
歩いても 歩いても いつも一人だった
人はおかしな男と言うけれど
私の小さな人生は これからどんなに変るのか

花の開く音も 人の歌う声も
私には淋しく 聞こえてくる
できることなら 死んで行くその日まで
歌を歌って生きて 行きたい
歌を歌って 生きて 生きて 生きて ゆきたい

チューリップのリーダーであった財津氏は、この歌通りの人生を実践されている。

どのような気持ちで20歳頃に作ったのか想像はつかないが、歳を重ねた今、その通りになっているのが何気に凄く感じる。

かく言う私も、この数十年の間に、最初に就職した会社が倒産したり色々なことがあったけど、これまでと同じラインの仕事でなんとはなく生きてこれた。

残念ながら、死んで行くその日まで、今の仕事を続ける事は現実的に難しい。

私の小さな人生は これからどんなに変るのか?

まあ今後も良いにつけ悪いにつけ、今まで通りなんとなく事が収束し落ち着くって感じなのが私の小さな人生という気はするが...

トウシロによるジャズ鑑賞 、その5 やっぱりビートルズにおすがりするって事で

2016年11月11日 | JAZZ・FUSION
やっぱりジャズ鑑賞ってのは、私のようなトウシロ・リスナーにとっては普通のポップ・ソングと違ってかなり聴き込まないとなかなか理解出来るものではない。

その厳しい修行を継続するには、やはり常時ジャズを聴くことの出来る環境に身を置いておくことが理想であるが、就業時間中にスマホにイヤフォンを差し込みちんたらやっていると上司から大目玉をくらう。

社用車で外回りの際CDを持ち込み、運転中に聴くのが関の山。但し同乗者がいれば、これも無理。

じゃあ、どうすればいいのか?

脱サラもしくは定年退職後、ジャズ喫茶のオヤジとなり、大口径のJBLのスピーカーから流れる音源を一日中聴き放題なんて手段も有るが、これは中々厳しいと思う。

現実的には、金持ちの道楽で無い限り、地道に利益を出して営業を継続するなんて今の世の中至難の業。

近所に3階建ての住居の1階を改造し、店内にライブ用の小さなステージ設けたジャズ喫茶があった。

どうも、夜な夜なジャズのライブをやっていたみたいで、一度行ってみようとは思っていたのだが、中々タイミングが合わず行く機会がなかった。

そうこうしてる間に、数年後店はなんとカラオケ喫茶に転換、そしてさらに数年後、廃業と相成った。

自宅を改造した家族経営だったようで、そのため運営の経費は有る程度抑えられていたと推測していたのだが、やっぱり郊外の駅近商店街という不利なロケーションでは、ジャズのライブと言う売りだけでは客がそれほど集まらず商売が成り立たなくなったのであろう。

ジャズ初心者としてのジャズ道攻略の方法は、一気にその本丸を攻めるのではなく、ジャズの境界線と言われる付近から時間をかけてじっくり攻め上がる事。

手っ取り早いのは、お気に入りの曲のジャズ・カバーから入っていく。

1995年発売の、ジャズ・ピアニスト兼音楽プロデュサーのデーブ・グルーシンが設立に関わったジャズ・レーベル、GRP Recordから発売されたビートルズ・カバー集、I Got No Kick Against Modern Jazzなんて結構聴き易い。


何しろ元歌がしっかり頭に刻み込まれているから。

1. The Long And Winding Road、George Benson
2. She’s Leaving Home、McCoy Tyner
3. I Want You(She’s So heavy)、 Groove Collective
4. And I Love Her、Diana Krall
5. The Fool On the Hill、Tom Scott
6. Michell、Ramsey Lewis
7. A Day In the Life、Lee Ritenour
8. Let It Be、Nelson Rangell
9. Eleanor Rigby、Chick Corea
10. While My Guitar Gently Weeps、Russ Freeman
11. In My Life、Spyro Gyra
12. Here There And Everywhere、David Benoit
13. Blackbird、Arturo Sandoval
14. Yesterday、Dave Grusin

ギタリスト、アル・ディ・メオラも2013年に、ビートルズのカバー・アルバム、All Your Lifeを出している。こちらは、アル・ディ・メオラ流解釈でビートルズの楽曲を料理しているので、カバーとしては少し上級編かも。


このあたりを鑑賞するのであれば、特にジャズ喫茶のオヤジになる必要はないかと…


トウシロによるジャズ鑑賞 、その4 電化も良いけど、たまにはディーゼル?

2016年11月10日 | JAZZ・FUSION
電化と言えば、私ならすぐに思いつくのが旧国鉄の郊外へ向う路線。

私の自宅は郊外の私鉄沿線に在するのだが、そこから5キロほど離れて並行に走る旧国鉄の路線がある。

その昔、都市圏の外れにくると、その路線はある地域を境に複線の電化区間から単線の非電化区間に切り替わった。

その区間では、本数の少ないディーゼル気動車が客車を引く。

たった一駅違うだけで非電化区間に住めば本当に不便であった。

今現在、非電化区間だった路線の奥の地域での大規模宅地開発によって、沿線は電化され複線での営業となり利用者にとって大変便利になった。

さてジャズの世界で電化と言えば、やっぱりこの人、マイルス・デイビスである。

1968年頃から彼は電化計画をスタートさせ、1970年作ビッチェズ・ブリュ-で完成形となる。


マイルスの場合は時代時代で、彼がリーダーのバンドを結成するのだが、それはいつも超一流のミュージシャンで固められ、各々がソロでリーダー・アルバムを充分作成できる技量と個性を持っていた。

70年代に、2-3のロック・バンドからそれぞれメンバーが集まってスーパー・バンド結成なんて話がよくあったけど、あの手の中途半端なものではなく、本当のスーパー・バンドと言えば彼らのことだったと思う。

ビッチェズ・ブリュ-の制作時のメンバーと言えば、有名どころでギターにジョン・マクラフリン、キーボードにチック・コリアにジョー・ザヴィヌル、サックスのウェイン・ショーターにパーカッションのアイアート・モレイラなどなど。

その前のアルバム制作時にはハービー・ハンコックなども在籍。

電化マイルス・バンドの各メンバーは、マイルスの影響を受け、脱退後フュージョンと言われる新しいジャンルで各々がアルバムを発表し大活躍を遂げる。

1971年、ジョー・ザヴィヌルが結成したウェザー・レポート


1972年には、チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバー


同年のジョン・マクラフリンのバーズ・オブ・ファイヤー


さらに、1973年にはハービー・ハンコックもヘッド・ハンターを出す。


60年代末期にはロック・バンドもジャズとの融合を図ろうと言う取り組みで、シカゴなどが登場となったが、マイルス御大によれば、“やつらのは俺のパクリじゃよ”と言った様な、言わなかった様な…

ジャンルは違うが、シンフォニック・プログレの雄、イエスも1975年リレーヤーと言うアルバムの中の、サウンド・チェーサーと言う曲で、フュージョン・サウンドを展開したのには当時非常に驚かされた。


まあ、マイルスの電化プロジェクトはジャズだけで無くロックの発展にも多大に寄与し、先見性を持ったものだったのは間違いないと思う。

じゃあ、鉄道の電化が地域の活性化に多大な効果をもたらしたように、マイルスの電化もすべてのリスナーに対して何らかの感動を与えたかと言うと、これには色々と意見が有ると思う。

個人的には、マイルスは電化による単なるジャズ、ロックやファンクなどの融合よりもはるか彼方を見据えていて、その後のさらなる彼の先進性に次第にリスナーがついていけなくなったのではないかと…

特に1975年日本でライブ録音された2種のダブル・アルバム、アゲルタやパンゲヤを通しで数回聴いて感想文を書けなんて言われると中々厳しいモノが有る。
アゲルタ

とパンゲア


と言うことで、マイルスはこれを境にいったんお休み。その後かなりポップなサウンドで復活。電化マイルスは彼方に消えさった。

ハービー・ハンコックも、もともと60年代に出したアルバム“処女航海”でのプレイように普通にジャズ・ピアノを弾いていたのだが、マイルス・バンドに在籍した影響なのか、70年代は、シンセやエレピなどでピ~ヒャラやりだした。
1965年の処女航海


以前のようにピアノを弾くことは出来なくなったのではないかと陰口を言われだしたのが原因なのか、平行してVSOPというバンドでジャズピアノを弾いた。

イエスにしても、フュージョン・サウンドをさらに開拓していくのではと当時思ったのだが、次作の“究極”ではあっさりと方向転換。フュージョン・サウンドは消え去り、代わりにサザーン・ロックを思わすドライブの効いたスライド・ギターがのっけから登場してこれまた驚いた。


今日の結論、

電化も良いけど、たまにはディーゼル気動車の出すノスタルジックなエンジン音も必要って事なのか…


トウシロによるジャズ鑑賞 、その3

2016年11月09日 | JAZZ・FUSION
イャー、ジャズ道を極めるのは大変みたい。

カバー曲の場合であれば、少なくとも原曲の主旋律は抑えておかないと、いったんアドリブ・モードに突入すると、私のようなトウシロの場合はっきり言ってどれも同じに聴こえてしまう。

楽曲を繰り返して聴き込み、心の琴線に触れるような何かを見つける事が出来るなら、それをお気に入りとしてそのアーティーストの作品から攻略していくこととなる。

幸い、近年ジャズの名盤が廉価版CDでどんどんと復刻され、ハイレゾのSACDや紙ジャケ仕様で無ければ、国内盤や輸入盤を問わず、一枚あたり1000円ちょっとで購入することが出来る。

てな訳で、ジャズの定番と言われるCDを纏め買いしてみる事にした次第…

最初はグーではなく、ジャズの帝王(古っ~)マイルス・デイビスのバンドのメンバー繋がりから入っていく事に、

1961年、ビル・エバンス・トリオによるビレッジ・バンガードでのライブ録音、WALTZ FOR DEBBY
エバンスの作品で定番中の定番


1975年、キース・ジャレットによるピアノ・ソロのライブ、THE KOLN CONCERT
気のせいかも知れないが、彼のピアノ・ソロにロックを感じた。


1956年、テナー・サックスの名手、ソニー・ロリンズ、SAXOPHONE COLOSSUS
陽気なサキスフォンって言うか


1958年、アルト・サックスの名手、キャノンボール・アダレイのSOMETHIN' ELSE
ブルー・ノート・レーベルからの発売で、本当はマイルスがリーダーなのだが、彼はコロンビア・レーベルと契約済みだったので、キャノンボール・アダレイ名義で出された。とは言え、キャノンボールとマイルスのコンビネーションは絶妙。
さらに、ドラムスにはアート・ブレーキーさんもいらっしゃるようで。


などなど、そして

1958年、ピアニスト、ソニー・クラークがリーダーのCOOL STRUTTIN'
日本で大人気のソニー・クラーク。
ハイヒールにスリットの入ったタイト・スカートを着こなし颯爽と通りを歩く、女性の足元を激写。
何か、映画の一シーンを切り採ったようなジャケ。私はジャケ買いの口です。
ジャッキー・マクリーンとアート・ファーマーの2本のホーンが全面に出てきて、リーダーのピアノの音がチョット控えめか?


1962年、オクターブ奏法の名手、ウェス・モンゴメリーのFULL HOUSE
ウェスがCTIレーベルに移籍してフュージョン系に転換する少し前のジャズ・ライブ。
個人的には、70年代のジョージ・ベンソンやリー・リトナーからウェス・モンゴメリーに到達したわけで。


1975年、これまた名ジャズ・ギタリスト、ジム・ホールのCONCIERTO
このアルバムは、70年代にレコードで聴いた記憶が...

このメロディーであれば、私でもすぐにアランフェス協奏曲ってわかり、取っ付き易い。
マイルスやチック・コリアなんかもカバーした名曲。


トウシロのDIG THE JAZZの旅はさらに続くのである。

トウシロによるジャズ鑑賞 、その2

2016年11月08日 | JAZZ・FUSION
エェー! MY FAVORITE THINGSってマイルス・バンドの演奏じゃなかったの?

1959年のアルバム、KIND OF BLUEの録音の際、マイルス・バンドのメンバーだったジョン・コルトレーンが、翌年バンドから脱退し、自身のリーダー・アルバムで録音したんだって。

今、改めて聴いてみると、MY FAVORITE THINGSにはトランペットの音は無く、高音はコルトレーンのソプラノ・サックスだけでした。

KIND OF BLUE でマイルスとコルトレーンの競演の印象が強かったんで、つい間違ってしまった。

そんなことジャズ・ファンなら常識! これだからトウシロは困るって話で…

ジャズ道を極めるには長く厳しい道のりが待っているみたい。

反対に、SO WHAT!(それがどうした!)と開き直るしかないのかも…

トウシロによるジャズ鑑賞

2016年11月08日 | JAZZ・FUSION
ロックやポップソングだけではなくたまにはジャズも聴く。

と言っても、ボリュームを抑えてバック・グラウンドで流す感じで聴くので、今し方かかっていた曲は誰が演奏している何の曲なのかと問われると、答えに窮する。

ボーカルが入ればまだしも、演奏だけの場合、主旋律をさらっと演奏した後に、トランペット、サックスやピアノなどのソロ・アドリブが交互に延々と続き、最後の締めとしてなんとなく聴き覚えのある主旋律がチョロっと登場して一丁あがりのパターンが多いので、どれも同じに聴こえる。

修行が足りないと言われれば、肯くしかないのだが…

数日前、暇つぶしにジャズの動画をユー・チューブで検索していたところ、場違いなアニメの動画が目に留まり、再生してみた。

学園モノのアニメで、どうも話の一場面が抜き取られているみたいで、しばしそれを鑑賞していると、主人公と思しき高校生が学園祭でジャズの曲をピアノを弾く場面になった。

おっ! これってどこかで聴いたことがあるなって思い、調べてみると、アニメのタイトルは2012年にテレビの深夜枠で12話からなる“アポロンの坂道”でジャズの名曲が全篇に絡んだもので、その時演奏された曲は、MY FAVORITE THINGS – SOMEDAY MY PRICE WILL COME – MORNIN’のメドレーとなっていた。

アニメのストーリーはさておき、こんなジャズ関連のアニメが全国ネットで深夜に密やかに放映されていたなんて…

聞き覚えの有るタイトル名とうろ覚えのメロディーからして、これらはマイルス・デイヴィスがやっていた曲じゃないかと?

しかし、MORNIN’なんて曲やってたっけ?

またまた、調べてみるとMORNIN’はアート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズが1958年に録音したものとなっている。


あれ!じゃマイルスが演奏した曲って?

それは、1959年のアルバム、KIND OF BLUEに収録された別の曲SO WHATだった。


二つの曲の出だしのコード進行が良く似ていたのと、アート・ブレイキーのCDは持っていなかったので、今までまったく気がつかなかったと言う話である。

SO WHAT?(それがどうした?)と問われると、これだからトウシロは困るって話で...