なんとなく、井上陽水を聴いていた。
うちの両親は井上陽水のファンである。
最近では二人で宇都宮文化会館で行われたライブにも行った。
私はといえば、彼についてそんなに興味はない。
高校3年生の合唱曲で「少年時代」を歌い、「良い曲だなあ」とぼんやり思ったぐらいである。
「人生が二度あれば」
この曲は、いつの間にか年老いていた両親の姿を目のあたりにし、仕事や子供ばかりのために生きてきた両親を「人生が二度あれば」と歌う曲である。
切ない。言葉にできないぐらいの切なさを感じた。
それは、やはり私も帰省の度に両親の老いを見せ付けられるからだ。
その様子に目を背きたくて、そして老いを事実として認めなくてはならないと思うと、…辛い。老いの果てには、「死」というものを微かに感じられる。親は死なないものだと思ってきたけれど、老いという現象は、嫌でも死への道を暗示してくる。
老いの原因は様々だ。
殆んどが自然現象なのだが、原因のの数パーセントを自分が担っているんではなかろうか?と思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
夏は毎年、家族で海に行った。茨城県の河原子海岸だ。
ビニールボートに子供たちを乗せ、父は沖に連れていってくれた。
子供が喜ぶと思ったからだろう。
子供心に「こんなに遠くに来ちゃって、大丈夫なんだろうか?」とビビっていた。
芋洗い状態の浜辺はやがて遠くに見え、パラソルの下で母が手を振っているのが見える。
遠くからでも確認できる母の笑顔に安心した。
両親は本当に喧嘩が耐えない夫婦だったが、私には真似できないほど子供たちを愛してくれた。
そう、私にはできない。
できないと思う。
海で子供たちを喜ばせ、安心させることすらも。
この歌詞の主人公もきっと同じ気持ちなんではなかろうか。
自分の描いている幸せと、自分のために老いた両親の姿に不協和音を感じるから、「両親の人生が二度あれば…」などと思うんだろう。
「子供たちが元気でいることがパパとママのの幸せ」
その言葉に甘えて、私は親孝行らしいことはまだしていない。
まだどころか、何が親孝行なのかすら模索中だ。
こんな子供のために、色々ごめんね…と思ってしまう。
人生が二度あれば、両親はもう一度の人生をどのように生きるだろう。
できれば、もう一度の人生の方も、私たちの両親でいてほしい。
「人生が二度あれば」(井上陽水)
父は今年二月で 六十五
顔のシワはふえて ゆくばかり
仕事に追われ
このごろやっと ゆとりが出来た
父の湯飲み茶碗は 欠けている
それにお茶を入れて 飲んでいる
湯飲みに写る
自分の顔を じっと見ている
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
母は今年九月で 六十四
子供だけの為に 年とった
母の細い手
つけもの石を 持ち上げている
そんな母を見てると 人生が
だれの為にあるのか わからない
子供を育て
家族の為に 年老いた母
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
父と母がこたつで お茶を飲み
若い頃の事を 話し合う
想い出してる
夢見るように 夢見るように
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
この人生が
うちの両親は井上陽水のファンである。
最近では二人で宇都宮文化会館で行われたライブにも行った。
私はといえば、彼についてそんなに興味はない。
高校3年生の合唱曲で「少年時代」を歌い、「良い曲だなあ」とぼんやり思ったぐらいである。
「人生が二度あれば」
この曲は、いつの間にか年老いていた両親の姿を目のあたりにし、仕事や子供ばかりのために生きてきた両親を「人生が二度あれば」と歌う曲である。
切ない。言葉にできないぐらいの切なさを感じた。
それは、やはり私も帰省の度に両親の老いを見せ付けられるからだ。
その様子に目を背きたくて、そして老いを事実として認めなくてはならないと思うと、…辛い。老いの果てには、「死」というものを微かに感じられる。親は死なないものだと思ってきたけれど、老いという現象は、嫌でも死への道を暗示してくる。
老いの原因は様々だ。
殆んどが自然現象なのだが、原因のの数パーセントを自分が担っているんではなかろうか?と思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
夏は毎年、家族で海に行った。茨城県の河原子海岸だ。
ビニールボートに子供たちを乗せ、父は沖に連れていってくれた。
子供が喜ぶと思ったからだろう。
子供心に「こんなに遠くに来ちゃって、大丈夫なんだろうか?」とビビっていた。
芋洗い状態の浜辺はやがて遠くに見え、パラソルの下で母が手を振っているのが見える。
遠くからでも確認できる母の笑顔に安心した。
両親は本当に喧嘩が耐えない夫婦だったが、私には真似できないほど子供たちを愛してくれた。
そう、私にはできない。
できないと思う。
海で子供たちを喜ばせ、安心させることすらも。
この歌詞の主人公もきっと同じ気持ちなんではなかろうか。
自分の描いている幸せと、自分のために老いた両親の姿に不協和音を感じるから、「両親の人生が二度あれば…」などと思うんだろう。
「子供たちが元気でいることがパパとママのの幸せ」
その言葉に甘えて、私は親孝行らしいことはまだしていない。
まだどころか、何が親孝行なのかすら模索中だ。
こんな子供のために、色々ごめんね…と思ってしまう。
人生が二度あれば、両親はもう一度の人生をどのように生きるだろう。
できれば、もう一度の人生の方も、私たちの両親でいてほしい。
「人生が二度あれば」(井上陽水)
父は今年二月で 六十五
顔のシワはふえて ゆくばかり
仕事に追われ
このごろやっと ゆとりが出来た
父の湯飲み茶碗は 欠けている
それにお茶を入れて 飲んでいる
湯飲みに写る
自分の顔を じっと見ている
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
母は今年九月で 六十四
子供だけの為に 年とった
母の細い手
つけもの石を 持ち上げている
そんな母を見てると 人生が
だれの為にあるのか わからない
子供を育て
家族の為に 年老いた母
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
父と母がこたつで お茶を飲み
若い頃の事を 話し合う
想い出してる
夢見るように 夢見るように
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
この人生が