会社帰りに祖母の見舞いに行った。
実は、昨年の春から父方の祖母は膵臓癌を患っている。
余命期限を昨年秋に越え、その後は入退院を繰り返していた。
東京の我が家と実家の中間地点にある病院に入院していて、土日、私は度々見舞いに訪れていたんである。
ここに記載しなかったのは、祖母がこの世からいなくなるということを考えたくなかったから。
祖母とは、私が5歳の頃から17年間、同居していた。彼女が実の娘と暮らすようになってからは、正直、あまり会っていなかった。
明治生まれで気が強い祖母。負けず嫌いでプライドが高かった。90歳を過ぎてもスカートを履き、化粧を欠かさなかったんである。
お嬢様育ちで美食家。もう、それはそれは姫だった。
そして典型的なB型だった。
私が我が儘を言ったり切れたりしても、
「ふふふ…ん?」
「そうかい?ふふ」
みたいな感じで笑顔スルーをする処世術…今思うと、憎しみよりも懐かしさを感じる。
第三者から見たら
「95歳?大往生じゃん」
と思われるだろうが、私たち家族にとっては、祖母は一緒に暮らしていた大切な仲間なんである。
この一週間はかなり様態が悪くて、母からの携帯の着信がある度にドキドキしている。
「痛い。死にたい。ごめんね、先に逝くね」
気の強い祖母が伯母にそんなことを漏らしたのは先日のことである。
「もう少し、待っててよ」
伯母(長女)がそう答えると、
「待てないよ。痛くて」
と…。
それを聞いたとき、私は泣かなかった。
でも、どうしてだろう。
今日一日、仕事に集中したにも関わらず、残業になりそうな雰囲気に少なからず動揺をしたり、いつもならば優雅に歩くのに、今日はダッシュで駅に向かっていた。
薄暗い道路の脇に散り行く桜。
それを祖母の命と重ねようとしてしまう刹那、涙が出てきた。
ぐっと堪えるが、涙が次々と溢れてきては頬を伝う。
桜がぼやけて見える。
「待ってろ、おばちゃん。今行くからね!」
来た電車に泣きながらすぐに飛び乗った。
中学時代、私は生徒手帳を紛失して大騒ぎをした。
大雨の中、近所周辺を一緒に探してくれた祖母。
丸まった腰を屈めて道を隈無く探してくれた姿をを思い出すと、窓ガラスに映る私の顔はすぐに歪んでしまう。
小一時間で病院に到着した。
父と伯母(次女)が来ていた。
挨拶をして、祖母に歩み寄る。
「おばちゃん。亮子だよ?わかる?ヨーコ(母)じゃないよ?」
と耳元で言ったが、もう話もできない状態だった。
ただ、目だけが軽く動いていた。
疎らに生えている睫毛がしっとりと濡れているのを確認し、私は祖母の手を握った。
それは先週末に握ったときよりも浮腫んでいて、祖母が遠くに行ってしまうことを暗示しているように思えた。
肩で息をする様子も痛々しい。
堪えようとしても、涙が流れてくる。
握った手に私の鼻水が垂れたとき、少しだけ祖母の手が動いた。
それからのことはよく覚えていない。
悲しくて苦しくて、切なかった。
栃木に帰る父と病院近くで食事をした。
祖母も辛いと思うが、父も辛いと思う。
「できるだけサポートすっから」
父にそう告げた。
30年で、父と初めて本音を話し合った時間。
それからあとは祖母の元気だった頃の話をした。
父曰く、祖母は若い主治医に恋をしていたらしい。
今日の主治医はああだった、こうだったということを、まだ元気だった先日まではよく話していたとのこと。
ネットで祖母の主治医を検索したら、なかなかのイケメンではないか。
そうか。
歯医者に萌える私の血は、祖母譲りだったのか!
95歳になっても、乙女な祖母。
自分の親は100歳でも120歳でも生きていて欲しいという父の本音。
もうすぐ祖母は強いモルヒネを投与される。
投与され始めたら意識が朦朧としてしまうらしい。
「おばちゃん」という人格が、私の知らないものになる。
それを思うと辛い。
辛い。
辛いよ。
どうか。
おばちゃんから痛みを取り除いてほしい。
そして、私のこの気持ちにモルヒネを…。
実は、昨年の春から父方の祖母は膵臓癌を患っている。
余命期限を昨年秋に越え、その後は入退院を繰り返していた。
東京の我が家と実家の中間地点にある病院に入院していて、土日、私は度々見舞いに訪れていたんである。
ここに記載しなかったのは、祖母がこの世からいなくなるということを考えたくなかったから。
祖母とは、私が5歳の頃から17年間、同居していた。彼女が実の娘と暮らすようになってからは、正直、あまり会っていなかった。
明治生まれで気が強い祖母。負けず嫌いでプライドが高かった。90歳を過ぎてもスカートを履き、化粧を欠かさなかったんである。
お嬢様育ちで美食家。もう、それはそれは姫だった。
そして典型的なB型だった。
私が我が儘を言ったり切れたりしても、
「ふふふ…ん?」
「そうかい?ふふ」
みたいな感じで笑顔スルーをする処世術…今思うと、憎しみよりも懐かしさを感じる。
第三者から見たら
「95歳?大往生じゃん」
と思われるだろうが、私たち家族にとっては、祖母は一緒に暮らしていた大切な仲間なんである。
この一週間はかなり様態が悪くて、母からの携帯の着信がある度にドキドキしている。
「痛い。死にたい。ごめんね、先に逝くね」
気の強い祖母が伯母にそんなことを漏らしたのは先日のことである。
「もう少し、待っててよ」
伯母(長女)がそう答えると、
「待てないよ。痛くて」
と…。
それを聞いたとき、私は泣かなかった。
でも、どうしてだろう。
今日一日、仕事に集中したにも関わらず、残業になりそうな雰囲気に少なからず動揺をしたり、いつもならば優雅に歩くのに、今日はダッシュで駅に向かっていた。
薄暗い道路の脇に散り行く桜。
それを祖母の命と重ねようとしてしまう刹那、涙が出てきた。
ぐっと堪えるが、涙が次々と溢れてきては頬を伝う。
桜がぼやけて見える。
「待ってろ、おばちゃん。今行くからね!」
来た電車に泣きながらすぐに飛び乗った。
中学時代、私は生徒手帳を紛失して大騒ぎをした。
大雨の中、近所周辺を一緒に探してくれた祖母。
丸まった腰を屈めて道を隈無く探してくれた姿をを思い出すと、窓ガラスに映る私の顔はすぐに歪んでしまう。
小一時間で病院に到着した。
父と伯母(次女)が来ていた。
挨拶をして、祖母に歩み寄る。
「おばちゃん。亮子だよ?わかる?ヨーコ(母)じゃないよ?」
と耳元で言ったが、もう話もできない状態だった。
ただ、目だけが軽く動いていた。
疎らに生えている睫毛がしっとりと濡れているのを確認し、私は祖母の手を握った。
それは先週末に握ったときよりも浮腫んでいて、祖母が遠くに行ってしまうことを暗示しているように思えた。
肩で息をする様子も痛々しい。
堪えようとしても、涙が流れてくる。
握った手に私の鼻水が垂れたとき、少しだけ祖母の手が動いた。
それからのことはよく覚えていない。
悲しくて苦しくて、切なかった。
栃木に帰る父と病院近くで食事をした。
祖母も辛いと思うが、父も辛いと思う。
「できるだけサポートすっから」
父にそう告げた。
30年で、父と初めて本音を話し合った時間。
それからあとは祖母の元気だった頃の話をした。
父曰く、祖母は若い主治医に恋をしていたらしい。
今日の主治医はああだった、こうだったということを、まだ元気だった先日まではよく話していたとのこと。
ネットで祖母の主治医を検索したら、なかなかのイケメンではないか。
そうか。
歯医者に萌える私の血は、祖母譲りだったのか!
95歳になっても、乙女な祖母。
自分の親は100歳でも120歳でも生きていて欲しいという父の本音。
もうすぐ祖母は強いモルヒネを投与される。
投与され始めたら意識が朦朧としてしまうらしい。
「おばちゃん」という人格が、私の知らないものになる。
それを思うと辛い。
辛い。
辛いよ。
どうか。
おばちゃんから痛みを取り除いてほしい。
そして、私のこの気持ちにモルヒネを…。