《本当の悪は――罪は――。愛する人を悲しませることだ。》
昨夜、ブログを更新したあと、一気に最後まで読んだ嶽本野ばら先生の小説、「タイマ」 。(ネタバレあり)
最後の20頁では、1行読む度に涙が溢れ、1頁に1つぐらい、私がこれから生きる上で糧になるような言葉(野ばら節)が綴られていた。
大麻を使用して捕まった「僕」。
仮釈放された「僕」を待ち受けていたのは、恋人あい(ロリータでヌードダンサー)の悲惨な姿だった。
「先生だけ、ズルいんだもん!」
ラリラリになりながら、そう言うあい。
あいは、「僕」が捕まって連絡が取れない間に覚醒剤中毒になってしまっていたのだ(あいは、大麻と覚醒剤の違いがわからないで、とりあえず、覚醒剤に手を出した)。
やっと再会できたのに、今度はあいが捕まってしまう。
この辺からじわりじわり、涙腺が緩みっぱなし。
社会的見地からの薬物使用禁止の理由としての「自分をボロボロにしてしまう」「中毒になると他人に危害を加える可能性がある」「薬物は暴力団の資金源として活用される」といった事は重要なことだ。
しかしそれ以上に、「愛する者を悲しませる」という罪ほどの罪悪がこの世にあるだろうか。
嶽本先生は、本作品を書くことで、背負った罪を自分の一部だとして認めた。
少なくとも私にはそう思える。
逃げずに、自分の罪を認めるということはとても勇気がいることだ。
反省文ならいくらでも書けたであろう。
しかし、それ以上に、彼はあの事件で得た新たな視線を事件前と同様、巧みな文回りと緻密な伏線で描いた。
小説で泣いたのは
「ツ、イ、ラ、ク」(姫野カオルコ先生)
「花」(林真理子先生)
に引き続き、本作品が三冊目。
最後の頁にポストカードが付いていた。
「うさくみゃ」といって、作中にも出てきた。
BABY,THE STARS SHINE BRIGHT(ロリータさん御用達のメゾン)のキャラクターらしい。
うさぎみみを被ったクマとのこと。
可愛い。
このリュックが販売されているんだが、実に欲しい。
でも、躊躇してしまう三十路の私。
あと10年若くて、あいのように二十歳だったら…確実に購入していたであろうが。
昨夜、ブログを更新したあと、一気に最後まで読んだ嶽本野ばら先生の小説、「タイマ」 。(ネタバレあり)
最後の20頁では、1行読む度に涙が溢れ、1頁に1つぐらい、私がこれから生きる上で糧になるような言葉(野ばら節)が綴られていた。
大麻を使用して捕まった「僕」。
仮釈放された「僕」を待ち受けていたのは、恋人あい(ロリータでヌードダンサー)の悲惨な姿だった。
「先生だけ、ズルいんだもん!」
ラリラリになりながら、そう言うあい。
あいは、「僕」が捕まって連絡が取れない間に覚醒剤中毒になってしまっていたのだ(あいは、大麻と覚醒剤の違いがわからないで、とりあえず、覚醒剤に手を出した)。
やっと再会できたのに、今度はあいが捕まってしまう。
この辺からじわりじわり、涙腺が緩みっぱなし。
社会的見地からの薬物使用禁止の理由としての「自分をボロボロにしてしまう」「中毒になると他人に危害を加える可能性がある」「薬物は暴力団の資金源として活用される」といった事は重要なことだ。
しかしそれ以上に、「愛する者を悲しませる」という罪ほどの罪悪がこの世にあるだろうか。
嶽本先生は、本作品を書くことで、背負った罪を自分の一部だとして認めた。
少なくとも私にはそう思える。
逃げずに、自分の罪を認めるということはとても勇気がいることだ。
反省文ならいくらでも書けたであろう。
しかし、それ以上に、彼はあの事件で得た新たな視線を事件前と同様、巧みな文回りと緻密な伏線で描いた。
小説で泣いたのは
「ツ、イ、ラ、ク」(姫野カオルコ先生)
「花」(林真理子先生)
に引き続き、本作品が三冊目。
最後の頁にポストカードが付いていた。
「うさくみゃ」といって、作中にも出てきた。
BABY,THE STARS SHINE BRIGHT(ロリータさん御用達のメゾン)のキャラクターらしい。
うさぎみみを被ったクマとのこと。
可愛い。
このリュックが販売されているんだが、実に欲しい。
でも、躊躇してしまう三十路の私。
あと10年若くて、あいのように二十歳だったら…確実に購入していたであろうが。