今日は、父の「田舎に帰りたい病」が、サクレツ~!
朝から、とってもとっても困り果てた・・・。
まさに「針の莚(むしろ)」である。
先の土曜日(17日)に、担当のヘルパーさんが家事援助訪問を忘れてしまって、
ドタキャンになってしまっていた。(夜は来てくれたが・・・)
それによって父は昼食が食べられず、それも少しばかり影響しているようだ。
私のことを、あれから「うそつきだなぁ~(蔑)」と繰り返している。
「うそつき」というのは、「来てくれる⇒来てくれなかった」という事実(裏切り)から
それを伝達した私が“嘘をついた”ことになっている。
父の中では、“私の嘘”が、何よりも酷い行為として浮き彫りになっているのだ。
また、認知症の父は、(帰省日は何度も伝えてあるものの)それを忘れてしまう。
それもまた、私が「うそつき」になる“大きな原因”になる。
実際、帰省日を勘違いしているので、私が事実を伝えることになるのだが・・・
父は、ダマシのテクニックで、再び“嘘をつかれている”と解釈してしまうようだ。
たとえ納得しても、翌日には再び「今日帰る」という気持ちに変化している。
「今日、帰れるんだ」という意識のまま、「帰れない」という事実に強く反発してしまう。
「何故帰れないのか・・・」などは、娘の勝手な都合であり、父にとっては論外である。
それはそれで当然のことであり、私が責められても“仕方がない”ことではある。
父は、私のことを「うそつき」「たぬき」と罵倒して、とにかく「言うことが変わる」と
強く抗議をしてくる。
今日は、昼ごはんも食べず・・・
「たぬきのメシを食べたら、化かされる!」と、怒鳴り散らした。
我が父ながら、“うまく言うなぁ”と深く感心してしまったが・・・
その一方で、私は常に・・・父の表情を見て、様子をうかがう。
「たぬき・・・・・・かぁ」
父の“勝手な思い込み”は、どんどん拍車がかかっている。
穏やかだったり、興奮状態だったり・・・
私自身もギャンブルに手を染めているような感覚になってきた。
何よりも困るのは、どなりちらすので、“近所迷惑にならないか”と心配になってくる。
父は、時間の流れも理解しなくなって、昨日のことの半分以上は記憶していないようだ。
毎日「これから帰る」という気分を繰り返すので、私は連日のように苦境に立たされる。
「ツライ」と、しみじみ思う。
過激に攻撃されるからだ。執拗に言われるからだ。
そりゃ帰れるのなら、すぐにでも連れて帰ってあげたいけれど、私だって
少しは仕事もしなくちゃいけないし、約束したことがあれば守らなければならないし、
やはり“いろいろなこと”を抱えてしまっているものである。
そんな時、本当に「こんな境遇をのろいたくなるし、逃げ出したくなる・・・」。
「ふぅ」
ため息がこぼれる。
でも・・・
最近は・・・・・ここで“ひとふんばりする”のが、「私流」になってきた。
(“やっとこさ”だけど)
ひとふんばりする理由は、非常に簡単である。
「自分の精神が破綻するから」・・・まさに「破綻するのを避けるため」なのだ。
これまでもそうだったし、きっとこれからだってそうだろう・・・。
私が潜在的に抱えている感情は、複雑でドロドロで、とぐろを巻いたような醜さである。
「なんで私は、こんな目にあわなければならないんだろう?」
「すごく辛くて、哀しい」
「私が何をしたというのだ?」
「これは、何かの罰なの?」
「いつまでこんな生活が続くのだろう」
「これでも、一生懸命やっているんだけれどなぁ」
「頑張っているつもりだけど、なんで報われないの?」
「どうして分かってくれないの?」
「何がいけなかったのだろう?」
過去の事実にとらわれ、自己を責めて、根拠のない不安と闘ってしまうのだ。
自分の思うようにならない現実に、縛られきって・・・げんなりとして落胆してしまう。
そうして、希望を失い、ぐったりと疲れてしまうのだ。
「現状を打開するためには、何が必要なのだろう?」などという前向きな想いが
浮かんでくる余地は、全くない・・・。
余裕がないんだ。
悩むのは良いとしても、苦難に向き合うのも良いとしても・・・
過ぎ去った過去にとらわれて、後悔や自己否定(批判)に走るのは、本意ではない。
様々なケースに該当することだが、「必然でもないのに、必然として受け容れる」のと、
「必然なのに、反抗してしまう」のは、それぞれに“ある問題”をはらんでいる。
人間は、容易に迷ってしまうものだ。
必然でないものを受け容れて、可能なことまでも否定してしまったり、
必然を否定して、不可能を望んだりしてしまう。
現実を見極めて、このあたりの微妙な流れを見分けることこそ、大切なのだと思う。
そのキーポイントになるのが、その人の「理性」なのかもしれない。
私の場合は、とにかく・・・まだ迷っている。
いろいろなことが、見えていない。
だからこそ、もう少し「現実の辛さ」から距離を置いてみる必要性を感じたのだ。
客観的に、「現状」と「我が身」を捉えてみたい。
だから、ほんの短時間だけだけど、時間の流れを(意図的に)止めてみるようになった。
そうすると、現状の感情に「ふりまわされる感」が、多少は薄くなっていくようだ。
でも、正直言うと、泣き疲れただけかもしれない・・・とも思うけれど・・・
たとえそうだったとしても、おそらく違った側面が見えてくるような予感がしている。
「来年の私自身に、期待しよう!」 ・・・・希望だけは失くしたくない。
朝から、とってもとっても困り果てた・・・。
まさに「針の莚(むしろ)」である。
先の土曜日(17日)に、担当のヘルパーさんが家事援助訪問を忘れてしまって、
ドタキャンになってしまっていた。(夜は来てくれたが・・・)
それによって父は昼食が食べられず、それも少しばかり影響しているようだ。
私のことを、あれから「うそつきだなぁ~(蔑)」と繰り返している。
「うそつき」というのは、「来てくれる⇒来てくれなかった」という事実(裏切り)から
それを伝達した私が“嘘をついた”ことになっている。
父の中では、“私の嘘”が、何よりも酷い行為として浮き彫りになっているのだ。
また、認知症の父は、(帰省日は何度も伝えてあるものの)それを忘れてしまう。
それもまた、私が「うそつき」になる“大きな原因”になる。
実際、帰省日を勘違いしているので、私が事実を伝えることになるのだが・・・
父は、ダマシのテクニックで、再び“嘘をつかれている”と解釈してしまうようだ。
たとえ納得しても、翌日には再び「今日帰る」という気持ちに変化している。
「今日、帰れるんだ」という意識のまま、「帰れない」という事実に強く反発してしまう。
「何故帰れないのか・・・」などは、娘の勝手な都合であり、父にとっては論外である。
それはそれで当然のことであり、私が責められても“仕方がない”ことではある。
父は、私のことを「うそつき」「たぬき」と罵倒して、とにかく「言うことが変わる」と
強く抗議をしてくる。
今日は、昼ごはんも食べず・・・
「たぬきのメシを食べたら、化かされる!」と、怒鳴り散らした。
我が父ながら、“うまく言うなぁ”と深く感心してしまったが・・・
その一方で、私は常に・・・父の表情を見て、様子をうかがう。
「たぬき・・・・・・かぁ」
父の“勝手な思い込み”は、どんどん拍車がかかっている。
穏やかだったり、興奮状態だったり・・・
私自身もギャンブルに手を染めているような感覚になってきた。
何よりも困るのは、どなりちらすので、“近所迷惑にならないか”と心配になってくる。
父は、時間の流れも理解しなくなって、昨日のことの半分以上は記憶していないようだ。
毎日「これから帰る」という気分を繰り返すので、私は連日のように苦境に立たされる。
「ツライ」と、しみじみ思う。
過激に攻撃されるからだ。執拗に言われるからだ。
そりゃ帰れるのなら、すぐにでも連れて帰ってあげたいけれど、私だって
少しは仕事もしなくちゃいけないし、約束したことがあれば守らなければならないし、
やはり“いろいろなこと”を抱えてしまっているものである。
そんな時、本当に「こんな境遇をのろいたくなるし、逃げ出したくなる・・・」。
「ふぅ」
ため息がこぼれる。
でも・・・
最近は・・・・・ここで“ひとふんばりする”のが、「私流」になってきた。
(“やっとこさ”だけど)
ひとふんばりする理由は、非常に簡単である。
「自分の精神が破綻するから」・・・まさに「破綻するのを避けるため」なのだ。
これまでもそうだったし、きっとこれからだってそうだろう・・・。
私が潜在的に抱えている感情は、複雑でドロドロで、とぐろを巻いたような醜さである。
「なんで私は、こんな目にあわなければならないんだろう?」
「すごく辛くて、哀しい」
「私が何をしたというのだ?」
「これは、何かの罰なの?」
「いつまでこんな生活が続くのだろう」
「これでも、一生懸命やっているんだけれどなぁ」
「頑張っているつもりだけど、なんで報われないの?」
「どうして分かってくれないの?」
「何がいけなかったのだろう?」
過去の事実にとらわれ、自己を責めて、根拠のない不安と闘ってしまうのだ。
自分の思うようにならない現実に、縛られきって・・・げんなりとして落胆してしまう。
そうして、希望を失い、ぐったりと疲れてしまうのだ。
「現状を打開するためには、何が必要なのだろう?」などという前向きな想いが
浮かんでくる余地は、全くない・・・。
余裕がないんだ。
悩むのは良いとしても、苦難に向き合うのも良いとしても・・・
過ぎ去った過去にとらわれて、後悔や自己否定(批判)に走るのは、本意ではない。
様々なケースに該当することだが、「必然でもないのに、必然として受け容れる」のと、
「必然なのに、反抗してしまう」のは、それぞれに“ある問題”をはらんでいる。
人間は、容易に迷ってしまうものだ。
必然でないものを受け容れて、可能なことまでも否定してしまったり、
必然を否定して、不可能を望んだりしてしまう。
現実を見極めて、このあたりの微妙な流れを見分けることこそ、大切なのだと思う。
そのキーポイントになるのが、その人の「理性」なのかもしれない。
私の場合は、とにかく・・・まだ迷っている。
いろいろなことが、見えていない。
だからこそ、もう少し「現実の辛さ」から距離を置いてみる必要性を感じたのだ。
客観的に、「現状」と「我が身」を捉えてみたい。
だから、ほんの短時間だけだけど、時間の流れを(意図的に)止めてみるようになった。
そうすると、現状の感情に「ふりまわされる感」が、多少は薄くなっていくようだ。
でも、正直言うと、泣き疲れただけかもしれない・・・とも思うけれど・・・
たとえそうだったとしても、おそらく違った側面が見えてくるような予感がしている。
「来年の私自身に、期待しよう!」 ・・・・希望だけは失くしたくない。