西部地区のレトロ建築探訪は、これで最終回です。お付き合いありがとうございました。
伴田米穀店(弁天町6-11)<大正5年(1915年)築>
大正期に建てられた病院兼住宅で、現在は米穀店兼住宅として利用されている。外観は,下見板張りにペンキの塗装が施され、屋根下に胴蛇腹を廻し、窓はペディメント付きの窓枠で上げ下げ窓、正面玄関には洋風の切妻屋根を設けるなど、洋風で統一されている。
山内家住宅(船見町9-9)<大正11年(1922年)築>
常盤坂を上った角地に建つ住宅で,当初は網元の居宅として建てられたもの。
外壁は下見板張りで、1階部分は出窓、2階部分は縦長の上げ下げ窓で、建物全体は洋風でまとめられているが、正面の1階部分だけは和風の出格子窓となっていて、上下和洋折衷様式を取り入れています。また門柱や塀にも和風の要素が見られる。2階の上げ下げ窓や1階の出窓には井型の桟割が見られ、大正期らしい雰囲気をかもし出している。
旧ロシア領事館(船見町17-3)<明治41年(1908年)築>
幸坂の幅員が狭くなり、上り坂の勾配がさらに急になるところの右手に建つ。1964年に函館市が購入、「函館市立道南青年の家」となったが、1996年で廃止。現在は売却が検討されている。
赤煉瓦の外壁に、2階部分では縦横の太い縁取り、玄関部では隅石風に白漆喰(しっくい)が施され、赤と白のコントラストが印象的な建物となっている。坂側にある玄関には、寺院風の唐破風や組物を見せる柱頭などが取り入れられ、これら和風意匠との組み合わせが独特の雰囲気を持っている。屋根は、当初は瓦葺であったものが、現在は、鉄板葺になっている。
日本とロシアの国交は、安政元年(1854年)に始まり、安政5年には初代領事のゴスケヴィッチが着任している。この建物は、昭和20年までは領事館として使われていた。
◎過去記事~「旧ロシア領事館内部見学会」(2013,9,28)※一階部分だけですが、内部の様子が見られます。
山上大神宮(船見町15-1)<昭和5年(1930年)築>
幸坂を上り詰めたところにある神社で、景観形成指定建築物等の中では唯一の神社建築である。銅板葺きの神社建築で、棟梁只木実條によって昭和5年に竣工。
神社の草創は、函館の街が形成され始めた17世紀末までさかのぼるといわれ、当時は神明宮と称した。その後,当時の境内があった山之上町にちなみ、山上大神宮と名称を変更し、さらに1882年現在地に移転している。
東本願寺函館別院船見支院(船見町18-20)<大正15年(1926年)築>
船見町の一角の同じ通りに3つの寺院が建ち並ぶが、その東側の寺院。木造平屋建て。境内には、木造の水盤舎、石造の預骨堂がある。
この辺りは、寺域が接する高龍寺と共に、立ち並ぶ寺院群で、寺町とも呼ばれている。3寺の本堂の屋根が重なり合う姿は、弥生坂の途中から望見できるが、異国情緒豊かなこの地域のなかで、趣の異なる風景となっている。
実行寺(船見町18-18)<大正7年(1918年)築>
3つの真ん中に建つ寺院。入母屋瓦葺の土蔵造の寺院。正面に唐破風の向背を見せている。
称名寺(船見町18-14)<昭和4年(1929年)築>
3つの寺院の西端に建つ寺院。市内では、東本願寺函館別院に次ぐ鉄筋コンクリート造の寺院。
これらの3つの寺は富岡町(現弥生町)にあったものだが、明治12年の大火後の街区改正に伴い、現在地に移転されたもので、その後、明治40年の大火にも見舞われ、現存しているのはその後に建てられたものである。
高龍寺・本堂(船見町21-1~3)<明治33年(1900年)築>
国登録有形文化財(平成24年登録)で、本堂をはじめ諸堂がコの字型に配置された伽藍が整い、船見町寺町を代表する寺院となっている。
開基は、寛永10年(1633年)とされ、現在地には明治12年に移転している。寺院内には、明治後半から昭和初期の建物が数多く残され、本堂をはじめ9件が景観形成指定建築物等に指定されている。
本堂は,入母屋瓦葺屋根とその下に裳階(もこし:庇状の部分)が正面から側面にかけてまわされている。総ケヤキ造りで、越後衆の工人達によって竣工。
高龍寺・山門(船見町21-1)<明治43年(1910年)築>
国登録有形文化財(平成24年登録)で、山門は、前後に4本の柱を立てる八脚門で、入母屋瓦葺の屋根をかけ、装飾性が豊かで非常に複雑な飾り彫刻が随所に施されている。
高龍寺(そのほかの国登録有形文化財・景観形成指定建築物)
(左上)金比羅堂<大正4年>、(右上)水盤舎<大正4年>、(左下)位牌堂<昭和8年>、(右下)開山堂<明治32年>
(左上)宝蔵<大正5年>、(右上)鐘楼<大正11年>、(下)袖垣・防火壁<明治43年>
ティーショップ夕日(旧函館検疫所台町措置場)(船見町25-18)<明治18年(1885年))築>
外人墓地の奥に、函館港の北側を向いて建っている。明治18年(1885年)内務省の決定により、当時の主要6港(函館、横浜、神戸、下関、長崎、新潟)に常設の消毒所が建設されたが、この建物は消毒所の事務所として建設されたものである。
9間×6間の木造平屋建ての建物で、軒先に蛇腹を廻し、妻面や背面の上げ下げ窓は両開きの鎧戸を付け、笠木のみで窓台を持たない単純な額縁形式で、初期洋風建築の様式を伝えている。
正面入口両側には廊下を下屋として付設し、両端に戸袋を付けたガラス戸を建て込んで、在来の縁側的な処理が見られる。建物の性格上、装飾性の少ない建物だが、全国的に数少ない初期港湾施設の遺構といえる。
過去記事~古民家カフェ「ティーショップ夕日」(2019,9,20)※内部のようすをどうぞ!
西部地区の「レトロ建築探訪シリーズ」はこれで終了しますが、下記過去記事もどうぞ!