市電の函館どつく前電停そばにある厳島神社・・・古くから海の守護神として、海上の安全を祈願する漁業者や商人から信頼を得ている。函館山七福神の神社で「弁財天・恵比寿堂」がある。
この神社を訪ねる気になったのは、境内には寄進された古くて貴重な遺物が多いこと、特にその中で、興味を抱いたのは、歴史の浅い北海道ではほとんど見られない道祖神らしきものがあり、それも、珍しい形をしているということだった。
天候も良いので、MTBに跨って、サイクリングがてらこの厳島神社と入舟町界隈を巡ってきた。
この神社の創建は江戸時代前期といわれ、以前は弁天社と称されていた。弁天社は1871(明治4)年に市杵島(いちきしま)神社と改められ、のちに厳島神社と改称された。
何度か場所を変え、一時は海中に島をつくって祀った時代もあるらしいが、幕末に現在地に移っている。現在の建物は1907(明治40)年の大火後、大正時代に建てられたもの。現在、目の前には道路があり、路面電車や多くの車が走っているが、古地図を見ると、神社の前は海だったようだ。海上の安全を祈願する船乗りたちのため、陸に背を向け海に向いて建っていたことがわかる。
境内に入ってすぐ右手には、龍と鷹?が設置された手水石鉢・・・これは文政6(1823)年寄進と彫られている。願主 伊達氏 栖原氏とあり、当時の場所請負人の名前らしい。
左手には、昔の錨と、なぜか92式7粍7機銃(留式7.7mm機銃)が祀られている。台座には、「港祭記念昭和十年七月一日」とあり、寄進は、「函館西部共助会料理屋一同」となっている。
鳥居手前の右にある、天保9年(1838年)寄進の手水石鉢・・・「大坂 昆布屋 回舩中」と彫られているところを見ると、大阪の昆布商人の廻船主が寄進したものであろう。
1837(天保8)年に加賀の廻船主たちが寄進した鳥居
鳥居の右横にある、1854(嘉永7)年、海上安全のため奉納された「方位石」~寄進者は「當所大町 米屋平松 金膳丸喜左衛門」となっている。
鳥居を潜ると、左側に、今回の一番の目的だった道祖神?~稲荷社~弁財天・恵比寿堂と3つの社が並ぶ。
今回、この神社に来るきっかけとなったのは、この「道祖神?」だ。双胴体神の和合像もあるくらいだから、道祖神と言われても不思議はない。
本州の旧街道歩きでは、いやというほど目にする道祖神だが、村境や辻に多く祀られ、疫病や悪霊の入り込むのを防ぎ、地域の人々を守る神様とされ、「道の神」として多くの旅人の信仰も厚かった。また、自然石のご神体から双胴体神の和合像などがあり、「縁結びの神」「生産の神」として崇められてきた。
これが道祖神なら、妙に艶っぽいし、ピカソ的な?芸術的デフォルメが気になる。良く見ると、どちらも女性のようにも見えなくもないが・・・?
そこで、社務所に入って、宮司さんに聞いてみた。「日吉町の人が、家を建てようとして、基礎を掘ったら、出てきたもので、形が神仏関係っぽい感じがしたので、捨てるわけにもいかず、この神社に持ってきたそうです。当初は境内の隅に転がしておいたが、ある時にスポーツ新聞にこれと似た感じの道祖神が掲載されていたので、もしかしたら、これもそうなのではないかと思って祀り直しました。これが出た辺りは、昔の湯の川村と函館市の境界付近なので、その付近に道があって、そこに祀られていたのかも知れませんね。」とのこと。この厳島神社では安産や縁結びの神として祀っているとのこと。
なお、左のものは、動物や鳥が彫られているようだが、宮司さんも何か不明とのこと。
弁財天・恵比寿堂の中の弁天さんと恵比寿さん
あまり目にしたことのいない珍しいタイプの狛犬・・玉乗りタイプというらしい。慶応4(1968)年、北前船主の奉納。
天水桶(雨水を貯める桶)・・・、「明治35年8月 寄進人 高岡市金屋町 金森・・・」とある。高岡は鋳物の産地なので、そこの鋳物師の作例であろうか?
自分が一番見たかった道祖神以外の、これらの多くの遺物の寄進主や年号を見ても、古くから海の守護神として、地元漁業者のみならず、北前船関係の松前をはじめ、遠くは北陸、大阪などの商人の尊信を得ていたことがうかがえる。
※このあと巡った「入舟町界隈探訪」は後日紹介予定。