今年一月、燐光群は、清水弥生の新作『 Summer House After Wedding 』を上演した。
劇中に現れる、フィリピン人の母親が日本に来て子供を産み、その後母国に戻ることを余儀なくされるケースについて、私たちは詳細に知ろうとした。
昨年、日本で、フィリピンで、多くの人々に取材した。思いがけない事実の連続に、茫然としたものだ。
この六月末、日本で生まれ育ち、甲府市の高校に通っている高校2年生・十六歳のタイ人の男子生徒が、「自分の故郷は日本。普通に生活し、勉強したい」と訴え、共に暮らしている母親とともに受けた法務省入国管理局の強制退去処分の取り消しを求めた裁判で、東京地方裁判所が、暮らしたことのないタイに送還されると彼の生活が困難になることは認めた一方、「日本で養育できる人がいない」として、訴えを退ける判決を言い渡したというニュースが、飛び込んできた。
この男子生徒は母親が不法滞在だったため在留資格がなく、3年前に東京入国管理局に出頭し日本で暮らす在留特別許可を求めたが認められず、2人とも強制退去の処分を受けている。
私は、日本が、この国で生まれ育ち「日本は母国」という自覚を持つ若者を拒む狭量な国であるということに、いたたまれない思いを持つ。
参院選を前にあらためて、一人一人の人間を尊重せず、国民より「国家」を優先しようとする人たちが跋扈している現実について、まざまざと思い知らされている。
彼らは、「人間があってこその国」であるという当たり前のことについて、思いが及ばないのではないか。
フィリピンから来た母とその子らの苦労もなみなみならぬものだったが、タイから来た女性とその子供の場合でも同様なのだ。
もちろんそうであることは知っていたが、じっさいに厳しい判決を受けた母子の心中を思うと、本当に心苦しい。
清水弥生と私たちのチームはこの夏、このテーマも含んだ取材で、タイに行くことを計画している。
中東の戦禍により膨大な数となっている難民の問題、EU経由の移民を拒んでEU離脱を国民投票で決めた英国の判断などの現実を見ていくと、日本という国が海外から来た人たちを受け入れることができるかどうかというのは、国際的に見ても、もはや無視できない課題である。
備忘録も兼ねて、共同通信等による今回の報道をまとめてみる。
この男子生徒の母親が来日したのは1995年9月。タイ人ブローカーに「日本で飲食店の仕事を紹介する」と言われていたが、実際は違った。日本各地で意に沿わない仕事を強要され、やがて不法滞在となった。
ブローカーが入管に摘発された後、山梨県に移住。一緒に暮らすようになったタイ人男性との間に男子生徒が生まれた。その後、男性と別れた母親は不法滞在の発覚を恐れ、男子生徒を連れて山梨県や長野県、愛知県などを転々とした。そのため男子生徒は幼少期、家の中で隠れるように過ごす日々を送り、小学校に通えなかった。
学校に通いたいと思った彼は11歳のころ、甲府市の在日外国人人権団体「オアシス」に相談。オアシスが教育委員会と交渉し、2013年4月に甲府市の中学2年に編入した。
日本で暮らし続けたいと13年夏に在留特別許可を申請したが、昨年8月に退去強制処分となり、現在は仮放免となったままでの暮らしが続いたという。
男子生徒は日本から出たことがなく、タイ語の読み書きはできない。オアシスの山崎俊二事務局長は「親が不法滞在でも子は生まれた場所で暮らす権利がある。それを実現させるのが社会の責任。行ったこともない国にいきなり住めと言うのは乱暴で、人道的措置が必要だ」と訴えていた。
訴状で男子生徒らは、法務省が公表したガイドラインでは、人身取引被害や日本への定着性などは在留特別許可を求める外国人に有利な条件になるとして「退去処分がガイドラインに反しているのは明らかだ」と主張している。
男子生徒は「日本で生まれたこと自体が悪いみたいで悔しい。自分は日本しか知らない。日本で勉強を続け、立派な大人になり、まじめに働きたい」と話していた。
この訴訟に携わる児玉晃一弁護士は「同じようなケースで、いくらでも在留許可が得られた事例があり、この処分は絶対におかしい」としている。
ではなぜこんな結果に? 何かの見せしめなのか。新たな「前例」を作っておこうということなのか。
決して本人の責任ではない事情で、タイで暮らすのが難しいことが明白である以上、処分の取り消しを求めるのは当然のことである。
しかし30日の判決で東京地方裁判所の岩井伸晃裁判長は、母親については「タイに戻っても生活に特段の支障はない」と指摘、一方、男子生徒については、暮らしたことのないタイでは生活が困難になることは認めたものの、「退去させられる母親の代わりに日本で養育できる人がいない」として、いずれも訴えを退けた。
男子生徒は「故郷は日本。日本しか知らない。タイに居場所はありません。支えてくれる人や友だちがたくさんいる日本にいさせてください」と訴え、控訴する考えを示したという。
日本は、この国への思いのある若者一人を「養育」することさえ、できないのか。
本人が法廷で述べた意見陳述は、以下の通り。
============================
僕は平成12年1月21日に、甲府で生まれました。お父さんの記憶も、甲府に居たという記憶もありません。お母さんと一緒にあちらこちらで暮らし、11歳になる少し前に甲府に引っ越して来ました。甲府ではオアシスというボランティアの団体がやっている「子ども会」に通い始めました。子ども会の人たちは、僕を学校に入れようと勉強を教えてくれました。色々なことを知ることができうれしかったです。週に3日から4日、1日2時間ほどの勉強でしたが、お蔭で、少しずつ集団にも慣れ勉強も楽しくなっていきました。子ども会がある日は必ず参加しました。学校に行っても、授業がなんとか理解できるくらいの学力がついてきたことと、子ども会に来ている他の子どもたちとも話ができるようになってきたことから、入学の手続きを進めることになり、初めて自分に日本国籍がないことを知りました。お母さんの友達のタイ人の女の人の子どもたちは、みんな日本人だったので僕も自分は日本人だと思っていました。本当に驚きでした。
13歳の時、甲府市の教育委員会に行って話し合い、南西中学校の2年生に入学させてもらうことになりました。南西中の先生も、同級生も僕にいろいろ気を使ってくれました。本当の意味で友達ができたのはオアシス子ども会と南西中に行ってからだと思います。勉強して言葉の色々な意味が解るようになり、勉強が面白くなりました。それまでは言葉の意味が解らないことが多かったのです。本を読んだり、人と話をする中でどんどん言葉を覚えました。自分がどんどん変わって人生が豊かになってきました。もし学校に行かなければ、今回のように裁判もできず、ビザもないまま大きくなって、生活を続けることもできなかったと思います。本当にオアシスの人たちや甲府市の教育委員会の人たち、南西中学校の先生や友達に感謝しています。
学校の友達も増え、僕はバスケ部に入ったり、演劇をしたり、勉強したり本当に毎日が充実していました。
ですが、昨年の8月1日に、入管の人に突然「君とお母さんはタイに帰りなさい」ときつく言われて、頭の中が真っ白になりました。入管の人が他にも何か言っているのですが、頭に入ってきませんでした。何とかして家に帰ってオアシスの人に電話をしたときに泣きました。僕はどうしても納得できませんでした。悲しかった。僕は同級生に知られるのは恥ずかしいと思いましたが、皆の力を借りなければ裁判ができないと思うようになりました。同じ学年の生徒全員合唱練習の時にみんなの前で、僕の気持ちと裁判することを話しました。話終わって、みんなの方を見ると泣いてくれている友だちもいて、先生も泣いていました。そのあとすぐに友だちが「俺、駅に行って署名を集める」と言ってくれて本当にうれしかったです。みんなに助けを求めて本当に良かったと思いました。そうでないとみんなにうそをついて生きていくことになってしまったと思います。
同級生のお父さんやお母さん、それにオアシスの人たち、地域の人たちが集まって「裁判を支える会」を作ってくれました。3月28日にオアシス子ども会の友達と一緒に署名の数を確認しました。15000を超えていました。驚きと感謝の気持ちでいっぱいです。友だちや友だちのお父さんやお母さん、地域の人たちがいろんな催しをしてくれて集めた署名です。
僕は日本で生まれて育ったので日本のことしか知りません。タイには行ったこともなければ、友だちもいません。タイ語は話せるけど読んだり書いたりできません。どうして退去しなければならないのか納得できないのです。僕は特に甲府に来てから一生懸命頑張ってきたと思っています。どうして僕が日本に居られないのでしょうか?何か悪い事でもしたのでしょうか?何か悪いことをしたのなら、教えてほしいと思います。人はお父さんとお母さんを選ぶことができません。僕はお父さんを知りません。僕が生れたことは悪いことだったのでしょうか?僕は産んでくれたことを感謝しています。生んでもらって良かったし、友だちと楽しく、一生懸命生きていきたいと思っています。どうか僕のことを認めてほしいと思います。何も悪いことをしていないのに、なぜ罪があるように扱われるのでしょうか? 僕が日本で生まれたことが罪なのでしょうか? 僕は悔しいです。
どうか在留を許可してください。僕たちを認めてください。僕はまだ子どもで力が足りません。やっと高校に入ったばかりで、これからますます勉強をしなければなりません。どうか力を貸してください。僕は、勉強を続け、立派な大人になって、真面目にしっかり働いて、僕のように困ってる人がいたら手助けできる人になりたいと思います。お願いします。
劇中に現れる、フィリピン人の母親が日本に来て子供を産み、その後母国に戻ることを余儀なくされるケースについて、私たちは詳細に知ろうとした。
昨年、日本で、フィリピンで、多くの人々に取材した。思いがけない事実の連続に、茫然としたものだ。
この六月末、日本で生まれ育ち、甲府市の高校に通っている高校2年生・十六歳のタイ人の男子生徒が、「自分の故郷は日本。普通に生活し、勉強したい」と訴え、共に暮らしている母親とともに受けた法務省入国管理局の強制退去処分の取り消しを求めた裁判で、東京地方裁判所が、暮らしたことのないタイに送還されると彼の生活が困難になることは認めた一方、「日本で養育できる人がいない」として、訴えを退ける判決を言い渡したというニュースが、飛び込んできた。
この男子生徒は母親が不法滞在だったため在留資格がなく、3年前に東京入国管理局に出頭し日本で暮らす在留特別許可を求めたが認められず、2人とも強制退去の処分を受けている。
私は、日本が、この国で生まれ育ち「日本は母国」という自覚を持つ若者を拒む狭量な国であるということに、いたたまれない思いを持つ。
参院選を前にあらためて、一人一人の人間を尊重せず、国民より「国家」を優先しようとする人たちが跋扈している現実について、まざまざと思い知らされている。
彼らは、「人間があってこその国」であるという当たり前のことについて、思いが及ばないのではないか。
フィリピンから来た母とその子らの苦労もなみなみならぬものだったが、タイから来た女性とその子供の場合でも同様なのだ。
もちろんそうであることは知っていたが、じっさいに厳しい判決を受けた母子の心中を思うと、本当に心苦しい。
清水弥生と私たちのチームはこの夏、このテーマも含んだ取材で、タイに行くことを計画している。
中東の戦禍により膨大な数となっている難民の問題、EU経由の移民を拒んでEU離脱を国民投票で決めた英国の判断などの現実を見ていくと、日本という国が海外から来た人たちを受け入れることができるかどうかというのは、国際的に見ても、もはや無視できない課題である。
備忘録も兼ねて、共同通信等による今回の報道をまとめてみる。
この男子生徒の母親が来日したのは1995年9月。タイ人ブローカーに「日本で飲食店の仕事を紹介する」と言われていたが、実際は違った。日本各地で意に沿わない仕事を強要され、やがて不法滞在となった。
ブローカーが入管に摘発された後、山梨県に移住。一緒に暮らすようになったタイ人男性との間に男子生徒が生まれた。その後、男性と別れた母親は不法滞在の発覚を恐れ、男子生徒を連れて山梨県や長野県、愛知県などを転々とした。そのため男子生徒は幼少期、家の中で隠れるように過ごす日々を送り、小学校に通えなかった。
学校に通いたいと思った彼は11歳のころ、甲府市の在日外国人人権団体「オアシス」に相談。オアシスが教育委員会と交渉し、2013年4月に甲府市の中学2年に編入した。
日本で暮らし続けたいと13年夏に在留特別許可を申請したが、昨年8月に退去強制処分となり、現在は仮放免となったままでの暮らしが続いたという。
男子生徒は日本から出たことがなく、タイ語の読み書きはできない。オアシスの山崎俊二事務局長は「親が不法滞在でも子は生まれた場所で暮らす権利がある。それを実現させるのが社会の責任。行ったこともない国にいきなり住めと言うのは乱暴で、人道的措置が必要だ」と訴えていた。
訴状で男子生徒らは、法務省が公表したガイドラインでは、人身取引被害や日本への定着性などは在留特別許可を求める外国人に有利な条件になるとして「退去処分がガイドラインに反しているのは明らかだ」と主張している。
男子生徒は「日本で生まれたこと自体が悪いみたいで悔しい。自分は日本しか知らない。日本で勉強を続け、立派な大人になり、まじめに働きたい」と話していた。
この訴訟に携わる児玉晃一弁護士は「同じようなケースで、いくらでも在留許可が得られた事例があり、この処分は絶対におかしい」としている。
ではなぜこんな結果に? 何かの見せしめなのか。新たな「前例」を作っておこうということなのか。
決して本人の責任ではない事情で、タイで暮らすのが難しいことが明白である以上、処分の取り消しを求めるのは当然のことである。
しかし30日の判決で東京地方裁判所の岩井伸晃裁判長は、母親については「タイに戻っても生活に特段の支障はない」と指摘、一方、男子生徒については、暮らしたことのないタイでは生活が困難になることは認めたものの、「退去させられる母親の代わりに日本で養育できる人がいない」として、いずれも訴えを退けた。
男子生徒は「故郷は日本。日本しか知らない。タイに居場所はありません。支えてくれる人や友だちがたくさんいる日本にいさせてください」と訴え、控訴する考えを示したという。
日本は、この国への思いのある若者一人を「養育」することさえ、できないのか。
本人が法廷で述べた意見陳述は、以下の通り。
============================
僕は平成12年1月21日に、甲府で生まれました。お父さんの記憶も、甲府に居たという記憶もありません。お母さんと一緒にあちらこちらで暮らし、11歳になる少し前に甲府に引っ越して来ました。甲府ではオアシスというボランティアの団体がやっている「子ども会」に通い始めました。子ども会の人たちは、僕を学校に入れようと勉強を教えてくれました。色々なことを知ることができうれしかったです。週に3日から4日、1日2時間ほどの勉強でしたが、お蔭で、少しずつ集団にも慣れ勉強も楽しくなっていきました。子ども会がある日は必ず参加しました。学校に行っても、授業がなんとか理解できるくらいの学力がついてきたことと、子ども会に来ている他の子どもたちとも話ができるようになってきたことから、入学の手続きを進めることになり、初めて自分に日本国籍がないことを知りました。お母さんの友達のタイ人の女の人の子どもたちは、みんな日本人だったので僕も自分は日本人だと思っていました。本当に驚きでした。
13歳の時、甲府市の教育委員会に行って話し合い、南西中学校の2年生に入学させてもらうことになりました。南西中の先生も、同級生も僕にいろいろ気を使ってくれました。本当の意味で友達ができたのはオアシス子ども会と南西中に行ってからだと思います。勉強して言葉の色々な意味が解るようになり、勉強が面白くなりました。それまでは言葉の意味が解らないことが多かったのです。本を読んだり、人と話をする中でどんどん言葉を覚えました。自分がどんどん変わって人生が豊かになってきました。もし学校に行かなければ、今回のように裁判もできず、ビザもないまま大きくなって、生活を続けることもできなかったと思います。本当にオアシスの人たちや甲府市の教育委員会の人たち、南西中学校の先生や友達に感謝しています。
学校の友達も増え、僕はバスケ部に入ったり、演劇をしたり、勉強したり本当に毎日が充実していました。
ですが、昨年の8月1日に、入管の人に突然「君とお母さんはタイに帰りなさい」ときつく言われて、頭の中が真っ白になりました。入管の人が他にも何か言っているのですが、頭に入ってきませんでした。何とかして家に帰ってオアシスの人に電話をしたときに泣きました。僕はどうしても納得できませんでした。悲しかった。僕は同級生に知られるのは恥ずかしいと思いましたが、皆の力を借りなければ裁判ができないと思うようになりました。同じ学年の生徒全員合唱練習の時にみんなの前で、僕の気持ちと裁判することを話しました。話終わって、みんなの方を見ると泣いてくれている友だちもいて、先生も泣いていました。そのあとすぐに友だちが「俺、駅に行って署名を集める」と言ってくれて本当にうれしかったです。みんなに助けを求めて本当に良かったと思いました。そうでないとみんなにうそをついて生きていくことになってしまったと思います。
同級生のお父さんやお母さん、それにオアシスの人たち、地域の人たちが集まって「裁判を支える会」を作ってくれました。3月28日にオアシス子ども会の友達と一緒に署名の数を確認しました。15000を超えていました。驚きと感謝の気持ちでいっぱいです。友だちや友だちのお父さんやお母さん、地域の人たちがいろんな催しをしてくれて集めた署名です。
僕は日本で生まれて育ったので日本のことしか知りません。タイには行ったこともなければ、友だちもいません。タイ語は話せるけど読んだり書いたりできません。どうして退去しなければならないのか納得できないのです。僕は特に甲府に来てから一生懸命頑張ってきたと思っています。どうして僕が日本に居られないのでしょうか?何か悪い事でもしたのでしょうか?何か悪いことをしたのなら、教えてほしいと思います。人はお父さんとお母さんを選ぶことができません。僕はお父さんを知りません。僕が生れたことは悪いことだったのでしょうか?僕は産んでくれたことを感謝しています。生んでもらって良かったし、友だちと楽しく、一生懸命生きていきたいと思っています。どうか僕のことを認めてほしいと思います。何も悪いことをしていないのに、なぜ罪があるように扱われるのでしょうか? 僕が日本で生まれたことが罪なのでしょうか? 僕は悔しいです。
どうか在留を許可してください。僕たちを認めてください。僕はまだ子どもで力が足りません。やっと高校に入ったばかりで、これからますます勉強をしなければなりません。どうか力を貸してください。僕は、勉強を続け、立派な大人になって、真面目にしっかり働いて、僕のように困ってる人がいたら手助けできる人になりたいと思います。お願いします。