「東京ろう映画祭」開催中。渋谷ユーロライブを中心に。(https://www.tdf.tokyo)
オープニングの「私を見てください、私もあなたを見ます」「井上孝治、 表象を越えた写真家」を観た。
2本目は字幕+手話付きという上映形態だった。
どなたか関係者だろうと思っていたら、最初隣に座っていた女性が監督のブリジット・ルメーヌさんだった。
昨年来、聴覚障害のお客様に俳優の「言葉」を伝える手段をどのように考えるかということが劇作家協会の中でも議題になっており、瀬戸山美咲を中心に、いろいろな団体ともやりとりしながら、取り組みというか情報収集と議論が始まっている。
私も昨年夏の公演で、劇団での上演でアフタートークの「手話付き」バージョンを試したりした。
字幕そのものは私の劇団は海外公演が多いので、そのノウハウはある程度持っているわけだが、聴覚障害のお客様に向けてという視点で特化して考えたことはなく、確かにこれから考えていくべきことだと思っている。
今回の映画祭のテーマは「視覚の知性化」。じっさい、幾度となく「視覚の知性」という言葉が語られた。
会場は、開場待ちで並んでいる廊下から、場内まで、とても静かだった。
皆が手話で会話している。手話のできない私が、係の方に、わざわざ口にして話していただいてる、という感じなのである。
舞台挨拶やトークの際も、いわゆる「ノイズ」がほとんど聞こえなかった。
溜息や、なんとなく出す「うー」とか「あー」とかいう種類の音が、ほぼないのだ。
壇上や係員で、言葉で語る人もいることはいたが、常時、基本的にはしわぶきひとつなく静まりかえっていた。
「なぜ溜め息は音がするのか」、という問いを、初めて持った。
つまり、息が、身体の一部に当たって発される「音」の手応えもまた、それぞれの人間が生まれてきてから身についた、習慣なのである。
この場には、必ずしも「音」ではない感触で自分の呼吸を身体的に認識してきた人たちが、かなりの絶対数として、いるのだ。
音を発する人たちばかりの場ではない集中力、感受性のあらわれ方があり、そこにはそうでなければ感じられないものがあるように思われた。
それが「視覚の知性」の一つの要素であり、「感性」なのであろうと思う。
写真は、会場の観客席の皆さんが、舞台上に手話で応えている様子。
オープニングの「私を見てください、私もあなたを見ます」「井上孝治、 表象を越えた写真家」を観た。
2本目は字幕+手話付きという上映形態だった。
どなたか関係者だろうと思っていたら、最初隣に座っていた女性が監督のブリジット・ルメーヌさんだった。
昨年来、聴覚障害のお客様に俳優の「言葉」を伝える手段をどのように考えるかということが劇作家協会の中でも議題になっており、瀬戸山美咲を中心に、いろいろな団体ともやりとりしながら、取り組みというか情報収集と議論が始まっている。
私も昨年夏の公演で、劇団での上演でアフタートークの「手話付き」バージョンを試したりした。
字幕そのものは私の劇団は海外公演が多いので、そのノウハウはある程度持っているわけだが、聴覚障害のお客様に向けてという視点で特化して考えたことはなく、確かにこれから考えていくべきことだと思っている。
今回の映画祭のテーマは「視覚の知性化」。じっさい、幾度となく「視覚の知性」という言葉が語られた。
会場は、開場待ちで並んでいる廊下から、場内まで、とても静かだった。
皆が手話で会話している。手話のできない私が、係の方に、わざわざ口にして話していただいてる、という感じなのである。
舞台挨拶やトークの際も、いわゆる「ノイズ」がほとんど聞こえなかった。
溜息や、なんとなく出す「うー」とか「あー」とかいう種類の音が、ほぼないのだ。
壇上や係員で、言葉で語る人もいることはいたが、常時、基本的にはしわぶきひとつなく静まりかえっていた。
「なぜ溜め息は音がするのか」、という問いを、初めて持った。
つまり、息が、身体の一部に当たって発される「音」の手応えもまた、それぞれの人間が生まれてきてから身についた、習慣なのである。
この場には、必ずしも「音」ではない感触で自分の呼吸を身体的に認識してきた人たちが、かなりの絶対数として、いるのだ。
音を発する人たちばかりの場ではない集中力、感受性のあらわれ方があり、そこにはそうでなければ感じられないものがあるように思われた。
それが「視覚の知性」の一つの要素であり、「感性」なのであろうと思う。
写真は、会場の観客席の皆さんが、舞台上に手話で応えている様子。