Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

桜は桜である 「君が代条例」合憲と「教育勅語」強制のあいだ

2017-04-12 | Weblog
報道によれば、大阪府が全国で初めて2011年に施行した「君が代の起立斉唱を教職員に義務付けた条例」が「思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」点について争われた訴訟で、3月30日付で、条例を合憲とした昨年10月の二審・大阪高裁判決が確定したという。
13年3月、勤務していた府立支援学校の卒業式で、職務命令に反して起立斉唱せず、減給1カ月の処分を受けた男性教諭が、処分の取り消しと200万円の賠償を府に求め、大阪地裁に提訴していたもの。

二審判決は、職務命令の根拠となった府条例を合憲としているが、憲法に保証されている「思想信条の自由」を否定する「条例」じたいがおかしいと、私は思う。
自治体の条例よりも上位に置かれるべき憲法に保証されている国民の権利を、なぜ司法の場が尊重しないのか。

今回の判決は起立斉唱について、「慣例上の儀礼的な所作で、ただちに人の内心に踏み込むものではない」というが、「慣例上の儀礼的な所作」が「慣例」「儀礼」の範疇なら、百歩譲ったとしても、例外措置を認める方法をこそ模索すべきであって、義務づける方がおかしい。
本当は堂々と拒否の自由を選び取ることができるべきだが、現状対応としての「例外措置」じたい、いろいろに考えられるはずだ。
「人の内心」の問題とわかっているのだから、少なくともこんな「問答無用」「却下」のような措置は、なじまない。
本人の意志に反する「慣例」「儀礼」に従わなかっただけで、なぜ「罰則」までが必要だというのか。
減給処分についても一審判決に続き、「府の裁量の範囲内」だとしたというが、どう考えても、「思想信条の自由に反する行いを拒否して罰を受ける」ことは、基本的人権をないがしろにすることで、憲法にも民主主義にも反している。

教員ならずとも、生徒・学童にもまた、自分で「日の丸・君が代」に対する判断を持つ権利があるはずだ。こうした「強制」は、「児童の権利」を尊重することを重んじる方向に動きつつある国際的な趨勢にも反する。

そして、「国旗・国歌強制」を合法とするこうした動きが、教育勅語を教育の場に持ち込もうとする動きと結びついたとき、どうなるのか。

政府の「教育勅語」容認姿勢が、教育現場への「復活」を後押しするのではないかと危惧するのが「考えすぎ」であれば、幸いである。
憲法が定める国民主権・主権在民に反し、国会で69年前に排除・失効決議された教育勅語を、「憲法や教育基本法に反しない形」で教材に使うことなど、不可能だ。
しかし義家弘介・文部科学副大臣は、教育勅語を幼稚園などの朝礼で朗読することについて、「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思う」と国会で答弁した。
それはおかしい。
普通に考えてみればわかることだ。
幼稚園児に、「教育勅語」の内容が理解できているだろうか。
自分自身で是非の判断がつけられない児童であれば、疑いの余地なく、問答無用の「強制」である。
教育勅語を幼稚園などの朝礼で朗読させることは、意味がわからないうちからただ憶えさせ、洗脳しようということだ。
それが「日の丸・君が代」を教育の場で「自分の国の旗・歌」として強制的に馴染ませようとすることの延長でないと言えるのか。

戦前・戦中の「修身」「道徳」は、天皇への奉仕を「臣民(国民)」の守るべき徳目とし、同じ明治期にできた軍人勅諭と共に、国民を総動員体制に駆り立てた。
天皇のために命を投げ出せと「強制」した。かつて石原慎太郎でさえ「君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だって、あれは一種の滅私奉公みたいな内容だ」と言っている。

「国旗・国歌」は、戦時中の国民の思想統制での「皇道文化聖戦」、生活の中で「皇化」をはかるべく「国民の用意」が説かれたさいの重要な手段だった。
「教育勅語」は、軍部や官憲による思想統制の道具である。大真面目に教育の場で使うことの是非を取り沙汰していることじたいが、異常だと思う。だが、国民の鈍感さにつけ込み、「国旗・国歌」と「教育勅語」のあいだの距離を詰めようとしているのが、現政権であり、それに従っているのが、「官邸の人事」を怖れる、この国の官僚や法曹界の人々なのである。

この季節にいつも思う。
桜は桜である。
誰かが「国花」と呼ぶのは勝手だが、桜そのものは、存在として、自由である。日本国の何かを象徴したりするつもりは、ない。
桜を自分なりの美意識と感覚で捉えることは、当然の権利として、私たちに許されているはずだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする