Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

「感天愁雨信士」の戒名  また、九月を迎える

2018-08-23 | Weblog

『九月、東京の路上で』を上演してから、もうすぐ九月を迎えることに、どこか緊張している自分がいる。

写真は、寄居の正樹院に残っている、具学永さんの墓。正面に、「感天愁雨信士」の戒名がある。

飴売りだった具学永さん。戒名の中にある「雨」の字の「あめ」にそれが架けられているのではないかという加藤直樹さんの説は、頷けるものがある。

 

 

九月六日。木曜日。埼玉県熊谷市。

当時、朝鮮アメ売りというものがいた。彼らは天秤棒の両端に大きな箱をつけたものを担いで、「ちょーせんにんじーん、にんじんあーめ」と独特の節回しで声を張り上げながら、朝鮮人参が原料だというアメを子どもに売って歩くのである。簡単な芸をみせることもあったらしい。工事人夫として働いていた朝鮮人が、工事が終わり仕事がなくなったためアメ売りになることも多かった。元手がなくてもできるからだろう。

寄居町にも朝鮮人の飴売りの若者がいた。二八歳の具学永(グ・ハギョン)。彼が寄居にいついたのは二年前。寄居駅南、正樹院隣の安宿「真下屋」に暮らしていた。小柄でやせ型。おだやかで人のいい若者だったという。町の人で、声を張り上げて往来を行く彼のことを知らない者はなかった。

震災以降、東京の避難民が持ち込む流言と県の通達によって、寄居でもとりあえず消防団が自警団に衣替えしたが、橋のたもとに座っているだけでなんということもなく、ましてや具さんに危害を加えようという者はいなかった。

それでも具さんは不安を感じていた。あるいは、前日に熊谷で何十人もの朝鮮人が理由もなく殺された事件がすでに耳に届いていたのかもしれない。

五日昼ごろ、彼は寄居警察分署に現れ、自ら「保護」を求める。そうは言っても寄居は平和そのもの、彼は「何も仕事をせずに遊んでいては申し訳ない」と笑い、敷地の草むしりをして時間を潰していた。

だが隣の用土村では、人々は「不逞鮮人」の襲撃に立ち向かう緊張と高揚に包まれていた。

事件のきっかけは、その夜遅く、誰かが怪しい男を捕まえてきたことだった。

自警団は男を村役場に連行、ついに本物の「不逞鮮人」を捕らえた興奮に百人以上が集まったが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であるとわかった。

がっかりした人々に対して、演説を始める男。「寄居の真下屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」

新しい敵をみつけた村人たちはこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒をもって駆け出した。

具学永さんが寄居警察分署で保護されていることを知った村人は警察署に押し寄せる。朝鮮人を引き渡せと叫ぶ彼らに対し、星柳三署長は玄関先で、わずか四、五人の署員たちとともに説得に努めた。

そのうちに寄居の在郷軍人会酒井竹次郎中尉も駆けつけ、「ここにいる朝鮮人は善良なアメ売りである」と訴えるが、興奮した彼らは聞く耳をもたない。

群衆は署内になだれ込む。

竹やりや日本刀で斬りつけられ、血を流しながら、具学永さんは留置房のなかに逃げ込んだ。

格子の間から竹やりを突き出してくる男たちとにらみ合いがしばらく続いた後、具さんは突入した男たちにずるずると玄関先まで運ばれ、そこで集団で暴行され亡くなった。六日深夜、二時から三時の間の出来事だった。

留置房のなかに追い込まれていたとき、彼はそばにあったポスターのうえに、自らの血で「罰 日本 罪無」と書いた。

「日本人、罪なき者を罰す」。

逮捕されたのは十二名。

具学永さんの墓は、今も寄居の正樹院に残っている。

正面に「感天愁雨信士」の戒名。

左の側面には「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」と彫られている。

犠牲者で、名前と出身地が分かり、さらに戒名もついているのは珍しい。

虐殺された朝鮮人の墓は埼玉県内に二つしかない、その一つ。

立派な墓石を見て、地元の有力者によるものかと思ったが、彼の遺体を引き取り、墓を建てたのは、宮澤菊次郎というあんま師だった。

目抜き通りを売り声をあげながら行き来するアメ売りと、あんま師。

路上を行き来して生計を立てる者たち。

寄居は荒川に面する水上交通の拠点であり秩父とも繋がる、かつては栄えた宿場町。大正の頃、その目抜き通りは今よりもずっと華やかだったに違いない。おそらくはその路上で、彼らは出会った。

あんまといえば、当時はもっぱら視覚障害者の仕事である。宮澤菊次郎は、声と手触り、体温を通じてのみ、具学永を知っていたのかもしれない。

(『九月、東京の路上で』より)

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