今日も、暑い暑い一日です。
夕方のお散歩は、6時半過ぎかな
ひめちゃんは、夕方は南の方にしっかりお散歩します。
途中で引き返すことなく、中学校の信号付近まで行きます。
この時間に出ると、日没との関係で、ギリギリライトなしで帰れます
昨年8月のある朝の、ひめちゃんとタバサねーちゃんです。
諏訪神社の向こうの高台まで、タバサねーちゃんも、お散歩できました
タバサねーちゃん、16歳と1ヶ月です。
目は見えないけれど、体力はまだまだあります
長生きしてね
里見系図の事、付けたり落城の事・その3
さる程に桐生出陣の由、里見入道大いに驚き、その日の早旦に家の子を集め、軍(いくさ)評定まちまちなり。
石原兄弟申しけるは、「此れらの城に無勢にて籠もりて、大敵を引き請けん事余りなり。危きを恐れざるは軍師の教えに多からず所なり。且は大将家に至る迄、軍慮兵書の不足に似る。一先づ谷山御開き重ねてよろしく、御思案を廻らし、せつに望みて死をのがれ、二度義兵を揚ぐること、是れ名将の教えなり。早く早く」といさめける。
大貫兄弟気色をかいて、「いかに石原その方は、里見の家の両臣、今日迄も方をならべし口惜しさよ。左程命惜しくば入道の御首を取りて、敵陣へ下り降参せよ。御名残多きは越後に御座あるご兄弟なり。此の節有り合うは御運の末、思えば無念の有様なり。」
いかる眼に涙を浮かべて言いければ、上下の感心限りなく如くして、入道、石原兄弟を召し連れて、城を已に落ち玉う。
(意味の取りにくいところが多いので、大意でいきます)
元亀元年(1570)3月20日早朝、桐生勢は仁田山に向けて出陣します。
そのことを知った里見入道は大いに驚いて、朝早くに家臣達を集めて軍議を開いた。
意見はまとまらなかった。
石原兄弟が言うことには、「この城に籠もって大勢の軍と戦うなんて無理な事です。危うき期を恐れないのは、軍師の教えに多いです。でも、それは軍事的知識の不足が問題です。いったん谷山(やつやま)に退いて思案を廻らして、なんとか生き抜いて、再び正義の兵を挙げることが、名将の教えです。はやくはやく。」と諫めた。
大貫兄弟は血相を変えて、「石原よ其の方は里見家の重臣だろう。今までそう思って肩を並べてきたのが口惜しい。それほど命が惜しいのなら、入道殿の首を取って敵陣へ降参せよ。越後においでのご兄弟が名残惜しいことだ。今こういう事態になったのは、そうなる御運だったのだろう。思えば無念の有様である。」と。
怒る眼に涙を浮かべて言ったので、みんま深く感心したようだったけれど、入道は石原兄弟を連れて、城を落ちていってしまわれた。
桐生勢は仁田山城に向けて出陣しました。
『新田老談記』では、赤萩の館に出陣ですけど、『桐生老談記』では仁田山城に向けて出陣です。
仁田山城は、現在の桐生市川内町の奥にあった山城です
数年前、麓まで行きました。
登り口が分からず準備不足で断念しました
先日、近くまで行く機会がありました
ここを左折して見ましたが駐車もできないし、なんとかUターンして帰りました
それにしてもこの後ろの山の上では、生活は不便でしょう。
戦いの時に籠もると言っても・・・・・・?
城主の普段の生活の場は、この交差点の反対側だそうです
反対側は地域の集会所になってました
小さなお堂と石造物がいっぱいあります。
一番右の新しい石造物によって、ここにはかつてお寺が存在したことがわかります。
「十輪山重蔵院蓮慶寺」、1世から12世までの住職の名が刻まれています。
「東方山?延命寺末」
近くの地図を見ると、川内5丁目に延命寺があります
延命寺は、『ぐんまのお寺 真言宗Ⅰ』(平成13 上毛新聞社)によれば、
川内町5丁目は、古い時代に仁田山鄕と呼ばれていた。慶長三年(1598)には下仁田山村、中仁田山村、上仁田山村、名久木村の四村が成立している。明治9年四村は合併して山田村となった。
当寺はこの旧山田村のほぼ中央にあり、山田郡の閑静な場所にある。天正18年(1590)の記録を元にしているという『山田郡修験旦那分割控帳』に「仁田山・延命寺」と記されて居るので、当寺は修験の院房であったが、すでに寺鄕を称していたことがわかる。
しかし『山田郡村誌』(明治13年刊)に は、「東西18間 南北23間 面積339坪 村ノ中央ニアリ 真言宗紀伊国高野山無量寺末 開基創建年度詳ナラズ。」と記されている。
そして現在は高津戸の自音寺が兼務しているとも記されています。
奇遇なことに、里見兄弟の墓といわれる五輪塔郡のある阿弥陀堂を管理しているのも自音寺です
延命寺は、旧山田郡山田村の中央にあるのです。
旧山田郡山田村、とても気になります。
そういえば、延命寺、まだ訪問していません
是非、訪問しなくてはいけませんね
初稿 2019.05.13 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.08.02
(つづく)