ひめちゃんの夕方のお散歩の時に、東の空の遠くの方に稲妻が見えました
帰り道、パラパラと降り出しますが、さほどの降りではありません。
ひめちゃんはお外のサークルで、晩ご飯の予定でした。
まもなく、三度目の「アタチはさまってまふ」です
6面サークルのパーツのつなぎ目から脱走しようとして、手が挟まってしまったのです。
やむなくポールの1本を抜いて救出です。
ひめちゃんは、めでたく室内犬です
まもなく、北東方向にすさまじく大きな雷鳴と光です
もしかして、ひめちゃんには雷の足音が聞こえていたのかな
昨日あたりから、ひめちゃんちの近くでは、案山子(かかし)が出現しています。
ひめちゃんは、「不審者じゃあ」
5年前、2019年の8月の映像でも、案山子が出演しています。
稲穂が頭(こうべ)をたれるのも、もうじきです。
『桐生老談記』には、里見兄弟の父・里見入道勝広は仁田山城主だったとされています。
仁田山とは、聞き慣れない地名です
けれども、中世には「仁田山郷」がありました
『角川地名大辞典(旧地名編)』に、仁田山郷がありますので、確認です
仁田山郷(中世)
戦国期に見える郷名山田郡のうち地名は,沼沢地を意味するアイヌ語のニタに由来するともいう。天正元年と推定される年未詳12月27日の藤生紀伊守宛由良成繁書状(東京大学文学部所蔵由良文書/県史資料編7)には,由良氏の要害普請に用いる用材について「以前仁田山衆之剪候木とも,馬を云付必可差越候」とあり,当地周辺から伐採されたことがわかる。天正2年2月朔日の由良成繁宛行状(広沢前原氏文書/群馬県古城塁址の研究)では「仁田山郷之内後東寺三貫文地,充置候処,不可相違有候」と見え,当郷内所領が山同主税介に宛行われており,当地が由良氏の勢力下に置かれていたことがわかる。天正2年と推定される年未詳10月18日の由良国繁宛足利義氏書状写(集古文書/埼玉県史資料編6)によると,同年当地方に進出した上杉謙信と由良氏との合戦について「谷山落居之由,一段無心元候,併楯籠人数無恙之由,簡要候」と見え,谷山における合戦の由良方の不利を気遣い,北条氏照の援軍が下総栗橋に在城している旨を告げている。谷山における合戦については足利氏側と上杉氏側との認識に混乱があり,同年と推定される年未詳10月19日の上杉謙信書状写(太田文書/同前)では「自沼田抱候向仁田山・横瀬……従十三取詰,十五即時ニ攻覃,彼城ニ籠者共,一駄一人不残,男女共ニ悉なてきりニ成之候」と見え,仁田山城を攻略したとある。谷山城は桐生市川内町5丁目の字麦生小路の北方にあり,遺構は現存している。また仁田山城はその北東方の石尊山頂にあり,谷山城とともに一体を成していたものである。大正8年3月9日の武田勝頼定書(北条文書/県史資料編7)に「為金井新右衛門尉分改替,仁田山一跡被下置畢」と見え,当地が北条長門守に宛行われており,当地は一時的に武田氏の支配下に置かれたと推定される。天正12年5月28日の阿久沢彦次郎宛て北条家朱印状(京都大学所蔵阿久沢文書/同前)には「仁田山之内」として塩原・あさ原・小平・塩沢・高津戸などの地を,五覧田攻略の戦功により宛行っている。天正13年12月7日の極楽院鎮良判物写(極楽院文書/同前)では,本山派の修験宗で上野国年行事職を持つ極楽院が了大寺に対して桐生の総年行事職を預け置くとともに「広沢・仁田山之儀」に相違なきよう命じている。室町期に上仁田村・中仁田村・下仁田村に分かれたという(山田郡誌)。現在桐生市川内町に仁田山の字名が残っており,郷域は渡良瀬川が大間々町から桐生市にかけて湾曲して流れる内側左岸の地域で,現在の桐生市川内1~5丁目から大間々町東部を含む地域と考えられる。
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
現在の桐生市川内1~5丁目から大間々町東部、つまり塩原・あさ原・小平・塩沢・高津戸などが仁田山郷だったということになります
要害山城(高津戸城)、阿弥陀堂、自音寺はみんな仁田山郷だったのです
間に山はありますが、山を越えて一つの鄕だったのです。
川内の延命寺を自音寺が兼務しているのも納得です。
円空仏がある成満院や楠正成の愛馬をまつったという岩穴観音がある小平(おだいら)も、仁田山鄕だったのです。
里見入道が落ちていった谷山(やつやま)城もけっこう出ています
でも、桐生氏の影はありません
初稿 2019.05.17 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.08.03