夕方5時前、遠くで雷鳴がしています
ひめちゃんは、そわそわ始めました
また「アタチ挟まってまふ」になりそう
とりあえずそこらをお散歩して通り過ぎるのを待ちます。
5年前(2019)の9月、お芋ご飯を頬張る獅子丸がいました
ご飯を炊くときに、細いサツマイモを一緒に入れると、ちょうど良く火が通ります。
よく、みんなでお昼に食べました。
みんな大好きでした
今でも、時折、お芋ご飯がお昼に出ます
里見兄弟の事付けたり落城の事・その4
籠城の人々には大貫佐兵衛、舎弟孫左衛門、嫡子彦七郎、同彦八郎、下頭には篠田與市、同六郎治を始めとして二十人に過ぎず、各心を一つとして、かかる大敵を引き請け、いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめんと、勇みすすんで打ち盾、物の具にかこめ馬に乗りて門戸を指し堅め、敵を遅しと待ちかけたる心の程ぞ頼母敷く、去る程に桐生勢、辰の刻斗に仁田山の城を取り巻き、攻め太鼓を打ち、時の声を発す。
城にても同じく、時を合わせ、寄手の大将山越は、白糸の腹巻に兜を嫡子、二十四刺したる白羽の矢負い、月毛なる馬に黒鞍置きて、一瞬に進み、扨も入道、逆心の思し召しある由、謙信を頼み兄弟を越後へ遣す事、親綱是を奇怪に思し召し、忽ちに打ち亡ぼすべしとの上意にて、山越出羽が討手たりとて高声によばわれば、
城内より大貫佐兵衛、黒革落し鎧着して、五十刺すしたる黒羽の矢負い、鹿毛なる馬に乗り出し、仰せの如く入道は先規の如く降参いたし、身にに誤りなき道利申し開くべしと、石原を御供にて城を退き候、是に背かず、大貫一家、爰に踏みとどまり、御出陣の磨きにさびたりとも、ご馳走申すべし、請け留め給え。」と弓矢をならし、矢をあわせ差しつめ引き詰め、互に矢軍夥舗(おびただしく)、矢種もつきれば、両陣互に、鉾先を揃えて戦いしが城兵大方討たれ、佐兵衛も漸くに木戸口に引き退き、城に火をかけ煙をあげ、敵陣に切って出て誠に人馬の嫌なり。
死に物狂いに切って廻る所に、清水、水沼上下十五人にて大貫を取り巻き、討ち取らんとしたりしが、大貫無双の早業にて、清水、水沼を長刀にて懸けたおし、終に首を討ち取る所に、また寄せ手より荒巻兄弟かけつけ、佐兵衛親子を矢ずくめにして、注意に討ち落としけり。
舎弟孫右衛門は風間伊之助くんで生けどられけり。
大貫一家討たれければ、軍は忽ち破れ、さながらに寄せ手は勝時を作り、喜び帰陣致したりける。
あらすじというか、大意です。
(里見兄弟の父・里見入道は、石原兄弟を連れて、仁田山の城を落ちました。)
「大貫佐兵衛、舎弟孫左衛門、嫡子彦七郎、同彦八郎」など、大貫さんを中心に、約20名が籠城しました。
「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」と、待ち構えます
桐生勢が辰の刻(午前8時前後)に打ち寄せます
里見入道が攻められる理由は、「謙信を頼み兄弟を越後へ遣す事、親綱是を奇怪に思し召し、忽ちに打ち亡ぼすべしとの上意」です
死もの狂いで戦っても勝ち目はなく、大貫一家が討たれて敗戦が決定してしまいます
「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」とは、桐生老談記の書かれた時代の美学でしょう
「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめんと、勇みすすんで打ち盾、物の具にかこめ馬に乗りて門戸を指し堅め、敵を遅しと待ちかけたる心の程ぞ頼母敷く(こころのほどぞたのもしく)」と、この時代の美学に酔いしれたように作者が顔を出します
里見入道が攻められる理由は、もっぱら「謙信を頼み兄弟を越後へ遣す事」ですね
里見入道はなぜ桐生親綱に諫言を繰り返したり、息子たちを謙信の許にやったのでしょう?
この仁田山の城攻めは元亀元年3月のこととされています。
上杉輝虎が法名の不識庵謙信を名乗るのは、元亀元年12月のことです
まだ謙信はいないのですけど
桐生勢はどこからやってくるのか?
桐生氏の居城は柄杓山城と言われています。
けれども、普段は麓の謂雲寺(いうんじ)の辺りに居住していたと言います。
この案内図の日枝神社の近くです。
後ろに柄杓山が見えます。
初稿 2019.06.10 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.08.07
(つづく)