黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

里見系図の事付けたり落城の事・その6(突然水争いの記事に)

2024-08-13 23:27:29 | 桐生老談記の世界

午後から突然大雨になりました

土砂降りの雨でしたけど、ちょっと小降りになったときに、ひめちゃんとタバサねーちゃんは貧乏カッパでお散歩です。

2人の貧乏カッパ姿を探しました。

案外見つからないものです

 

2019年夏、獅子丸が実家に帰って初めて、三四郎の形見のレインコートを来た写真が出てきました

おそらく初めてレインコートなるものを着せられたのでしょう。

でも、かみつきもせず着てくれました

 

2020年7月、ひめちゃんと小次郎パパの貧乏カッパ姿です

小次郎パパのは、桐生市指定のゴミ袋を四角に風呂敷大に切ったものです。

まだレインコートに悪戦苦闘していたかな?

でも、背中だけでも雨に濡れないのは、犬たちにとってもいいことだったと思います

 

 

 

里見系図の事付けたり落城のこと・その6(突然水争いの記事に)

前回仁田山城が落城し、里見入道も自死させられました
石原兄弟は桐生氏の直臣になり、養命の出城を任されました

作者は、
石原兄弟は桐生家人となり、養命の出城在城せしめおのが栄花撰びしはにくまぬものこそなかりけり。
「石原兄弟にみんながブーイングしている」といいました。

さて、そうなると里見兄弟の登場となるはずです。
ところが、次に出てくるのは「桐生の城取立ての由来」という言葉です
「取立て」とは、無理矢理取る事でしょうか
確かに桐生城(柄杓山城ひしゃくやまじょう)は、由良氏に無理矢理取られたようですけど。
突然、桐生氏が柄杓山城を退去したいきさつが語られ始めます



桐生の城取立ての由来、

先年桐生在城これなき時、居館村と云う所、堀一重の平城を構え、代々の居住の所に国綱入道の時、頃は観応元辛寅(かのととら1350年)、同所柄杓山と云う所に少しの在城を取り立て、同二年春要害の為に登りて、荒戸村という所に、渡良瀬川を掘り、末は桐生川にひとしくて、実もゆゆ敷構えなり。
年月を積もりて、元亀二年迄、年霜二百十三年、これに依り新田領数年渭水にて、民家此の事を城主へなげきけるに、殊に其の年の夏、天下一同悉くかんばつに及び新田領渭水にて、城主御難儀に思しめし此度び水御所望成られ、御使者に藤生紀伊守、高橋丹波を添えて仰せつけられけり。



あらすじです

桐生氏が柄杓山城を退去させられたいきさつです。

桐生氏は最初は居館村と云う所に堀一重の平城を構え代々の居住の所にしていました。国綱入道の時、頃は観応元辛寅(かのととら1350年)、同所柄杓山と云う所に城を築き、観応2年に要害の地・柄杓山城に移りました。荒戸村という所に、渡良瀬川から掘りを彫って水を引いて、末は桐生川とつなげました。実にゆゆしいこと(あとで問題になりそうなこと)でした。

元亀二年(1571)まで213年間、此の事により新田領は数年間渇水(水不足)で、人民は領主の由良氏に水不足の解消を訴えました。

殊にこの年元亀二年の新田領の干ばつは深刻でした。

新田領主は桐生氏に水を分けてほしいということで、使者として藤生紀伊守、さらに高橋丹波を添えて遣わしました。


「桐生氏は最初は居館村と云う所に堀一重の平城を構え代々の居住の所にして」とは、柄杓山の南にある謂雲寺(いうんじ)のあたりです。



右奥の山が柄杓山(ひしゃくやま)です
桐生市の北部・梅田町にあります

「荒戸村という所に、渡良瀬川を掘り、末は桐生川にひとしくて」とは、新川(しんかわ)のことです。
こちらは、桐生駅の南の方になります

新川は、渡良瀬川と桐生川の間に掘られたといいます。
現在はほとんど埋められ、わずかに新川球場(しんかわきゅうじょう)とか、新川公園(しんかわこうえん)という名残しかないようです
桐生氏が渡良瀬川の水を引いてしまったので、下流の新田領は水不足になってしまったのです

 

 

初稿  2019.06.21  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.13

 

(つづく)

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