今朝、ひめちゃんは、堀之内を西に出て、天神田を歩いてきました。
彼岸花が満開でした
2020年の9月のある日、ひめちゃんは獅子丸と天神田を歩いてきました。
天神田にある常広寺の新墓地で不思議なものを発見します。
天神様の石宮です
字天神の地名は、この石宮に依るのかもしれません。
後に、古い地図で、新墓地の南に天神宮があることを確認しました
今は雑草と雑木に覆われて、跡の確かめようもありませんけど
桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 1(其の軍功により頼朝公より桐生を給はり)
伝に言う、桐生家の起こりは、大織冠(たいしょくかん)の後胤藤原の綱元という人、治承四年(庚子かのえね、1180年)十月駿州富士川において、源平戦軍の時、綱元、頼朝公の味方なり。
一番に川を渡して逃げる平盗(?)を討ち取り、其の軍功により頼朝公より桐生を給わり、これに依り此の時より家名を定め、桐生小太郎と号し百騎の家なり。
文治二年(丙午ひのえうま、1186年)に入部して、天正元年(1573)迄凡そ三百八十七年なり。
その昔頼朝公お召の馬池月という名馬、桐生の谷より出たり。綱元献上なりという。
下総国小金原輿葉塚(こがねはらよばづか)と云う所より出たりとも云う。小金原にも池あり。依って家康公入国以来も、小金原に野馬を差し置き、今に至る迄年々駒を取り給うなり。
また、する墨という馬は野州より出たり。宇都宮殿の献上なり。即ち馬の出所は其の時より飛駒という。
この桐生の飛駒両所の馬の出所は頼朝公分限帳に分明なり。
また小金ヶ原出所の事、其の所の里人の話なり。
あらすじです。
桐生家の起源は藤原鎌足の子孫で、藤原綱元という人が、治承四年(1180)10月富士川の合戦の源平合戦の時、頼朝方でした。
一番に川を渡り、逃げる兵士の平盗(?)を討ち取りました。
その功績により、頼朝公から桐生をいただきました。
この事によって、桐生と家名が決まりました。
文治2年(1186)年に初めて桐生綱元が、領国桐生にやって来てから天正元年まで、およそ387年です。
その昔、頼朝公の使っていた名馬池月は、桐生の谷の生まれです。
桐生綱元が献上したということです。
池月は、下総国小金原輿葉塚(こがねはらよばづか)と云う所の生まれだともいいます。
小金原にも池があります。
それで、家康公が関東入部以来、小金原は野生馬の放牧地になってます。
また、する墨という馬は、下野の生まれです。
宇都宮氏が献上したのです。
それから、する墨の出身地は飛駒(ひこま)というのです。
(「この桐生の飛駒両所の馬の出所は」は、「この桐生と飛駒両所の馬の出所は」でしょうね。)
桐生と飛駒両所の馬の出所は、頼朝公分限帳に書いてあります。
小金ヶ原から出たというのは、そこの里人の話です。
桐生氏が、桐生にやって来たのは富士川の合戦で一番乗りをして功績を挙げ、頼朝に封ぜられたからだそうです
そのころ、桐生には藤姓足利氏の家臣の桐生六郎が、梅原にいたはずです
どこの藤原さんがやって来たのでしょう?
名馬池月は、桐生綱元が頼朝に献上したとあります
宇治川の合戦は寿永3年(1184年)、池月は摺墨(するすみ)と先陣を争います。
足利忠綱をはじめとする藤姓足利氏は、平家方として、宇治川の合戦に参加したはずです
摺墨も隣の下野飛駒の出となってます
桐生には、池月の育ったという高園寺があります
桐生川紀行総集編・御朱印がほしい池月の寺(高園寺)
駐車場に、りっぱな説明板があります。
古い石造物がいっぱいあるお寺です。
本堂脇の、池月が育ったという池です。
見所いっぱいロマンの寺ですけど、残念ながら御朱印がありませんでした
ぜひ、御朱印がほしいところです
初稿 2019.09.09 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.09.28