ひめちゃんは、今夜はぐっすり眠れそうです。
おかあさんが、ちょっと旅行に行ってきたのです
この夏は、暑さも何のその、夜は室内犬を目指して奮闘してました。
おかあさんがいないと、おうちに入れてもらっても、なんとなく落ち着かなかったようです
今夜は、早々と、おかあさんのベッドの隣のひめベッドで爆睡中です
上野国山上の彼岸花も満開です。
5年前、みんなで高縄の磨崖仏までお散歩した記憶です
最近行ってないけれど、磨崖仏の彼岸花どうなったかな?
桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その4(忽ちに落城したりけり)
去る程に搦手おさえたる須永、柴崎両人は兼ねてあい図の事なれば、主(あるじ)の屋形を後になし、寄せ手の勢と一手になりて、新田勢大形山の谷合いより、大山の崩れる如くついて出で、城の西北の谷合い、要害の切通し際まで押し寄せ、或いは谷より竹たばを押し立て、ゑびらをたたき、おめきさけんで責め登りける。
在城の人々には岩水、前原、根本、片山、遠藤、垣上、小曽根、村上等を初めの百騎ばかり踏み留まり、石弓張りかけ大いわ、大石、大木などを打ち倒し、さんざんに敵を討ち悩ますと云えどもとうまちくいことごとく、取り囲みたる敵なれば、さしもの人々もたまりかね、石垣を崩し、かけ鐘かけを崩し、鉄砲をしきりに打ちかけ仂(はたら)くとも、玉薬も及ばず矢種もつきければ、鑓(やり)、長刀、太刀先に打ってかかれば、龍虎のいきおいにて切って懸かり、本城に籠もりし人々、命限りに防げども、寄手大勢なれば、ついにかなわず、本城まで責め登られ寄手勝ち鬨(かちどき)あげて責めければ、遠藤、片山、小曽根、村上を初め上下五十六人討ち死にす。
残る人々八方へ逃げ去れば、忽ちに落城したりけり。
あらすじです。
新田勢は柄杓山の西北から責め登りました。
城にはまだ百騎ばかり残っていました。
必死になって防戦するけれども、寄手が大勢なので防ぎきれず、五、六十人が討ち死にしました。
残った人々は八方に逃げ去あったので、桐生城(柄杓山城)は、たちまちに落城しました。
「柄杓山の西北」というと、やはり今一般的なハイキングコースになっているルートの後半でしょうか?
まだ百騎も残っていたんですね
いったい桐生家中は、どのくらいの規模だったのでしょう
家臣団の構成はどうなっていたのでしょう
先に打って出た山越さんたちが奮戦して、新田勢の藤生紀伊守危うしとなったとき、小金井四郎左衛門は梅原から駆けつけました。
梅原には梅原館跡があります。
右上のかすんでいる山のあたりが、城のある柄杓山(ひしゃくやま)だと思います。(訪問は2019年8月)
説明板によると、桐生城主の館はここでななく、居館(柄杓山南麓の謂雲寺のあたり)にあったとあります。
ここは、もともとは桐生六郎の館跡だったといいます
桐生六郎は主人の足利俊綱の首を持って頼朝の所に行ったのでした
その後、嫡男忠綱は逃れて、山上の竜奥(たつおく)に潜み、のち西国に落ちていったともいいます。
山上の竜奥が、葛塚城ではないかとも言われています
ひめちゃんは、葛塚城堀之内に住んでいるのです
桐生城(柄杓山城)はあっけなく落城してしまいました
城主はどうしたのでしょう?
初稿 2019.09.05
改稿 2024.09.26
(つづく)