黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

近郷近在に聞こえた名所・山上愛宕塚古墳

2019-05-16 15:23:40 | 群馬県・旧勢多郡
ひめちゃんは、獅子丸と朝散歩をしてきました。
獅子丸を送って、ひめちゃんちの畑に寄ります。



ジャーマンアイリスが、だいぶ咲きそろってきました。



おかあさんは、あの花この花、一生懸命に写真を撮っています。
待ちくたびれたひめちゃんは、「早く帰って、ご飯にしようよ







元町橋は、今は消滅してしまった愛宕塚古墳の石を使用したと桐生市のHPにあります。
実は、この愛宕塚古墳について書いた記事が「黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅡ(yahooブログ)」にあります。
地元の人もほとんど知らないことなので、記事消滅前に再編集して記録しておきます
消滅してしまった愛宕塚古墳の話を、消滅前にもう一度確認です


桐生市HPによると、元町橋の「石材はここから東南へ500メートル地点にある愛宕塚古墳の石室に求めたと伝えられています」とあります。

ここから東南へ500メートル地点というと、元町橋と新里中央小学校敷地内にある小林天神古墳の中間くらいかな?
検索しても出てきません。
念のため開いてみた『新里村百年史』が唯一の資料です。
今は消滅してしまった古墳で、唯一の資料なので、今日は引用が長くなります。

『新里村百年史』によると、

山上愛宕塚古墳は赤城山南麓の丘陵性台地斜面部に寄せかけて築造されたいわゆる山寄せの古墳である。墳丘の高さは現地表から南側で七メートル、北側で四メートルになっており、直系は三〇メートル前後の円形古墳である。付近は堂城(どうじょう)と呼ばれて、時宗の道場が過去にあったらしい。前橋藩、酒井雅楽頭忠明の命により貞享元年九月に古市剛が編纂した『前橋風土記』には「山上の石室」として記載されていた。「山上村の古城の旁ら、田圃中間に在、石を畳て室となす。入り口の広さ方六尺あまり。入ること十歩あまりにして横の広さ六十七歩あまり、長さ倍すること十二歩。石を積んで之を造る。いずれの時いずれの人設けて何の様に備える事を知らず。とある。
この古墳は古くに盗掘され慶安元年(1684)には開口しており、近郷近在までも名所として知れ渡っていた。その後、元禄十四年(1701)に石室の石を取り出して、元町の念仏橋の用材に利用したり、佐波東村は騎馬神社の鳥居台石に持ちいたりしている。
(中略)『上毛古墳綜覧』では新里村大字山上天笠五五六番地所在の新里村台三五号墳ににあたり、円墳で、径百尺、高さ二六尺、地目は雑木林となっていた。(中略)新里村教育委員会では、平成六年六月から平成七年三月までの間この古墳を調査した。開発に先駆けた事前調査で、埋葬主体部に切石が使用されていたことが明らかになり、さらに赤城南麓では珍しい複室構造であることから本地域の終末期古墳として注目されるものである事が明らかになった。
本古墳の盗掘時期については今回の調査から、中世段階までさかのぼることが明になった。その後、記録によれば元禄十四年(1701)に再び盗掘にあっている。(後略)


どうも古墳という認識はなかったようです。
山上の石室という名所だったのです。

昭和47年の新里村地図が獅子丸家にあった地図で、このあたりを見てみましょう。




右下のピンクで囲われた所が新里中央小です。
その右上の角に小林天神古墳があります。

左上のピンクで囲われた所が堂城(どうじょう)です。
時宗の道場があったらしいということですね。
ちょうど地図が切れてしまいましたが、堂城の左上は元町橋近くだと思います。

左側の黒い太い線が蕨沢川(わらびさわがわ)です。
愛宕塚古墳は番地からすると、堂城の南ですね。

このあたりはベイシアや黒猫ヤマトの少し北の高台になります。

『新里村百年史』で、「開発に先駆けた事前調査」とあったように、開発され住宅地になってしまったのです。

不思議なことに、ここにある整形外科医院がナビでうまく出ないようです。
ひめちゃんたちとお散歩していて、何度か聞かれました。
「ベイシアでナビをいれたんですけど、わからないんです
ひめちゃんはこの地図の所をお散歩していません。

ひめちゃんが生まれるズーと前、柴犬ライフが始まった頃、三四郎&サマンサとこの辺りまで何度も足を伸ばしました


堂城は道場で、時宗の道場があったという言い伝えがあるんでね

南北町時代においては、時宗の道場はアジール(聖域)で、政治権力の介入しない避難所だったといいます。
新田義貞を埋葬した越前の称念寺のサイトで詳しく解説されています。

1138年(延元3年)7月2日灯明寺畷の戦いにおいて、眉間に矢を受けて戦死します。義貞公の遺骸は葬礼のための時宗の僧(時宗の陣僧)8人により長崎の道場に運ばれねんごろに葬られました。


堂城に時宗の道場があってアジールだとすると、山上保の支配者太田氏と山上氏の間のクッションだったかもしれませんね








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