ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに東の牧場に行きました。
やっぱり、ヤギ家族の復活はなさそうです。
ひめちゃん、かなりモコモコが進行してます。
タバちゃんは、まだかな?
小次郎パパの手術から一ヶ月経ったら、シャンプーにしましょう
上のタケイ沼を目指します。
水位の下がった南の沼には、だあれもいません。
いつものようにたっぷり水位の北側の沼には、大勢のカモさんです。
サマンサ坂を通って帰ります。
仁田山城(にたやまじょう)のあった仁田山は、中世には仁田山郷(にたやまごう)でした。
そして、なんと里見兄弟が立てこもったという高津戸城も、同じ仁田山郷だったのです
現在現在では桐生市川内町とみどり市大間々町で別々の町ですけど、同じ仁田山郷だったのです
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」によれば、
仁田山郷(中世)
戦国期に見える郷名山田郡のうち地名は,沼沢地を意味するアイヌ語のニタに由来するともいう。天正元年と推定される年未詳12月27日の藤生紀伊守宛由良成繁書状(東京大学文学部所蔵由良文書/県史資料編7)には,由良氏の要害普請に用いる用材について「以前仁田山衆之剪候木とも,馬を云付必可差越候」とあり,当地周辺から伐採されたことがわかる。天正2年2月朔日の由良成繁宛行状(広沢前原氏文書/群馬県古城塁址の研究)では「仁田山郷之内後東寺三貫文地,充置候処,不可相違有候」と見え,当郷内所領が山同主税介に宛行われており,当地が由良氏の勢力下に置かれていたことがわかる。天正2年と推定される年未詳10月18日の由良国繁宛足利義氏書状写(集古文書/埼玉県史資料編6)によると,同年当地方に進出した上杉謙信と由良氏との合戦について「谷山落居之由,一段無心元候,併楯籠人数無恙之由,簡要候」と見え,谷山における合戦の由良方の不利を気遣い,北条氏照の援軍が下総栗橋に在城している旨を告げている。谷山における合戦については足利氏側と上杉氏側との認識に混乱があり,同年と推定される年未詳10月19日の上杉謙信書状写(太田文書/同前)では「自沼田抱候向仁田山・横瀬……従十三取詰,十五即時ニ攻覃,彼城ニ籠者共,一駄一人不残,男女共ニ悉なてきりニ成之候」と見え,仁田山城を攻略したとある。谷山城は桐生市川内町5丁目の字麦生小路の北方にあり,遺構は現存している。また仁田山城はその北東方の石尊山頂にあり,谷山城とともに一体を成していたものである。大正8年3月9日の武田勝頼定書(北条文書/県史資料編7)に「為金井新右衛門尉分改替,仁田山一跡被下置畢」と見え,当地が北条長門守に宛行われており,当地は一時的に武田氏の支配下に置かれたと推定される。天正12年5月28日の阿久沢彦次郎宛て北条家朱印状(京都大学所蔵阿久沢文書/同前)には「仁田山之内」として塩原・あさ原・小平・塩沢・高津戸などの地を,五覧田攻略の戦功により宛行っている。天正13年12月7日の極楽院鎮良判物写(極楽院文書/同前)では,本山派の修験宗で上野国年行事職を持つ極楽院が了大寺に対して桐生の総年行事職を預け置くとともに「広沢・仁田山之儀」に相違なきよう命じている。室町期に上仁田村・中仁田村・下仁田村に分かれたという(山田郡誌)。現在桐生市川内町に仁田山の字名が残っており,郷域は渡良瀬川が大間々町から桐生市にかけて湾曲して流れる内側左岸の地域で,現在の桐生市川内1~5丁目から大間々町東部を含む地域と考えられる。
現在の桐生市川内1~5丁目、みどり市大間々町東部(塩原・あさ原・小平・塩沢・高津戸など)が、仁田山郷だったことになります
ことの真偽は別として、近世の老談記では、里見兄弟の父・里見上総入道は、仁田山城主であったとされます。
数年前にも訪問してあるはずですけど、写真も記録もありません
今回再訪です
タバサねーちゃんも、白瀧神社の後で同行しています。
でも、残念ながら、出演回数が少なかっったのです。
白瀧神社から、県道228号線を北上します。
しばらく走行すると、記憶にある交差点に出ました
でも、こんなにきれいな表示だったかな?
Uターンして、仁田山城の居館跡だという寺院跡の、わずかなスペースに駐車です。
小さな御堂があります。
蓮慶寺・庚申堂とあります。
ご本尊様かな?
合掌
ここは階段を登らなくて、いいね
かなりの数の石造物があります。
お地蔵様のお首は、合わない感じです
道の向こう側に、赤い屋根の御堂が見えます。
ちょっと気になります
ここにあった蓮慶寺の歴代名が刻まれています。
合掌
延命寺の末ですか。
そのうち、延命寺も行ってみましょう
仁田山城のあったという、石尊山(しゃくそんざん)を望みます
さて、「仁田山城→」に行く前に、道の向こうの赤い屋根の御堂もちょっと参拝です
(つづく)
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