黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

寄せ手も流車の如くにて(桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その 2)

2024-09-17 15:42:22 | 桐生老談記の世界

涼しい朝でした

ひめちゃんは、堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台を歩きます。

高台の中央で南に下り、山上城を横目に帰りました。

稲の刈り入れが始まりましたけど、あれ色黒の人がやってる

ナスだけでなく、日本の主食・米の収穫まで外国人がやってる

日本の農業、どうなっちゃうんだろう

 

5年前の今頃、ひめちゃんは七海ママともお散歩していました

ママもまだまだ元気で、時には黒柴デナちゃんと「アタチの方が強いのよ」お吠え合ってました。

ナちゃんも「何言ってんのよ。アタチの法が強いのよ

今はひめちゃんが、デナちゃんのライバル引き継いでます

 

 

 

桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その 2


寄せ手も流車の如くにて、鶴翼の備えを引き廻し、包み討ちに討ち取らんと、半時計り戦いしが、

桐生方は古今無双の勇士にて、猛威を振るって、しのぎをけりて火花をちらして戦うと云えども、寔に(まことに)小勢の少勢なれば、思うに任せず相叶わずと、終に引き退く。

手勢大半討たれ、漸やく二十騎計り残ると云えども、皆々手負いつかれ、山越も深手負い、既に自害せんと思い、既にかくよと見えける所に、木村、岩下、広瀬が押し留め云いけるは、

「貴殿いかなる振る舞いぞや。右の思し召し是れ程に迄にして、自害という事ふかく也。命かぎりに戦い、かなわぬ時には討ち死にとし給うべし」と申しければ、

山越尤もなりと直ちに馬に乗り、徒士(かち)立てになりて敵の本陣に切って入る。



あらすじです。

寄せ手(由良方)も、流車のように鶴翼の構えを引き回して包み込むんで討ち取ろうと半時(1時間)ほどに戦いました。
桐生方は古今無双の勇士で、猛烈な勢いで戦いました
けれども少数であったので、思いどうりには行かずもうダメだと退却しました
味方の大半は打たれて、ようやく20騎ばかり残ったといっても、みんな疵を受けて疲れてしいました
山越も深手を負い自害しようとしたところに、木村、岩下、広瀬が留めに入って「あなたはなんということをするのですか 討ち死にせよとの思し召しを忘れて、自害とはおろかな事です 命の限り戦い、どうしようもなくなったら討ち死になさるべきです。」というと、山越ももっともであると、すぐに馬に乗って、徒士(かち)立てになって、敵の本陣に切り込みました



流車はわかりません
将棋の用語かと思いましたけど、見当たりません
香車と対を成しているんですけど

鶴翼(かくよく)の構えとは、字の如くに鶴が翼を広げたように陣を張ることです。
翼で敵を包み混んでしまうのですから、大勢でないとできません。

ふかくは不覚で、いろいろ意味がありますけど、「おろかなこと」がいいでしょう。

徒士(かち)立も意味がわかりません。
とにかく、山越は、馬に乗って敵の本陣に切り込んだのです



鬨の声を、城の内と外であげるとは、塀で囲まれた城が必要です。
作者の頭の中には、どうも近世のお城のイメージがありそうです。
城から出るときにも、どうぞお通りくださいというはずはなく、かなりのドラマがあったはずです。

そう山越さんは、討ち死にせよとの装束をもらっていたのでした
自害なんて、もってのほかです

でも、どこで戦っているのでしょう?
どこまで柄杓山城(桐生城)なのでしょう?


日枝神社に行ったことがあります。
ここも柄杓山城の一角だったようです





「桐生城跡 日枝神社のクスノキ群」とあります。

ハイキングコースの案内です。



何年か前、右上のpの所に駐車して、本丸後まで歩いたことがあります。
大変な山道で、歩くではなく、登るでした
戦っている場所は、この図の左部分のどこかかもしれません

 

 

 

初稿  2019.08.30  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.09.17

 

 

(つづく)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誠に香車の勢いなり(桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その1)

2024-09-15 20:30:22 | 桐生老談記の世界

夕方、怪しい黒雲が出て、遠くで雷鳴もしています

でも、ひめちゃんは、いつも通り中学校の信号付近まで行ってきました。

急げや、急げ

少しぬれたけど、なんとか無事におうちにたどり着きました

大雨の一夜になりそうです。

 

2022年9月のある日、ひめちゃんとタバサねーちゃんの朝散歩です。

ケンくんと出会いました

 

大好きなケンくんに逢えて、アタチしあわせでふ

初めは用心していたタバサねーちゃんも、いつの間にかケンくんが好きになっていました

 

初恋でございますですよ

 

 

 

誠に香車の勢いなり(桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その1)


去る程に寄手四方を取りかこみて、責め太鼓を打ちて鬨(とき)の音を上げ、城内にも同じく鬨(とき)を合せ、兼ねて用意の事なれば、驚ろく景色もなく、中にも山越は今日を限りと思い詰め、日頃一味の人々には、木村、岩下、広瀬各々心を合わせて、一散に乗り出し、左右敵の陣を見まわしける所に、

中里山の腰に旗一流し、大将の陣所とおぼしき様に見えける。

上下六十騎ばかり一度に駒を乗り出し篤と駒をならべ、荒戸村別当ヶ瀬を渡り、敵陣に向かって大声を上げ、「是は定めて大将の本陣にて候うべし。某等は桐生譜代の家臣、木村、山下、広瀬、山越なり。手並みの程を試み候え」と、真一文字に敵陣にかけ入りしは誠に香車の勢いなり。



あらすじです。

そうこうしているうちに、寄手(由良方)は、柄杓山城の四方を取り囲んで、太鼓を打って鬨(とき)の声をあげました。
城内でも、鬨の声をあげ、かねてから用意していたことなので、驚く様子もありません。


その中でも、山越は今日を限りと思い詰め、いつも仲間である人々の、木村、岩下、広瀬と心を合わせて、わきめもふらずに乗り出し、左右の敵陣を見まわしたところ、中里山の腰に旗が一流し見えて、大将の陣所らしく見えました。

上下六十騎ほどで一斉に駒を乗り出し篤と駒をならべて、、荒戸村別当ヶ瀬を渡り、敵陣に向かって大声を上げ、「ここはきっと、大将の本陣でしょう。私たちは桐生家譜代の家臣、木村、山下、広瀬、山越です。我らが実力を試してみたまえ。」と、脇目も振らずに敵陣にかけ入ったのは、本当に「香車の勢い」であった。




早朝に謀反が露見して、30人あまりを処刑しました
それから、戦闘態勢に入りました。
「かねてから用意していたことなので、驚く様子もありません。」とは、ちょっと矛盾する表現です。
謀反が露見して、慌てて早鐘をついて召集したはずでした

最初から「今日を限り」の雰囲気でした
「今日を限り」とは、敗戦をかさねて、もうダメだという時の表現だと思いますけど、まだ戦わないうちから「今日を限り」なんて


由良勢が柄杓山城の四方を取り囲んだとあります。
柄杓山城の範囲はどこまででしょう?

柄杓山城全体とすると、かなりの広範囲です。

取り囲むには、相当の人数が必要です

本丸だとしても、本丸に至るにはそれなりの戦いがあったはずです

鬨の声とは、あの「エイエイ、オウ」というやつですね
山越は木村、岩下、広瀬と決死の覚悟で城から打って出ます。
総勢60騎とは、「まだまだこんなに残っていたの」という感じです。


中里山、荒戸村別当ヶ瀬は現在のどこか分かりません。
でも、おそらく鳳仙寺または青蓮寺または天満宮のあたりかな?
どうも南の方に打って出た感じです


香車(きょうしゃ)とは、将棋で前方にだけいくつでも進めるコマだそうです。
香車の勢いとは、脇目も振らずに突進していく様子になります


なんとしても、華々しく散ってもらいたいようです。

 

 

初稿  2019.08.29  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.09.15

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

討ち死にせよとの装束なり(桐生家中談判露見の事・その3)

2024-09-13 15:11:16 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、ワガママ全開中です

「雨が降りそうでふよ、中に入れないとアタチ挟まってまふ」しちゃうでふよ

お天気が怪しくなると大騒ぎ

雨雲レーダーは、夕方から雨だと言うけれど、もう騒いでます

酷暑でも、夜は室内犬してます。

暑がりタバサねーちゃんは、よい子で外のサークルで過ごしてます。

 

5年前の9月、ひめちゃんは獅子丸と堀之内を北に出て、蕨沢川の源流の童沢貯水池にまで行ってました。

途中には大きな牛舎がありました。

 

獅子丸はタバサねーちゃんとも仲良しでした。

2人には、ぬいぐるみを解体新書しないという共通点がありました

このころのひめちゃんは、解体新書の名人でした

最近は、ひめちゃんも年をとりました。

七海ママの形見・キリンのぬいぐるみ枕は、ひめちゃんのハウスで生きながらえています

 

 

 



桐生家中談判露見の事・その3(討ち死にせよとの装束なり)

本城には津布久刑部、前原与四郎、同左衛門、岩水喜太郎、垣上兼松、小曽根仙左衛門、同清五郎、遠藤半左衛門、根本源六、片山小兵衛、村山弥九郎を城に残し置きける。

夫よりも山越は今日を最後の合戦、こころの儘に(ままに)せよと上意にて、其の日の出で立ちには、白糸落とし(おどし)の鎧(よろい)着し、白星の兜を頂き、二十四刺したる白羽の矢負い、籐巻(とうまき)の弓を落ち白栗毛の馬に白地の鞍置いて乗りたり。

是は皆親綱より最後の出で立ちなりとて、是を下され、討ち死にせよとの装束なり。

岩下玄蕃、広瀬一甫、木村縫蔵殿いずれもおとらぬ出で立ちなり。

五六十騎を随え、町屋口をかため、敵おそしと待ち懸けたり。

此の如く手合わせして、軍慮はあっぱれ、いさましけれども、みな敵の心になりければ、さながら蔵の内に盗人を込めたるに似て、諸人おかしくおもわれけり。



あらすじです。

柄杓山城には、津布久刑部、前原与四郎、同左衛門、岩水喜太郎、垣上兼松、小曽根仙左衛門、同清五郎、遠藤半左衛門、根本源六、片山小兵衛、村山弥九郎を残しました。


山越は「今日を最後の合戦として、こころの儘に(ままに)せよ。」という親綱の指示で、、その日の装束は、白糸落とし(おどし)の鎧(よろい)に、白星の兜を頂き、二十四本刺した白羽の矢負い、籐巻(とうまき)の弓を持ち白栗毛の馬に白地の鞍置いて乗りました。
これは、みんな親綱から最後の装束だと下されたもので、討ち死にせよという装束でした
岩下玄蕃、広瀬一甫、木村縫蔵殿は、いずれもおとらぬ装束でした
そして五六十騎を随え、町屋口をかためて、敵が来るのが遅いなあと待ち続けました。
このように勇ましく、戦の手配がなされましたけど、実はみんな由良氏と気脈を通じていましたので、蔵の中に盗人を閉じ込めるようなもので、人々は滑稽に思ったのでした。

 



謀反が露見して、30名以上血祭りに上げました。
当然、勝つつもりのはずですけど、最初からもうダメと決めてかかっているような感じです
山越さん、白ずくめの衣装です
死装束ですね
桐生城主親綱が山越さんに与えたとありますけど、「勝って来い」でなく、「討ち死にせよ。」だったとは

日本の本来の喪服は白だったそうで
明治になって欧米に合せて黒になったそうです。
白は死にゆく色であり、そして再生の色です

水を必要としている新田(由良)に意地悪をして、渡良瀬川の水を流さないようにしたのは桐生側です。
新田の反撃は当然予想されるはずで、もう落城の雰囲気とは

渡良瀬川の水は、今も新田側に引かれています。
水争いの場所かどうかわかりませんけど、いずれにせよ近くだと思いますけど、新田堀取水口があります。



国道50号線をくぐって、渡良瀬川から流れ込んでます。
桐生市広沢町の南の方です。
少し南は太田市です。
金山城もさほど遠くはありません

 

 

 

初稿  2019.08.25  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.09.13

 

(桐生家中談判露見の事・終)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

扨て軍勢の手分けを定め(桐生家中の談判露見の事・その 2)

2024-09-11 13:58:18 | 桐生老談記の世界

今朝はまた猛烈な日差しが復活です

ひめちゃんは、堀之内を西に出て天神田を歩いてきました。

赤城山は少しかすんでるけど、その姿を見せてます。

浅間山は全く姿を見せません。

 

本日は、2019年10月の獅子くんアーカイブです

 

このころ、獅子丸は足の爪を痛めていました

暑い日差しを避けるために、おとうさんがサークルに黒い布をかけたのです。

彼は必死でそれを取り除こうとして、爪を痛めてしまったのです。

養家で、暗闇に閉じ込められたことがあったのでしょう

深い心の傷の一つだったのです

我が家で生まれた子であっても、7年もよそで暮らしているとわからないことがあります。

明るく元気な獅子丸の深い心の傷が明らかになった事件でした

 

この頃は、ひめちゃんと一緒に、よく七海ママのそこらまでのちい散歩(小さな散歩)に同行していました。

諸般の事情で、実家に連れ帰ることを決断して、連れ帰ったことは本当謂良かったと思います。

実家で短かったけれど、みんなと賑やかに暮らせました

 

 

 

 

『桐生老談記』、「桐生家中の談判露見の事」の続きです。

桐生家中の談判露見の事・その2(扨て(さて)軍勢の手分けを定め)

 

扨て(さて)軍勢の手分けを定め、先づ内田庄之介、稲垣主膳、生方治郎右衛門、垣上半五郎、外山重郎左衛門、此れ等は手勢六十騎ばかりを随えて、鐘堂橋の前の際迄出にけり。

蓮太郎右衛門、永井弥太郎、飯塚播磨、長沢幸右衛門、馬見田助次郎、是等は八十騎を随えて、町屋の裏梅原の川原に出張りして、前後見合い待ちかけたり。

稲垣次郎、白石平蔵などは三十騎にて浅部山の麓の小道をふせぎ、峰には遠見の番所を構えたり。

須永八蔵、柴崎九郎兵衛、佐下橋倉之助、小林平八郎、栗原又六などは荒戸の要害の堀の岸に出張りをいたしけり。

藍原左近、須藤帯刀などは其の日早旦に、荒戸の寄居の峯に登り、敵来らばつげ知らせんと生松葉を積み重ね、煙をあい図に待ちいたり。



あらすじです。


さて、裏切り者を血祭りにしたあと、軍勢を手分けします。

内田庄之介、稲垣主膳、生方治郎右衛門、垣上半五郎、外山重郎左衛門たちは、手勢六十騎ばかりを随えて、鐘堂橋の前まで出ました。


蓮太郎右衛門、永井弥太郎、飯塚播磨、長沢幸右衛門、馬見田助次郎たちはは八十騎を随えて、町屋の裏梅原の川原に陣を構え戦闘開始を待ちます。
稲垣次郎、白石平蔵などは三十騎で、浅部山の麓の小道をふさぎ、峰には遠見の番所を構えました。


須永八蔵、柴崎九郎兵衛、佐下橋倉之助、小林平八郎、栗原又六などは荒戸の要害の堀の岸に陣を構えました。


藍原左近、須藤帯刀などはその日の朝早くに、荒戸の寄居の峯に登り、敵来たならば報告しようと、生松葉を積み重ね、煙をあい図にしようと待っていました。




鐘堂橋がどこか、わかりません
桐生川にかかる橋だと思いますけど。
最初に出てくるので、桐生城(柄杓山城)に近いところでしょう

町屋の裏・梅原の川原とは、梅原薬師堂のあたりの川原でしょうか?
梅原薬師堂は、あの桐生六郎の館跡といわれていますね
そして後に由良氏もこのあたりをを居館にしていたと聞いた事があります
七十過ぎて馬上の人となった妙院尼照子は、柄杓山から出撃したのではなく、ここから出たのだと聞いたことがあります

浅部山は旧浅部村の中心の山でしょう。
『桐生地名考』によれば、現在の梅田町2丁目のあたりだそうです
浅部村は承応年間(1652~1655)に上久方村より分村し、村の中心にある浅部山を村名にしたとあります
浅は緩傾斜地の意味で、城への通路があったのでしょうか
柄杓山の真東と云うより、北東になります
敵の来襲を見張る番所を造ったんですね


由良勢はどこから来るのでしょう


荒戸の要害の堀の岸に陣を構えたのですね。
柄杓山よりもっと南ですね。

荒戸の寄居の峯、場所はわかりませんけど、ここも柄杓山より南です。

敵の来襲を知らせようとしたので、かなり南でしょうか?
生松葉を炊くのですね


時間的に、よく間に合ったなと思います。
金山城から柄杓山まで、そんなには離れていないのです

 

初稿  2019.08.22 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.09.11

 

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まず逆党の張本なれば(桐生家中の談判露見の事・その1)

2024-09-09 16:13:50 | 桐生老談記の世界

昨日夜半から今日未明にかけて。激しい雷雨に襲われました

なので寝坊してしまって、ちょっと遅めの朝散歩になりました

草が伸びている道は露をしっかり含んでいて、お散歩には不向きです。

ひめちゃんは、堀之内を西に出て、まあ天神田の無難な道を歩いてきました。

 

5年前の今頃、ムーハウスは賑やかでした

七海ママもまだ健在、群れのリーダーはママでした

獅子丸も実家に帰ってから3ヶ月、遠慮なく実家の生活をエンジョイしてます

 

小次郎パパ&ののこねーちゃん&タバサねーちゃん、3名での散歩もよくありました

 

 







桐生家中の談判露見の事・その1(まず逆党の張本なれば)

去る程に、同十一日早旦に、桐生家中の談判(一説にー謀反)露見に及び大将役の人々大いに驚き、早鐘をついて人を集め蹴れども、頼みきったる老中をはじめ、下民に至る迄悉く敵心になりにければ、集まる人もなし。

されども在城の人々には、津布子、山越、前原、岩水、垣上、小曽根、遠藤、根本、片山、村上、木村、岩下、広瀬、永井、飯塚、蓮、長沢、馬見田、内田、稲垣、河嶋、生方、戸山漸く三百騎にすぎず。

扨て(さて)、急に敵寄せ来り候えば、逆賊を後日に罪科せしむべし。

併し(しかし)まず逆党の張本なれば、岩間、中嶋、野口を召し捕り軍神の血祭りに、白砂にて首をはね、扨て其の首を化粧坂に掛けられたり。その外の軽率ども三十人ばかり頭をはね、荒戸鷺沼の南、稲荷塚の成敗所にて掛けられけり。

 



あらすじです。

そうしているうちに3月11日の早朝、桐生家中の謀反が露見しました
重役たちは大いに驚いて、早鐘をついて人を集めました。


けれども、頼みにしていた老中から、下民にいたるまで、悉く由良方になっていたので、集まる人もいませんでした

そうではありましたけど、桐生城(柄杓山城)中には、津布子、山越、前原、岩水、垣上、小曽根、遠藤、根本、片山、村上、木村、岩下、広瀬、永井、飯塚、蓮、長沢、馬見田、内田、稲垣、河嶋、生方、戸山など、300騎に満たない人々がいました。

さて、急な敵の襲来だったので、裏切り者は後日に処罰するべきでした。
しかし、裏切り者の張本人・岩間、中嶋、野口を召し捕り軍神の血祭りにあげ白砂で首をはねて、その首を化粧坂にかけられました
さらに、その外の軽率ども30人ばかりの頭をはね、荒戸鷺沼の南、稲荷塚の成敗所にかけられました

 



「謀反が露見」の経緯がわかりません


敵(由良氏)がやってくるという情報が入ったのでしょうか

早鐘とは、消防の半鐘のようなものでしょうか?
緊急事態と打ちならされる鐘にも、集まる人はいなかったのです
集合先は、桐生城(柄杓山城ひしゃくやまじょう)です。


数年前、右上のコース案内板の下・Pに車を置いて、本丸目指して登りました。
何が出るか分からないほどの、草に覆われたハイキングコースでした


だれも来ないけれど、城中には300騎もいたといいます
300騎も生活は難しいかな


史実的には、桐生城(柄杓山城ひしゃくやまじょう)は、何かの時の籠城用で、普段は西南麓の謂雲寺(いうんじ)のあたりが居館だったといいます



謂雲寺から見た柄杓山です
柄杓山城に桐生氏(佐野氏)が、いつも住んでいたわけではないのです


まあ、とても忙しいはずなのに、謀反の張本人として岩間、中嶋、野口を捉えて断罪にし首を化粧坂に懸けています
どうして、この3人が謀反の張本人とわかったのでしょうか


詮議などしている時間は無いはずだし、そう簡単に処刑してしまっていいのかな
おまけに、今味方は300騎で、たいした身分でもないもの30人ばかりの頭をはねて、荒戸鷺沼の南、稲荷塚の成敗所にかけたとは


化粧坂、荒戸鷺沼の南・稲荷塚の成敗所、ともに場所はわかりません


由良勢が来ているのに、そんなことをしている暇などないでしょうに

 

 

初稿  2019.08.17

改稿  2024.09.09

 

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする