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鮎川駅から国道108」」せ線に向かって400m弱の所に由利町の史跡に指定されていた立井地に馬頭観世音が祀られてる。
天正3年(1575)由利十二頭の一人滝沢政家は、米山の西の館を居城としていたが、矢島城主の大井五郎満安の夜襲にあい落城し、多くの家臣とともに自害しました。(1575年といえば武田軍と織田信長、徳川家康連合軍が三河で戦った長篠の戦いのあった年です。織田信長の鉄砲隊が活躍した戦いでもあります。)
その子、滝沢仲蔵は、院内の仁賀保氏のもとへ落ちのびる途中で、立井地の川(たぶん鮎川でしょう)のほとりにさしかかった時、いつの時でも乗っていた馬が過労のため倒れ死んでしましました。仲蔵はいたしかたなく山崎館におもむき、館主鮎川小平太の助けを借りて仁賀保にたどり着いたといいます。
里人は、この馬の死を哀れみ手厚くほうむり、そのかたわらに祠(ほこら)を建てて「馬頭観世音」としてまつったのです。以前は子吉川のほとりにあったのですが、河川改修の際に、この場所に移されたのです。
ということは、江戸時代から立井地を見守っていたんです。
*馬頭観音はサンスクリット語でハヤグリーヴァと呼ばれている観音様です。ハヤグリーヴァは「馬の首」の意味で、ヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあります。
馬頭観音は、菩薩の一尊で観音菩薩の変化身の1つであり、いわゆる「六観音」の一尊にも数えられ、畜生道に迷う人々を救済します。
近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなりました。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていきました。特に、このような例は中馬街道などで見られます。(立井地の馬頭観世音もこの例に当たると思います)
また家畜の安全と健康を祈り、旅の道中を守る観音様として信仰されました。馬は武家も農民にも生活の一部となっており、馬を供養する仏としても信仰されました。競馬場の近くによく祀られ、レース中の事故で亡くなった馬を供養していることも多いです。
観音様が女性的な美しい表情であることが多いですが、馬頭観音は怒りの憤怒の形相で表され、馬頭明王と呼ばれることもあります。怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ尽くし災難を取り除くとされています。 ここから鳴瀬館を目指し南福田に向かいます。
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