吉野ケ里遺跡は、今から1800年前、弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)の吉野ケ里を復元したものである。
2400年前、朝鮮半島南部から北部九州に稲作耕作が伝わり「生産」が始まった。食料生産が安定することによって、人口は増加し住居も増えたが、土地や水、貯蔵された穀物をめぐって争いが起きるようになる。やがて、それが組織的な戦いに発展したのだという。
日本史を学んだのは高校生までだ。ウン10年も経っているので、穏やかな稲作王国というイメージを勝手に作っていた。無知とは恐ろしい。
遺跡からは石鏃、銅鏃、石剣、鉄剣などが多数出土している。また、350体以上発見された人骨には、頭骨のない男性、材質の異なる10本の鏃(やじり)を射込まれた男性、剣の刺さったものなどがあり、戦いによる犠牲者が出ていたことがわかった。
武器の倉を見ると、当時の戦い方が想像できる。
また、敵の侵入を防ぐために逆茂木をめぐらせたり
物見櫓から監視もしていたようだ。
集落には様々な建物がある。
大人(たいじん)の家。
中にも入ることができる。
主婦としては、煮炊屋の中が気になった。
王の家は屋根が立派。
倉は高床式で、ねずみ返しがついている。
ひときわ大きな建物は主祭殿。指導者たちが話し合ったり、最高司祭者が祖先の霊に祈りをささげたりしていたようだ。
髪型に時代が表れている。
部屋の隅に置かれた加湿器らしきものに、クスクス笑いをしてしまった。
当時の衣装も展示されていた。
上層人の衣装には絹、庶民の衣装には麻が使われていたそうだ。庶民の衣装を着るコーナーもあったが、あまりにも質素なので遠慮しておいた。上層人の衣装だったら着たかったのだが……。
特に興味を引かれたものが「甕棺(かめかん)」である。これは、素焼きの土器を使った棺で、北部九州地域に特徴的な墓制らしい。
埋葬された場所や配置、副葬品の有無や種類から当時の階層、社会制度を復元するのに役立つという。
北墳丘墓は吉野ケ里を治めていた歴代の王の墓で、14基の甕棺が見つかっている。一般の墓と違って、ガラス製の管玉(くだたま)や青銅の剣などの副葬品が収められていたところから、身分の高さがうかがえるというわけだ。
甕棺は2つ使用する。一つの甕棺に死者を収め、もう一つの甕棺を粘土でつなぎ合わせていた。
北墳丘墓からさらに北上すると、一般庶民が葬られた甕棺墓列がある。
血縁関係のある一族の集まりが、20mから40mごとにひとかたまりになっていて、死んだ後も一緒にいられるのだ。埋葬したあとは土まんじゅうで目印を作ったという。
甕棺墓は、現在3500基以上が発見されているが、未発掘の区域も多いため、膨大な数が地下に埋まっているそうだ。
夢中で見ていたら、お昼の時間になっていた。レストランで「吉野ケ里御膳」をいただいた。
あっさりしていて品数も多く、どのおかずも美味しかったので、おススメしたい。
満足して帰路についた。
ところが、この日の夜から、丑三つ時になると目が覚めることが続いた。長いことお墓を見ていたので、何かがくっついてきたのかもしれない。3日後からはぐっすり眠れるようになったが、レジャー気分で見て回り、死者への配慮が足りなかったことを反省する。
安らかな眠りを妨げないように、静かに静かに見学してください。
↑
クリックしてくださるとウレシイです♪
※ 他にもこんなブログやってます。よろしければご覧になってください!
「いとをかし~笹木砂希~」(エッセイ)
「うつろひ~笹木砂希~」(日記)
2400年前、朝鮮半島南部から北部九州に稲作耕作が伝わり「生産」が始まった。食料生産が安定することによって、人口は増加し住居も増えたが、土地や水、貯蔵された穀物をめぐって争いが起きるようになる。やがて、それが組織的な戦いに発展したのだという。
日本史を学んだのは高校生までだ。ウン10年も経っているので、穏やかな稲作王国というイメージを勝手に作っていた。無知とは恐ろしい。
遺跡からは石鏃、銅鏃、石剣、鉄剣などが多数出土している。また、350体以上発見された人骨には、頭骨のない男性、材質の異なる10本の鏃(やじり)を射込まれた男性、剣の刺さったものなどがあり、戦いによる犠牲者が出ていたことがわかった。
武器の倉を見ると、当時の戦い方が想像できる。
また、敵の侵入を防ぐために逆茂木をめぐらせたり
物見櫓から監視もしていたようだ。
集落には様々な建物がある。
大人(たいじん)の家。
中にも入ることができる。
主婦としては、煮炊屋の中が気になった。
王の家は屋根が立派。
倉は高床式で、ねずみ返しがついている。
ひときわ大きな建物は主祭殿。指導者たちが話し合ったり、最高司祭者が祖先の霊に祈りをささげたりしていたようだ。
髪型に時代が表れている。
部屋の隅に置かれた加湿器らしきものに、クスクス笑いをしてしまった。
当時の衣装も展示されていた。
上層人の衣装には絹、庶民の衣装には麻が使われていたそうだ。庶民の衣装を着るコーナーもあったが、あまりにも質素なので遠慮しておいた。上層人の衣装だったら着たかったのだが……。
特に興味を引かれたものが「甕棺(かめかん)」である。これは、素焼きの土器を使った棺で、北部九州地域に特徴的な墓制らしい。
埋葬された場所や配置、副葬品の有無や種類から当時の階層、社会制度を復元するのに役立つという。
北墳丘墓は吉野ケ里を治めていた歴代の王の墓で、14基の甕棺が見つかっている。一般の墓と違って、ガラス製の管玉(くだたま)や青銅の剣などの副葬品が収められていたところから、身分の高さがうかがえるというわけだ。
甕棺は2つ使用する。一つの甕棺に死者を収め、もう一つの甕棺を粘土でつなぎ合わせていた。
北墳丘墓からさらに北上すると、一般庶民が葬られた甕棺墓列がある。
血縁関係のある一族の集まりが、20mから40mごとにひとかたまりになっていて、死んだ後も一緒にいられるのだ。埋葬したあとは土まんじゅうで目印を作ったという。
甕棺墓は、現在3500基以上が発見されているが、未発掘の区域も多いため、膨大な数が地下に埋まっているそうだ。
夢中で見ていたら、お昼の時間になっていた。レストランで「吉野ケ里御膳」をいただいた。
あっさりしていて品数も多く、どのおかずも美味しかったので、おススメしたい。
満足して帰路についた。
ところが、この日の夜から、丑三つ時になると目が覚めることが続いた。長いことお墓を見ていたので、何かがくっついてきたのかもしれない。3日後からはぐっすり眠れるようになったが、レジャー気分で見て回り、死者への配慮が足りなかったことを反省する。
安らかな眠りを妨げないように、静かに静かに見学してください。
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「いとをかし~笹木砂希~」(エッセイ)
「うつろひ~笹木砂希~」(日記)
やっぱり囲いをつくって敵と対峙していたところを見ると同じような勢力が近くに幾つもあったのでしょうか。映画「七人の侍」を連想してしまいました。
吉野ケ里はもっと調べると新たな発見があるかも…邪馬台国との関係とか~(  ̄_ ̄)ボー
手っ取り早い手掛かりなんでしょうけど、古代遺跡には墓とトイレがつきものですね(笑)
以前日光で滝の霊を連れ帰ったこともあったのでは?
誰にでも好かれる体質なんでしょうか…(*^^*)ポッ
タイトルに笑いました。クックックッ!
吉野ケ里から出てきた人骨は、当時の平均身長より10cmほど高かったようです。
栄養状態がいいと、戦っても強かったでしょうね。
邪馬台国だったという説はロマンです。
でも私は霊媒師じゃないので、くっついてきても何もできないのよ~。
これを書いたあと、また夜中に目が覚めちゃいました。
トイレに行きたい気がしましたが、イヤな予感がして我慢我慢(笑)
でも稲作が伝わり貧富の差が生まれたため、争いも増えたのですね。
ン十年前の中学校の修学旅行で、登呂遺跡に行きました。
こちらほど整備はされてなかったけれど、建物や人形等見れて、興味深かったです。
吉野ケ里御膳、すごく美味しそう。
登呂遺跡は静岡駅からタクシーで10分ほど。
ガンダムを見るついでに立ち寄りました。
吉野ケ里に行ってビックリしたのは規模です。
登呂遺跡の何十倍あるかしら…。
建物の種類もけた違いでした。
さらに、中が見られるサービス付き。
佐賀県が相当な力を入れたようです。
実は、何年か前に「修学旅行でぜひ佐賀に」というパンフレットが送られてきたんです。
つい、個人で行っちゃいました(笑)
気になっている遺跡です。
古代史や考古学は大好きなジャンル。
奈良などの古墳、青森の「三内丸山遺跡」など、訪ねたい。
仕事と仕事の合間に行きました。
1泊2日の強行軍です。
終わった後の疲れといったら……。
でも、それだけの価値はありましたよ。
昔の人々は、現代人よりずっと知恵や工夫があったのでしょうね。
文明が発達した分、人間はどんどん愚かになっている気がします。
青森にも遺跡があるんですね。
今度調べてみようっと。
狩猟にしても農作にしても争いの種になるのね。
喧嘩はしないと教えるのはDNA に逆らう所業なのかも。
甕棺の甕が書けなくて、テストの時に苦しんだのを思い出しました。罰当たりです。
甕という漢字は書けなくて当然ですよ(笑)
しかし、文学を極めた方だと、要求水準が高いのでしょうね。
争いは常に貧富の差から起きるもののようです。
米大統領選がいい例かもしれませんね。
三内丸山遺跡を検索してみました。
縄文時代の遺跡なんですね。
吉野ケ里の路線を期待してはいけないようですが、これはこれでいい気がします。
機会があったら行ってみようっと。