全体と部分の本質について…
単細胞体は、一つで全体(生命体として全体)。
カイメン体は、単細胞が集まって全体。
ただ…単細胞の更なる分解も可能。
ただし、それ以下の分解では非生命体化してしまい、生命体の本質を離れてしまう…
単細胞体は、単細胞の本質=単細胞体の本質。
カイメン体では、単細胞の本質が集まって量質転化してカイメン体の本質。
単細胞の本質≠カイメンの本質
では、人間・人体は、どうなのだろうか?
多くの細胞が集まって、頭脳、神経組織、感覚器官、内臓、骨、筋肉…から構成されている。
それらが、頭脳によって総括・統括されて、人間として生活している。
ここには、単細胞としての本質があり、
また、多細胞から構成された、頭脳、神経組織、感覚器官、内臓、骨、筋肉…のそれぞれの本質があり、最後に、人間としての本質、が考えられる。
そう、本質とは事実してある、のではなく、論理として人間が見て取るモノ。
全体には、部分があり、その部分の一つ一つもまた全体として見て取る事が可能。
より正確には、全体の本質を見て取る事も可能なら、部分・部分の本質も見て取る事が可能。
部分が集まって全体なら、集まっている一つ一つの部分も全体と捉えられる。
もっとも…それは、現代の人類だから言える事で、
過去の人類にとっては、部分は部分で、全体は全体であったのだろう。
本質の二重性⇒、実体的な本質・機能的な本質。
合わせて、本質的な本質。
↑のように考えられるのは、人間の本質的な特性であろうか…
それは人間の頭脳には、「実体的な頭脳細胞の本質」と「機能的な頭脳活動・認識の本質」があるからだろう。
人間だけが、対象の二重化が可能なのは、人間には「本能的な認識と非本能的な認識」があるから…
オマケを書こう!
ピンチはチャンス⇒ ピンチ=チャンス。
ピンチがチャンス⇒ ピンチこそがチャンス。
ピンチをチャンス⇒ ピンチをチャンスに換える。
上記のような言い回しが可能である。
これが可能なのは、「ピンチ」と「チャンス」の本質が同じだから…であろう。
それは、人間が、「ある事・ある状態」を「ピンチorチャンス」と認識している、から、である。
なので、ある一つの事実(ある事・ある状態)を、ピンチと認識するもチャンスと認識するも、その人の自由選択である。
例えば、野球の9回裏で、二死満塁で、
バッターが2ストライク・3ボールの状態を「チャンスorピンチ」?
攻撃側は、ワンヒットで勝利(チャンス)、一回限りのチャンス(ピンチ)…
守備側は、ストライク一本で勝利(チャンス)、ボール一球で敗北(ピンチ)
「ピンチ・チャンス」のそれぞれの言葉・意味・認識としての本質は異なっていても、
そのように解釈している対象・事実は、同じモノ物事という事もあり得る(本質)。
上記の後半の「オマケ」部分は、↓以下のtada氏の以下の言説を意識して書いてみた!
>「ピンチはチャンスのコメント読ませていただきました。ピンチからの(主体的な)脱出ですね。面白いです。映画「ショーシャンクの空」を思い出しました。主人公アンディ・デュフレーンは私のヒーローです。原作はスティーブン・キングですが この作品は本歌取りで 元歌 つまりモデルがあるんですね。答えは次回ですよ。(笑) 」
↑
「答えは次回…」を期待していますよtadaさん!
また、↑の
「ピンチからの(主体的な)脱出」という言葉…なかなか意味深の言葉ですね♪♪♪
tadaさんの認識・表現力に改めて感激しています。
もっとも…その能力を読み取れる私になり得た事への感激でもありますが…
前半部分は、以下の記述を意識して書きましたが…
>「思考方法としては 演繹的方法が哲学的です。帰納的方法が科学的です。が 実際は両方が複雑に関連しています。煎じて詰まれば 弁証法になります。全体と部分について それぞれの本質論は実際の対象次第で決まりますので 全体と部分が同じ場合もあれば 違う場合もあるわけです。」
どうですか?tadaさん!
私の今回の記事・内容は、tadaさん認識に近似的になりえていますか?近づいていますか?