新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・全体と部分の問題~

2023-08-28 12:10:17 | ~ものは考えよう~



全体と部分の本質について…


単細胞体は、一つで全体(生命体として全体)。
カイメン体は、単細胞が集まって全体。
ただ…単細胞の更なる分解も可能。
ただし、それ以下の分解では非生命体化してしまい、生命体の本質を離れてしまう…


単細胞体は、単細胞の本質=単細胞体の本質。
カイメン体では、単細胞の本質が集まって量質転化してカイメン体の本質。
単細胞の本質≠カイメンの本質


では、人間・人体は、どうなのだろうか?

多くの細胞が集まって、頭脳、神経組織、感覚器官、内臓、骨、筋肉…から構成されている。
それらが、頭脳によって総括・統括されて、人間として生活している。

ここには、単細胞としての本質があり、
また、多細胞から構成された、頭脳、神経組織、感覚器官、内臓、骨、筋肉…のそれぞれの本質があり、最後に、人間としての本質、が考えられる。

そう、本質とは事実してある、のではなく、論理として人間が見て取るモノ。

全体には、部分があり、その部分の一つ一つもまた全体として見て取る事が可能。
より正確には、全体の本質を見て取る事も可能なら、部分・部分の本質も見て取る事が可能。
部分が集まって全体なら、集まっている一つ一つの部分も全体と捉えられる。

もっとも…それは、現代の人類だから言える事で、
過去の人類にとっては、部分は部分で、全体は全体であったのだろう。

本質の二重性⇒、実体的な本質・機能的な本質。
合わせて、本質的な本質。

↑のように考えられるのは、人間の本質的な特性であろうか…

それは人間の頭脳には、「実体的な頭脳細胞の本質」と「機能的な頭脳活動・認識の本質」があるからだろう。
人間だけが、対象の二重化が可能なのは、人間には「本能的な認識と非本能的な認識」があるから…

オマケを書こう!

ピンチはチャンス⇒ ピンチ=チャンス。
ピンチがチャンス⇒ ピンチこそがチャンス。
ピンチをチャンス⇒ ピンチをチャンスに換える。

上記のような言い回しが可能である。
これが可能なのは、「ピンチ」と「チャンス」の本質が同じだから…であろう。
それは、人間が、「ある事・ある状態」を「ピンチorチャンス」と認識している、から、である。


なので、ある一つの事実(ある事・ある状態)を、ピンチと認識するもチャンスと認識するも、その人の自由選択である。


例えば、野球の9回裏で、二死満塁で、
バッターが2ストライク・3ボールの状態を「チャンスorピンチ」?

攻撃側は、ワンヒットで勝利(チャンス)、一回限りのチャンス(ピンチ)…
守備側は、ストライク一本で勝利(チャンス)、ボール一球で敗北(ピンチ)

「ピンチ・チャンス」のそれぞれの言葉・意味・認識としての本質は異なっていても、
そのように解釈している対象・事実は、同じモノ物事という事もあり得る(本質)。


上記の後半の「オマケ」部分は、↓以下のtada氏の以下の言説を意識して書いてみた!

>「ピンチはチャンスのコメント読ませていただきました。ピンチからの(主体的な)脱出ですね。面白いです。映画「ショーシャンクの空」を思い出しました。主人公アンディ・デュフレーンは私のヒーローです。原作はスティーブン・キングですが この作品は本歌取りで 元歌 つまりモデルがあるんですね。答えは次回ですよ。(笑) 」


「答えは次回…」を期待していますよtadaさん!



また、↑の
「ピンチからの(主体的な)脱出」という言葉…なかなか意味深の言葉ですね♪♪♪
tadaさんの認識・表現力に改めて感激しています。
もっとも…その能力を読み取れる私になり得た事への感激でもありますが…



前半部分は、以下の記述を意識して書きましたが…

>「思考方法としては 演繹的方法が哲学的です。帰納的方法が科学的です。が 実際は両方が複雑に関連しています。煎じて詰まれば 弁証法になります。全体と部分について それぞれの本質論は実際の対象次第で決まりますので 全体と部分が同じ場合もあれば 違う場合もあるわけです。」

どうですか?tadaさん!

私の今回の記事・内容は、tadaさん認識に近似的になりえていますか?近づいていますか?

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全体と部分の関係問題

2023-08-19 13:37:37 | ~ものは考えよう~
8月19日


全体と部分の関係問題~

なんごう つぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)  
を「羅甘菓」にて2023年3月9日から再読を始めて、

2023年8月12日に
なんごう つぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(6)
を自宅で読み終わった。

そんな途中で喜ばししい偶然的必然性的発見が発生した。

日時は8月初旬まだ“夢”講義(6)の途中に、
たまたま現代社のホームページ開いて見たら、
なんとビックリ「“夢”哲学原論[綱要]の発刊を知った。


早速、蔦屋へ行って取り寄せを頼んで、8月11日に読み始めた。
そう~この時は、“夢”講義(6)との併読となっていた。

そして、今日の朝、ハッキリと認識・自覚した事は、以下のようなモノである。

私は、ずっと分からずにいた…
何故に、柔道家・マラソンランナー達の失速・衰退の問題が、哲学の歴史・弁証法に関係するのか?
また、仰向け、這い這い歩き…等が関係するのか?
何故に、雑巾がけ、掃き掃除…が「這い這い」…なのか?

分からずとは、最近の公園トレーニングでは、
裸足で下向き「這い這い」歩き、上向き「這い這い」歩きを繰り返していた。


そして今日ハッキリした!
それは、全体・全身と手・足部分の関係性である…と。


過去の哲学の歴史は、無知から全体知へ向かい出発した。
全体知へ向かう為に部分知を集め始めた。

ギリシャ時代、何とかそれぞれの部分知から全体知への完成をみた。
その後ヘーゲルに至り、観念論的全体的・一体的な「哲学」の完成をみた。
その全体知を元に、部分知の深化・発展が始まり…
現代のような個別科学知の繁栄をみた、のだろう…

全ては妄想・推測・想像…(個人的な弁明)


問題は、子供時代の私、少なくても10年前までの私は、
全身が柔軟で、全力疾走が早い・遅いかは別として、
その走りは、違和感なく非常にスムーズであった。

しかし…ここ数年の私は、全力疾走ができ難い…
それは、走れても全身に違和感がある。

以前の私の全力疾走は、風を切るような感覚で、走れた。
でも、最近は、全力疾走なのに…全力で力んで歩いている、感覚である。


そうこれは、10年前までは、全身の筋肉・骨格・神経が一体的に全力で使えた。
でも、最近は、その全身の諸々のモノが一体的に使えない、という事だと理解した。
何しろ、当時は、開脚して座って、胸が床に付けられた。
それ程の全身的な柔軟性があった。

また、過去と現在の身体感覚の相違に気付けたのは、
最近始めた整体、内臓の位置矯正・調整や全身の骨格矯正・調整の結果だろう。
整体前と整体後の、それぞれの身体感覚の相違から…過去の感覚が思い起こせた。


師範が、武道としての空手を選んで正解、弁証法・哲学…に役立った、という理由。
それは、空手は「全身の武器化」、全身の一体的な武器化。
その全身の武器化の為には、部分の武器化から始めるから…
最終的には、全身的・一体的な武器化へ~



本能的な全身的運動から、意識的な部分的運動へ、
そして、それぞれの個別化した部分運動を全体的一体的な運動へ戻す「運動」。
そんな全体と部分の関係こそが「哲学の数千年の歴史」なのだろう。

「無知から部分的な有知」、「部分的有知は全体的無知」、「全体的一体的智慧」へ

これは、認識運動についても言える。
今年で67歳の私は21歳の息子のような柔軟な思考ができ難い。
「頭脳の柔軟性がない」とは、部分・部分の連携が悪い。
部分知と部分知を統括・統合する全体智の実力不足であろう…


以上のような思考が可能になった要因には、
今年の2月から始めた「毎朝のテレビ体操」の実践。
その5月から始めた毎朝の「骨ラブ体操」。
更に、数日前から始めた「下半身股関節の柔軟体操」。
それに室内での「ぶら下がり運動」。

思惟・思考の深化・発展には、
認識的な発展努力・読書と全身の統一的柔軟的な運動・体操が必要なのだろう…




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一気呵成の弁証法化

2023-07-23 12:57:36 | ~ものは考えよう~
一気呵成の弁証法化

三日ぶりにパソコンを開いたら、
相変わらずの空海お宅コメントが三本、
そして何と超・嬉しい事にtada氏からもコメントが届いていた。

早く読みたいtadaさんコメント!
ジックリゆっくり反論を書きたい空海コメント!

でも…忘れないうちに・今の私の認識が変化して、
今書いておきたい事が、書けなくなる前に、今日の記事を書く事にした。


ここ暫く「旧・悟りを求めて…」ブログを再アップしていた。
旧ブログの2013年・10年前の記事を読んでいて私は痛感した!

あの頃は、「書きたい!」、「書くのが楽しい♪」、「書けない事さえ理由に書けていた!」
そんな10年前の私認識と浸透させる中で…私に急激な変化が起こり得た。
もっとも…今の私の変化・状態は「家内を亡くした孤独の中で私認識の変化・運動」状態も大きく関係するが…

私は勝手に確信している。
「これは、弁証法の急激な量質転化であろう」(と信じたい・信じている・確信した・確信している)


そんな中一つ気付いた事は、「野球ボールが止まって見える」事の論理構造である。

それは、同じスピードで横並びに入っている自動車では、乗車者は互いに止まって見えている原理。

野球ボールが、視界に入った瞬間から、
バッターは、視ているボール像の一瞬・一瞬の視覚像を脳内で認識可能に像化している。
これを南郷氏の例えから考えるなら、
「認識が超薄いパンに一切れ」とするなら、
「普通の人は一切れが薄すぎて味わえない(数枚、人によっては数十枚で初めて味を感じ得る)
しかし、訓練・修業・修行の結果、超薄い一切れ、一切れを味わえる実力を養成したなら、普通と違ってくる。

認識像の場合、超スピードで変化している「ボール位置」の一つ一つが薄いパン片。
ボールが止まっている認識像とは、脳内でそのパン片が味わえる・一つ一つの位置を見て取れている事。
それは、昔の八ミリ映画なら、その動画を映画ではなく、一枚一枚のフィルムとして認識可能レベル、だろう。

師範曰く、
止めた像なら、当然また動かせる。
認識内の像を停める事が「思う」なら、像を動かす事が「考える」。
問題は、停めた思う像を、如何に目的意識的に動かすか…である。


仮にバッターが「ボールを止めて」見えたとても、
問題はバッティングが、その変化スビートに付いていけるか…であろう。

大谷翔平の凄い理由は、空手に例えるなら、一流の攻撃技・防御技を両備しているから、
一流・最高のスピードボールと一流・ホームラン可能なバッティングを持ち得ている二刀流だから。
もっとも…「二刀流」は分りやすい例えであるが…

確かにピッチャーにとって、スピード・変化ボールは、相手を倒す武器。
また、バッターにとって、バッティングは、投手を倒す武器。
なので、二刀流は、攻撃・武器が二つ。

それでも…
空手の突きが、相手に当てる・当てればよい(当てるだけの一重)。
空手の受けは、攻撃技に当てて、その技を無効にする(当てて無効化の二重)。

投手は、ボールを投げたら終わり(投げるだけの一重)の攻撃技。
打者は、ボールに当てて飛ばしヒット・ホームラン(当てて飛ばす二重)の防御技。


他に…今日の朝の柴犬マロン散歩で、道端で2023年の手帳とGATSBYを拾った。
「交番に届けようか?」、「でもたかが手帳やめようか?」そんな迷いの中で、
過去の私の拾得物対応の数々を想い出した。
その中で、道で幼稚園・保育園・小学生がする名札?(名前・住所もあった)を拾った事を思い出した。
その時、相手が子供だと分かったので、わざわざ封筒に入れて送った。
そこに敢えて、私の住所氏名も書き込んで。
すると数日後、丁寧な感謝の手紙を頂いた。


そんな想いの中で、今回の手帳は、文字からして大人だろう事は確か…
失礼な事を承知で中身を見たら、「Personal Data」を発見したので…
今回も郵送つるつもりで…
帰宅して封筒を見たら「長形3号/定型内最大」には、「GATSBY」は入らない事が判明した。
そこで…手帳だけを送る事にした…


この他、今回の取得物体験から、過去の私の拾得物体験の数々が想起された…
初めての拾得物は、一、二年生の頃、自宅近くの道端で拾った「使い古した櫛」だった。
見つけて拾った事?が嬉しくて母に見せたら「汚いから捨てなさい!」だった。
嬉しい私は、一瞬で不愉快…だったのだろうか…

また二、三年生頃、学生寮近くの道端で財布を拾ったら20円入っていたので、寮長先生に届けた事…

まだまだ想い出が湧いてきた。
それは、正に「私の拾得物の弁証法性」

師範が「風」という文字を見たら、無風・微風…強風・台風…」と
無限に想起するのが弁証法性、といった事を書いている。


私には現実界の自然・風体験が少ない事からか…「風」での想起はでき難い。
しかし、今回の「拾得物体験」からは、まだまだ、

今の自宅近くの公園前の道路で6万円入りの財布、
パチンコ屋で千円札二枚、一枚を一緒だった後輩に上げた、
一万円チャージ済のスイカー裏にディズニーシールが貼ってあった、
道路の真ん中に落ちていた車の修理器具一式入ったバック、
スーパーで拾ったクレジットカード、
電車の棚に忘れた通勤バック、
電車の中の雨傘…
横浜元町のチーミングセールの福引補助券、
福引の外れの10円金券、

当然に私の落とし物体験もある。

過去最大の落し物は、クレジット数枚と現金の入った財布、
最大に困った落し物は、自宅の二階マンションの鍵である。

40代の頃~
「鍵」で困った理由は、塾のバイト前に、公園トレーニングへ、その時に紛失。
必死に探しても見つけられず、息子は学校、家内は仕事。
仕方ないので、マンションの裏から、壁伝いで二階のベランダへ登った。
窓を開けようとしたら…なんと鍵がかかっていたダメ!
絶体絶命…塾バイトに遅刻!と焦ったが…
よく見ると…鍵のかけ方が浅い~
そこで、窓枠をグラグラしたら…何とラッキーな事に鍵が外れた。


その日の夜、家内に話したら「警察へ行ってみたら!」
正直、私は、鍵を交番に届けた事はなかった。
で…なんと警察に届けられていた。

そうそう財布の翌日、交番で尋ねたら、届けられていた。
内心、「クレジットカードの停止しなければ…」と悔しい想いが…゜

確かに、私は、鍵もよく拾った、でも、その時は、落ちていた傍に目立つように置いていた。

カギの紛失~
そう数年前、コロナ全盛の頃、柴犬マロン散歩でカギを落とした。
帰宅して気付いて、慌てて自転車で探しに行ったら、
なんとグッドタイミング、道で、どこかのおばさんが、落ちている私の鍵をみていた。
慌てて拾った私に、おばさん曰く、「触るのが怖くて、拾おうか・どうしようか…考えていた」。

そう当時はコロナで、モノを触る事はNG。
そんなこんな…まだまだ…あるが、今日はここまでにしよう



そうそう思い出しました!
急速な量質転化化=「一気呵成」の弁証法化、でしたね。
今やっと思い出しました。
「一気呵成」を想い出せなかった。表題は、今書きました。










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弁証法レベルの運動とは~

2023-07-20 11:13:01 | ~ものは考えよう~
弁証法レベルの運動とは、

前回の記事で弁証法レベルの「対立物の統一」について考えた。

その「対立物の統一」の結果、
人間は眼前の現実を変化・運動だと認識している…と。


さて今、私の周囲の視野・視界の中で、変化してするモノは、パソコンとテレビ画面。
パソコン画面の変化は確りと見えているが、テレビ画面は、横から入っている光の変化しか分からない。
また、テレビの音声の変化、パソコンキーボードと私の指…指先の感触、口の中の唾液の量…今動かした私の手足…

以上のように~
弁証法レベルの対立物とは、
自分の五感で感覚全ての可能な範囲内にある全てのモノの、今少し前と今、そして次の瞬間の統一である。
そして、それらの結果を「対立物として「統一」したのが「弁証法レベル」の「変化・運動」である。

人間以外の動物なら、それら全を、その動物特有の本能で瞬間的に統一してしまっている。
でも、同じ動物の仲間でも人間は、本能ではなく、生後につくりつくられて来た個性的な「認識で統一」している。
一人一人の感覚・認識には、好き・嫌い、得意・不得意、見える・見えていない、感じる・感じていない、匂う・匂っていない…があり得る。


人間は周囲の世界を変化・運動だと認識できるが…
個々の変化・運動の捉え方・認識像は一人一人異なっていて個性的である。

社会生活が必然である人間には、
その特定の社会で、今その瞬間に感覚・認識すべきモノ・コトを、そこにいる他人から学ぶ必要がある。
社会的に必要なのに、今の自分には認識不能な事を、他人を介して認識しようとする努力・取り組み…これが学習。

社会生活には、社会的な共通理解が必要である。
学校では、一年生に学校で必要な認識を教育する。
その認識の基本は、
他人を介して自己の感覚・認識不能・至難なモノを感覚し、認識しえる能力の養成である。







感覚と感情の区別と連関…


感覚とは、この瞬間に感じ得たモノ。
感情とは、その感覚の連続の結果、量質転化化し得たその感覚に対する心情。



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誤解していた「対立物の統一」…

2023-07-15 16:16:39 | ~ものは考えよう~
誤解していた「対立物の統一」…

「誤解していた」というより、「分かっている」と確信していた。
しかし、その確信の内容に誤解があった事に気付いた。



<旧・悟りを求めて…>と<新・悟りを求めて~>
を読んで内容を「対立物の統一」と捉えた時~

そこに認識される「像化」されるのは何か?
それは、一般的に表現するなら「私は変化した!」という事実である。
別言するなら、私の認識の変化を実感した!…となる。

そのような変化が起こった理由は、「家内の死」が契機に、
過去の家内の出会いから…最後までの経緯・生活を
深くかつ幾度も想い出し…考え思い続けたからである。


何と過去の日記を調べたら、
交際の契機は、家内が私の誕生祝をしてくれた事…
そして、また、家内は私の誕生日に逝ってしまった。

交際して「31年目」、結婚して「24年目」、
皆で「来年は銀婚式ほしようね♪」と言っていた矢先だった…


家内と出会った場所は、日本語学校の日本語教師養成学科だった。
当時の私は、30代・今の半分の年齢で…とても若々しく、希望に燃えていた頃…
ニコニコ笑顔が多く、他人ともフレンドリーに話せていた時期でもあった…事を思い出した。

そんな30代に比べ、ここう数年の私は、非常に笑顔が減っていた…
事に気付かされたのである…

そんな事が、強烈な「家内の死」で、多くの過去の記憶が想起され、
それとここ数年の私の状況が「対立物の統一」的に、重なり合い…
区別と連関で、認識・像化され続けている・いた…


以前に書いた「児童達が植えたヒマワリ」の事であるが…

昨日のひまわりの様子と今日のひまわり様子を「対立物の統一」的に認識するなら、
そこに、あるのは「変化」の像である。


例えば、目の前に、今・自動車が見えた。次の瞬間も同じ自動車が見えた。
その今と次の瞬間の自動車から描かれる像・認識が、「位置が変化した」「動く・動いている・動いた」・「運動している」。


何が書きたいか?
それは、人間が現実を「変化・運動」と認識可能なのは、
人間が常に時々の現実の五感情像・認識像を「対立物の統一」と無意識に把握・重層化している、という事である。


現実界に「変化・運動」があるのではなく、
人間の認識が、眼前の現実を同一物・事として、連続的に統一・重層化して、それを変化・運動として捉えている、という事。



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