新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「概念」について…

2023-09-21 17:01:10 | ~ものは考えよう~

「概念」について…


概念を概念規定するなら、それは、ある対象について、その人が描いた・描いている「概ね・アバウトな観念」と言えよう。

それを~以下の
「概念」の意味とは?例文付きで英語まで簡単にわかりやすく解説
2018年10月13日2022年1月12日

「概念」の意味とは?例文付きで英語まで簡単にわかりやすく解説 – スッキリ (gimon-sukkiri.jp)


では、以下のように纏めている。

>「概念」は抽象的な言葉ですが、多くの人が必ず頭の中に描いているものです。「概念とはこういうものだ」という、「概念の概念」をきちんと理解しましょう。<

更に「新字源」で調べると~
概念とは・[哲学]思考・判断の根本となる原理。
㈠ 多くの対象の共通性的要素を抜き出して得られる抽象的概念や
㈡対象をそれぞれの特徴に従って群に分け、その群の代表的な理想型をつくる事によって得られる類型的概念や 
㈢対象の個別性をとり上げ、それらの個別性を生み、また部分として自分の中に含む全体として求められる具体的概念がある。

概念とは、(対象の)概ねの観念・認識・映像であり、それは言葉で表現され得るモノであっても、決して言葉そのモノではない。
闘論・議論・学問…に「概念規定」を必要とするのは、ある対象に対する社会的・個人的概念の確認を求める為であろう。

空海お宅のように、「概念規定」を否定・求めようとしない人物…の概念、
それらは、言葉で記憶されている「他人の観念」・言葉と言えよう。
概念規定とは、自らの中のその対象に対する「概ねの観念の言語化」を求めるモノ、だろう。

哲学的概念が「思考・判断の根本となる原理」と解説している理由は…
世界に存在している物事の全てをひとまとめにした概念・抽象的な概念なのだろう。

哲学では、「全ては一つ・一つは全て」なので、その世界一つの概念も一つ。

それでも一般的には、
抽象的概念・群(具象)的概念・具体的概念…に分けられる。

本来、対象に対する、その人の概念は、対象と関わり続ける長さによって、
当人の認識の変化・運動と共に、変わっていくモノであろう。

それは、個別・科学的知識・用語が、時代と共に変えられていくように~
ここでの私の「悟り」・「悟得」の概念も、少しずつではあるが…変化し続けている~


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「目的意識」について…

2023-09-18 16:31:37 | ~ものは考えよう~
「目的意識」について…

目的意識とは、目的を意識する事。

例えば、二本の鉛筆でコロッケを食べている人を見たら、どのように思うだろうか?
普通に考えたら、箸ではなく、鉛筆で食べているオカシイ!バカじゃない?!


でも、例えば、揚げたての熱いコロッケを直ぐに食べたいのに…
素手で持てなくて、傍にあった鉛筆で食べた!なら…特にオカシクない。

箸はモノ摘まんで食べる為の道具。鉛筆は、モノを書く為の筆記道具。
どちらも人間が、特定の目的を達成する為に創出した人工的道具。

人工的な道具には、その使用目的が初めからある。
道具は、初めから目的をもって作られているモノ。

道具の機能を最大限に使用可能にするには、
使用者の使用目的を道具の目的と一致させ事であろう。

それでも…道具の利用法は、
使い手である人間が自由に決める事が可能。


目的意識の二重性~

一つ、そのモノ自体の創られた初めからある使用目的。
一つ、そのモノを使用する人の使用目的。

例えば、包丁は料理に適しているが、喧嘩でも使用も可能、でも使いにくい。
また、日本刀で料理が可能でも使いにくい。でも喧嘩には使いやすい。


学校は、勉強・学習する場所なのに、学校に「遊び」を求めて来たら、楽しくないだろう。

ここは、自由びとの個人ブログ、記事・コメントへの感想・異論・暴論なら、まあ許そう!
しかし、まだ公開していない、今日の空海お宅のコメントの内容はアウトだ!

それは、会った事も面識もなくブログ・ネットだけの知り合いである
自由びとの個人的な事柄について憶測だけで書き綴っている内容。

しかも、その憶測の書き方・内容・言葉が悪意タップリと感じられるモノ。
例え、誹謗中傷が目的でなくても、そのよう書き方・内容は、このブログの目的には合致していない。
このブログとも目的不一致の今回の空海お宅コメンとの公開はでき難い!

オマケに、もう一発!
そんな面識ない空海お宅の誹謗中傷的になり得る記述は、
例え、空海お宅の目的が誹謗中傷でなくても、
結果的にそうなり得る記述は、公開できない!


今回の空海お宅の、あのような言動・言葉・行為~
あんなコメント内容が、平然と平気で書ける空海お宅を、
そんな空海お宅だから、私は「馬鹿」だと、書いている。


他人の個人ブログで、普通の人なら、書けない・書かない言葉・内容だから…
公開される筈ない言葉・内容なのに、平然と平気で投稿できる精神は、正常を越えた異常ですね。

内容その物は、憶測の範囲で、特に異常でもなく、鋭い洞察でもないが
それを投稿するという行為が、馬鹿者・異常者・非常識…レベルなのだろう。


「君子危うきに近寄らず」なので、非常に残念だが…今回の空海お宅コメントの公開はなし!



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「分からない」について~「分からない」の二重性~

2023-09-16 13:11:18 | ~ものは考えよう~
「分からない」について~「分からない」の二重性~


相手の言っている事が分からない場合。
一つ、相手の言葉の意味が分からない(認識化・映像化できない)。
一つ、自分が、何故に「相手の言葉が分からない」のかが、分からない。

例えば、
一つ、「起承転結」そのモノが分からない。
一つ、「起承転結」の意味は分っても、どれが「起」?「承」?「転」?「結」?分からない。




例えば、欧米人の会話が分からない場合、
一つ、その英語の意味は分かるのに、相手の言いたい事が分からない(から不安)
一つ、英語・言語自体分からない から 意味が分からない(何故分からないか分かっている「から安心」)

さて今朝の事である。

郵便受けに一枚のハガキが届いていた。
そこには、〇〇……様 三菱UFJ……と書かれていて、
剥がしてみたら、「お支払い日に指定に口座からお引き落としができませんでした。」と書かれていた。
私には、全く身に覚えがない事なので…再度、確認したら宛名は息子だった。


そこで、息子にこのハガキ話をしたら…
「…アプリで入金したから大丈夫」と言われた。

私は、「入金して大丈夫」は分ったが…
『何故にハガキが来たの?』が分からず、

息子に聞いたら、「引き落とされなかった時点で、ハガキが発送されたのでしょう」と言われ。
私、「そうか時間差だったのか…、うん?でも…アプリって何?」と息子に質問した。

あ~あ!「銀行口座の内容が分かるアプリ!」息子曰く。
私―「そのアプリで どのように入金したの?」
息子―「アプリで、引き落としできない連絡メールがあり、それから入金した!」…

ここで、私はやっと事の次第を理解した。
ハガキを再度よく見ると「三菱UFJニコス株式会社」と書かれていた。
アプリは「銀行からの知らせ」であり、ハガキは「カード会社」から…だから二回の連絡だった。


ハガキを受け取った後~
初めの私の分からない・疑問―このハガキは何?
再度確認・解決―息子のハガキ(事実)

息子に確認―「入金した・大丈夫」は分った。
でも大丈夫なのにハガキが来た理由・その過程が分からない。

息子に「アプリの意味を確認した」
ハガキを再再度確認した「銀行は私の誤解で、実はカード会社だった」。

最終的に納得した!


今日のこのやり取りから「分る事の二重性」が分かった。
そこから、私が「息子の言葉を分からなかった理由・構造が分かった」

息子の「アプリ」とう言葉を一般的(カード会社かな?レベル)で分かり、
決して銀行のアプリとは理解していなかった。
銀行アプリなら、私も持っている。確かにそこには、「お知らせ」連絡もある。


相手の言葉が事実的表現であり、全く嘘偽りのない表現でも、その言葉の中の語彙の意味を相手レベル・一致して理解していにいなら、言葉として分っても、その内容を相手的な認識・映像化しをする事は至難である。


それは、今日の私が、
最初の息子の言葉の一つ一つ語彙の意味は分かっても、
それが私の疑問全体の答えとは認識(映像化)出来なかった。


どんなに細かく正確な言葉・記述の数々 or アバウトな銘文でも…
それを認識・映像化不能な読み手にとっては、訳の分からない奇文・怪文・空虚…そのモノであろう。






さて…ここから以下の記述について…である。




>・コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>自由びとさん、自由びとさんは確かに何かを書いたんですね。新しい記事が投稿されて色々と文字が書いてありますから、確かに何かを書いているわけなんです。
>そしてそこには私・空海の名前を書いていますから、私に向かって何かを書いているらしいことまでは理解できるのですが、さて私に何を語っているのかは全く理解できないわけです。
>何となく、何やら私に向かって否定的なニュアンスのことを書いているらしいことは何となく理解できるものの、それ以上のことは全く理解できないでいます。
>まあ、それも今に始まったことでもなく、特に聞く価値のあることを自由びとさんが述べれるとも思っていませんから、問題なくOKです。


この空海お宅には、「自由びと記述が分からない」事は分かっている、ようである。
(このお宅が負けず嫌いの嘘つきではないなら…)


しかし、このお宅は、
自身が自由びと記述を分からない理由・訳・構造」が分からない事を考えよう・分かろうとしていない…

端的に書くなら空海お宅が、自由びと記述を分かる事が出来ない原因・理由は、ある特定の語彙の意味・概念…の相違であろう。

例えば、「弁証法」という語彙である。
私は、初めは「…変化・運動性の法則化」だったが…
今は、「…変化・運動性の性質の法則化」と理解している。

このような「変化・運動性の法則化」と「変化・運動性の性質の法則化」の相違が、
たぶん空海お宅には分からない、のだろう。



事物・事象の変化・運動性の性質そのモノが異なれば、言うなれば別物となり得る。
例えば、同じ動物と言えども、
猫の本能(変化・運動性)を持っているなら「ネコ」。犬の本能(変化・運動性)なら「イヌ」
「ネコ」と「イヌ」とは、別種の動物である。

しかし…弁証法的に思惟するなら、これらは、変化・運動性の性質が異なる同じモノ(動物)…となり得る。

これは、「対立物」も「統一」…・「対立物の統一」も然り、「否定の否定」も然り…



コメント (9)
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空海お宅とへ・弁証法的に思考とは?

2023-09-14 11:59:04 | ~ものは考えよう~
空海お宅とへ・弁証法的に思考とは?


先ずは、記事 「否定の否定と回り道~」へ
2023/09/12 19:19:54に届いた以下のコメントを読んで頂こう。

>・コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>人間の認識はドンドンと発展していきますから、一旦は書いてみたものが少し経つと修正しないといけないことが沢山でてきます。

>Kraft(自然の力)のイメージも最近は生産力のほうになってきて、他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。

>こんなこと書いてると、また自由びとさんに嫌がられますから、この辺でやめときますけどね。




空海お宅へ~やれ!やれ!ですね!

tadaさんから「空海さん ちょっと見直しました」と言われ有頂天になになって書いたら…
今度は、「空海さん 残念でした。滝村先生の考えを理解することは無理なようですね。生前の滝村先生が相手にしなかった理由がよくわかりました。」なんて言われて…

その結果がなんと~
>こんなこと書いてると、また自由びとさんに嫌がられますから、この辺でやめときますけどね。


↑なんてコメント書いて~

これって、本当はこれ以上書けないのに…
その理由を「自由びとさんに嫌がられます…」とする事ですね。
本当は、自己責任なのに、他者に責任を負わせている…という無責任お宅ですよね。

私の本心・本音は、空海お宅とtada氏のやり取りは、とても勉強になるので…特に嫌がっていません。
ただ…tada氏の記述は分りやすく助かりますが…空海お宅のは非常に分かり難く苦労しているのも事実ですが…。
それでも…両方を対比させることで、まあ何とかなっています。


だから空海お宅さん~
「自由びとさんに嫌がられます」は、今の所はありません。
空海お宅が、お宅の主張が正しいと思うなら、
自由びとに遠慮する事無く、どうぞ、思う存分にtada氏とやり続けて下さい!


今回は、「自由びとさん」とHDが書かれているので…
上記の記述の以下の部分へコメントします。


>Kraft(自然の力)のイメージも最近は生産力のほうになってきて、他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。


ここで「Kraft(自然の力)のイメージ」は、どんなに頑張っても「イメージ」である限り、真の現実の自然ではありません。
それが「生産力になった」としても、「自分から自分で自分を変える・変えて行く」事でしか、ありません。
それは、「人間は自己の能力の範囲内で…」の変化・運動・思考…なのです。
自分の範囲内の思考と自分を超えた他力・現実的な思惟との相違です。

自力ではなく、現実・事実的な他力とは~
例えば、今日朝見た録画ドラマで~
恋路で悩んでいる主人公が恋人の事で、朝の会議で、溜息ばかりついていた。
A―「溜息は、テンション下がるからヤメテ!」
B―「溜息は体によくないよ!」
C―「溜息は身体にはいいってよ!」

このような、溜息について、「良い・悪い」の対立している評価・矛盾を解決する思考・思惟とは?

先ずは、事実的な理解⇒溜息とは?
悲しんだり、ガッカリした時に思わず出る息。

次に、現実の溜息とは?
「ハー」とか「フー」とか、肩を落とし、力なく長く吐く息。


会議の際にも、悲しい事やガッカリする事(思い出し過ぎ)は、精神的に良くない事。
それでも、普通「ハー」と吐いたら、反射的に「スー」と長く吸う。この深呼吸は身体的に良い行為。
「精神的には良くない」でも「身体的には良い」それが「溜息」…

ついでに 六時前から眠れなくなった 今朝の自由びとが、おもった事 を書こう。
それは、「弁証法的に考える」という事について…である。

弁証法とは、変化性・運動性の性質に関する科学。

動物は、その種に限った本能で日々を生きている。
従って、動物は、その種の本能と異なった生き方は不可能。
その種に限るなら、弁証法的な生き方ではない。


しかし、人間には、動物のような人間だけの特有・固定的な本能はなく、
人間の本能は、創り創られていくモノ…もっとも動物レベルの最低限の生存本能はあるが…

弁証法的に考えるとは、自己の思考性・思惟性を変えるレベルで考える事。
それは、自分から自分で考える事だけでは、不可能な思考法。

弁証法的に思考するとは、自分の中に他人を入れて、そこから思考(思惟)する事。

自分から自分を考えるが「思考」なら、
現実の他人を受け入れて、その受け入れた他人的モノ・認識から自分を考えるが「思惟」。

それは「対立物の統一」でもある。
現実界の現実的な対立な物と物を自己の頭脳内・思考過程で統一する事。
それが、決して現実的には「統一不可能なモノコト」でも、頭脳内では可能である。



さて…そこで結論を~

上記の空海お宅の以下の記述について~
>「他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。」


「他人の意見の修正」とは、その他人に「求めること」ではなく、
自分の意見の正当性についての検証の為に「対立物の統一」をする一つの過程であろう。

他人の意見と自分意見を統一するとは、自己の頭脳内・思考過程であり、
他人の意見を自分意見で叩き続ける、自分意見を他人の意見で叩き続ける事。

残念な事に、私の意見で、空海お宅の意見を叩く過程は、ここに書くが…
私自身の意見を空海お宅の意見で叩く過程は、敢えてここで書く事はしない…

理由は、そんな事をしたら、激論・口論らしくなくなる から…



さてさて~
最後に絶対的に矛盾してしまう「対立物の統一」について、

「自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)」

これを非弁証法的・固定的な変化性・運動性に基づく「…修正…」とするなら「〇」。
しかし、この記述を弁証法的思考「…修正」…とするなら矛盾「×」である。(矛盾は「対立物の統一未満」)
それでも、この空海お宅が、自分自身の事を「矛盾」と理解しているなら「〇」。

今回から
非常に知識的な空海お宅だから、
上記の記述を理解した瞬間から、
「矛盾」と暗記できれば、「〇」ですかね。

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否定の否定と回り道~

2023-09-08 17:55:49 | ~ものは考えよう~
否定の否定と回り道~

「急がば回れ」という言葉・教え・諺がある。
意味は、「早く着くためには、危険な近道より遠くても安全で確実な方法をとったほうが早く目的を達できる」である。
より詳しくは、「急がば回れ」の例文!小学生にでもわかりやすく簡単な短文で! | 贈る言葉情報館 (okurukotoba.tokyo) にどうぞ。

学校教育も一つの大きな回り道と言えよう。

身体的には未熟な小・中学生は無理でも、
17歳(中学卒業)位になれば、大人と同じレベルの身体的労働が可能である。

それでも、高校へ通う理由は、現代社会の文化レベルでの頭脳労働を可能にする為である。
これは、今すぐ肉体的な労働は可能な身体でも、それを否定(労働しない)で更に学校へ通う。
そく働く(直行)を否定して、教育を受ける(曲行)回り道、結果、頭脳労働可能な頭脳獲得、と言えよう。
このように、学校・教育そのものが、否定の否定であり、回り道である。


私は、本日一年生に対する担任の指導の回り道の事実について気付く事ができた。
それは、教員時代の私が普通にやっていた指導なのに…
今日の今日まで、私が「否定の否定・回り道」と全く気付かなかった事。


それは以下のような事実である。

今日の二校時、一年二組の教室体育の補助に入った。
元々は、外・校庭体育だったが台風の為の教室になった授業。
内容は、運動会での「ダンス」種目の練習。

初めに担任が以下の指示を出した。
「みんなで机を後ろに寄せて、終わったら、おしゃべりしない、静かに体育座りで待つ事」

しかし、机の移動が終わっても、子供達は指示通りに待っずザワザワしていた。
そこで、そんな児童達に担任の説教が始まった。

その説教は以下のような内容・言葉に
「…すぐに練習を開始したかった…その為の初めの指示なのに…お喋り・ふざけ合い…で出来なかった…」

私は、担任の言動を矛盾だと感じた。

説教での「すぐに早く始めたかった」という言葉・内容、と
実際は直ぐ始めずに長々と説教し続けている行為の矛盾。

それは、小学校中・高学年以上になると、誰もが感じる不満であろう。
私も学生時代に、同じように感じ続けていた、のに教師が怖くて口に出せずにいた事。

そんな私だったが…今日の私は、「これは回り道であり、否定の否定」だと気付き痛感した。

教員の説教は何の為?
それは、説教によって、今の児童・生徒の言動・行為を変える為のモノ。
上記の場合の説教では、今後は、児童達が、教師の指示に従って静かに待てるようになり、すぐに練習開始が可能になれば、練習時間は、ずっと多くなり得る。

今日の練習時間は、説教の為に結果的には短くなっても、
今後は、説教の効果があれば、より長い時間が生まれる。

今回は、直ぐに練習開始しない(否定)して、
…長い説教での回り道…
結果、次回は児童のお喋り・教師の説教なし(否定)で、そく開始可能。


教育の本質が「否定の否定・回り道」のような矛盾であるから、
当然に、具体的な教育過程も、「矛盾」となり得る。

教師は、自己の教育・過程での矛盾を常に意識・自覚する必要があろう…

今回の担任も自分の矛盾を自覚・意識できていたなら、
説教の終わりに、以下のような言葉を加えられただろう。


「…今回のように、早く練習したかったのに、先生が長々説教したのは、
先生の言葉で、みんなに変わって欲しかった。
次回は、お喋りもふざけのなしで、直ぐに練習を始められる
みんなになって欲しかった、から…(と怒り顔をやめた、思いっ切りの笑顔で伝える)


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