「間違える」について思う。
「間違える」について考える。
「間違える」について思考する。
「間違える」について思惟する。
実際の過去の「間違い」事実・経験・体験を思う。
人間が認識的実在である、として「間違い」を考える。
人間の間違いと動物の間違えを思考する。
私自身の間違えた事実の過程を思惟する。
さて「間違える」についての辞書の説明は以下である。
① 正しくない結果を出す。
② 取り違える。
最近の私は、間違える事が多いように思えてしまっている。
それは、若い頃に比べて多くなった、という事である。
正確には、私の記憶の中にある若い頃の私に比べて多いである。
さてさて…その私の記憶の正確さは、どうなのだろう。
そもそも…若い頃の私は、
自分の間違えを間違えと気付けていたのだろうか?
他人にした事は、その人が言ってくれれば、間違いと分かる。
もっとも…自分が正しいと思った事なのに、
他人から間違いと指摘される事もあったが…
私が正しいと思った事が、
どうして、
全ての人が正しいと思わないのだろうか?
そもそも…「間違え」とは…
それは、ある条件で正しい事が、
その条件が違った為に正しくなくなった事、
なのだろうか…
「間違い」と思っているのに、正しい事のようにする人間はいない。
正しいと思ってやったら、間違えだった、というのが普通である。
「正しい」という判断は認識・観念内でのモノ、
「間違い」というのは現実に対する判断である。
「間違える」というのは、
認識・観念と現実・事実の不一致・ズレと言い得るのだろう。
例えば、いつもの時刻に、いつもの友達の家に電話して、
受け手が友達だと思って話していたら…なんと親だった…
という間違えがあったとする。
これは、受け手が友達だと確信していたから、
似ていた親の声を、友達の声だと勝手に誤解して、
間違えてしまったのだろう。
十中八九条件が同じであっても、
たった一つ違っただけで、正しくない事も多々ある。
認識的実在である人間は間違える動物である。
人間は外界の情報を元に、観念が判断を下すからであり、
観念は、認識から相対的独立に量質転化化してモノ…
人間の観念は、唯物的であったり、観念的であったり…
外界情報を優先したり、己の観念・信条・思い…を優先したりの判断であったり…
絶対的観念論が、絶対的に正しいという判断は絶対的に間違えである。
絶対に間違える人間にとって、絶対的に正しい事はあり得ない。
仮に「絶対真理」というモノがあっても、
人間が「絶対真理」をモノにするのは絶対的に無理であろう。
「絶対真理」とは、体得者がその真理を実践・実行した時、
常に絶対に正しい事たり得てこそ、「絶対真理」であろう。
絶対真理なのに、実践したら間違っていた!
それって絶対真理なの?
絶対に間違える人間にとって、
常に絶対に間違えない事=正しい事の実践・実行は無理無理。
従って、ここに「絶対真理」があったとしても、
それは、人間にとって「絶対真理」とはなり得ない。
そもそも絶対的観念論者が、絶対真理を説いている者が、
多くの他人からその論説を正しい!と認められていない。
この事実・現実があるのに…
多くの人から「正しい」と認められない理由が、
その人達が唯物論信仰だ!からと切り捨てている。
しかし…人間は現実世界を生きている。
決して~人間は観念世界で生きている、のではない。
もっとも…
現時点での間違えが、
将来的に間違えでなくなる可能性もあるにはあるのだが…
それでも「絶対」と言ったからには、
そこに「絶対的」な正しさがあって然るべきモノだろう…