南郷先生の御言葉・「修行とは…」
以下の記述は、
「心に青雲 旧ブログ」
kokoroniseiunn.seesaa.net/
からの転写である。
2019年07月07日
松本哲也選手(巨人)の“強気”(下)
…………前略…………
これは一度紹介したことがあるが、南郷先生は「修行とは、ダメだとわかっていても続けることだ」、また「成功するとの思いで修行をしてはいけない」と説かれる。南郷先生が説かれるのは、弁証法の修行、あるいは論理能力の修得に関してではあるが、それを敷衍して解釈すれば、どんな人生上の問題、課題にも言えるであろう。
…………後略…………
この「修行とは…」に対してのコメントが以下である。
>これらの考えは、では努力をして途中で挫折したらどうなるのか?ということを考えていない点で問題があります。(後略)
>…(前略)…そして最後に、ダメだとわかっていて続けるという考えは、戦略的に勝つという発想を妨げます。何事も努力努力という発想をしてしまうのです。例えば大学に行こうとしたとき、就職に有利な大学、学問、将来的に評価される就職先、こういった有利な環境に自分をおくという発想が出来なくなります。少し努力しただけで結果を残せるような環境を探すという能力が伸びなくなります。…(後略)…
このコメントは、
「修行とは、ダメだとわかっていても続けることだ」、
という言葉を確り理解していない。
これぱ、「修行とは…」であって、
決して、「修業とは…」ではない。
「修行とは」、心・精神的な「行」であり、
「修業」途中での機能に関わるモノ。
それに対して、
「修業とは」、身体・能力的な「業」であり、実体に関わるモノ。
少々難しいのは、能力は実体の機能である、という事だが…。
別言するなら、
「修業」過程に必要な精神力の養成が「修行」とも言い得る。
例えば、空手の修業を途中で断念したとしても、
そのレベルまで「修業」を続けられた事は、
そのレベルまでの「修行」がなし得た事であり、
空手を断念した事で、空手を通しての「修行」を断念した事になる。
それでも、空手修業がダメだった自分の事を諦める事無く、
そんな「自分がダメだと分かった」上で、
次なる目標を設定して努力し続ける事。
これこそが、
南郷先生の御言葉の意味であり、
「修行とは、ダメだと分かっても続けることだ」
という事である。
だから、
人間は生き続ける事を「修行」と捉えて、
自分を活かし生き続ける、のだろう。
もっとも…
人生を「修行」と捉えられない御仁~
または、自信タップリで挫折を知らない御仁~
そんな人達にとって、
ここでの解釈は
「何を言ってんだい!阿保か?お前は!」
レベルだろうが…