続・禅問答の正解
今回は、以下に添付した
公案―無門関「趯倒淨瓶」について考えてみた。
そこでは、
>百丈和尚は大潙山に僧堂を開くにあたって、
>その住持となるものの選抜試験をおこなうことにした。
>彼は浄瓶(手を清めるための水を入れておく瓶)を地べたに置いて、みなに言った。
>百丈『これを浄瓶と呼んではいかん。さあ、なんとか呼んでみよ!』
「浄瓶という名称なのに浄瓶と呼んではいかん」と条件を付けて、
「さあ、なんとか呼んでみよ!」という問題である。
名称があるが名称で呼んではダメ!
なのに「呼んでみよ!」という問題。
正解は「呼ぶことが無意味」であるが…
ここで問題は、それを如何に体現するか、である。
それを霊裕は以下のように体現した。
>百丈は霊祐に、オマエさんはどうだ、と問いかけた。
>霊祐は浄瓶に歩み寄って蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。
今の私なら、
それに水を入れて百丈に「ハイ!と差し出す」。
さて…この霊裕の解答は見方によっては、浄瓶を浄瓶と呼ばないなら…
それは「手を清めるための水を入れておく瓶」ではない。
だから、「蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。」という事だろう。
しかし、名称が何であろうとなかろうと…
「手を清めるための水を入れておく」事が可能なら、
それを使う事に何の問題があろうか?
目の前のモノが使える・使いたいなら、
名前など呼ばずに水を入れて使えばよい!
それは公案においての「何と呼んでみよ!」という問題の否定である。
問題そのモノを否定して答えることも禅の回答であろう。
解答―問題を解いて答えを出すことや、その答え。
回答―質問や要望・要求に答えることや、その答え。
禅は問題・言葉そのモノに答えるのではなく、
その問題・言葉の禅的意味を把握して禅的に答える、
というものなのだろう。
この「問題」は、問い自体が問題を否定している。
問題文は「名前を呼んではいけない!」
「問い」は「さあ~呼んでみよ!」
名称を知らないなら何と呼んでも正解であろう…が、
名称を知っている者が、言葉したなら全て不正解。
ならば、正解は言葉での表現ではなく行為での体現。
四十 趯倒淨瓶
潙山和尚、始在百丈會中充典座。百丈、將選大潙主人。乃請同 首座對衆下語、出格者可往。百丈遂拈淨瓶、置地上設問云、不得喚作淨瓶、汝喚作甚麼。首座乃云、不可喚作木𣔻也。百丈却問於山。山乃趯倒淨瓶而去。百丈笑云、第一座 輸却山子也。因命之爲開山。
無門曰、潙山一期之勇、爭奈跳百丈圈圚不出、撿點將來、便重不便輕。何故。壍。脱得盤頭、擔起鐵枷。
頌曰
𩗺下笊籬并木杓 當陽一突絶周遮
百丈重關欄不住 脚尖趯出佛如麻
四十 趯倒浄瓶(てきとうじんびん)
潙山(いさん)和尚、始め百丈の会中に在って典座(てんぞ)に充(あ)たる。百丈、将に大潙の主人を選ばんとす。乃ち請じて首座(しゅそ)と同じく衆に対して下語(あぎょ)せしめ、出格の者往くべしと。
百丈、遂に浄瓶(じんびん)を拈じ、地上に置いて問を設けて云く、「喚んで浄瓶と作すことを得ず、汝喚んで甚麼(なん)とか作さん」。
首座乃ち云く、「喚んで木𣔻(ぼくとつ)と作すべからず」。
百丈、却って山に問う。山乃ち浄瓶をテキ倒して去る。
百丈笑って云く、「第一座(ぞ)、山子(さんす)に輸却せらる」と。
因って、之れに命じて開山と為す。
無門曰く、「潙山一期の勇、争奈(いかん)せん百丈の圏圚(けんき)を跳り出でざることを。撿(けん)点し将ち来れば、重きに便りして軽きに便りせず。何が故ぞ。聻(にい)。盤頭(ばんず)を脱得して、鉄枷を担起(たんき)す」。
頌に曰く
笊籬(そうり)并びに木杓(もくしゃく)を𩗺(よう)下して、当陽の一突周遮(しゅうしゃ)を絶す。百丈の重関も欄(さえぎ)り住(とど)めず、脚尖趯出(きゃくせんてきしゅつ)して仏麻の如し。
百丈和尚は大潙山に僧堂を開くにあたって、その住持となるものの選抜試験をおこなうことにした。彼は浄瓶(手を清めるための水を入れておく瓶)を地べたに置いて、みなに言った。
百丈『これを浄瓶と呼んではいかん。さあ、なんとか呼んでみよ!』
すると、首座の善覚が進み出て、
善覚『さあて、木のかけらともいえません』
と言った。百丈は霊祐に、オマエさんはどうだ、と問いかけた。霊祐は浄瓶に歩み寄って蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。
百丈『善覚よ、霊祐の野郎にやられちまったな』
百丈は霊祐を大潙山の住持とした。
今回は、以下に添付した
公案―無門関「趯倒淨瓶」について考えてみた。
そこでは、
>百丈和尚は大潙山に僧堂を開くにあたって、
>その住持となるものの選抜試験をおこなうことにした。
>彼は浄瓶(手を清めるための水を入れておく瓶)を地べたに置いて、みなに言った。
>百丈『これを浄瓶と呼んではいかん。さあ、なんとか呼んでみよ!』
「浄瓶という名称なのに浄瓶と呼んではいかん」と条件を付けて、
「さあ、なんとか呼んでみよ!」という問題である。
名称があるが名称で呼んではダメ!
なのに「呼んでみよ!」という問題。
正解は「呼ぶことが無意味」であるが…
ここで問題は、それを如何に体現するか、である。
それを霊裕は以下のように体現した。
>百丈は霊祐に、オマエさんはどうだ、と問いかけた。
>霊祐は浄瓶に歩み寄って蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。
今の私なら、
それに水を入れて百丈に「ハイ!と差し出す」。
さて…この霊裕の解答は見方によっては、浄瓶を浄瓶と呼ばないなら…
それは「手を清めるための水を入れておく瓶」ではない。
だから、「蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。」という事だろう。
しかし、名称が何であろうとなかろうと…
「手を清めるための水を入れておく」事が可能なら、
それを使う事に何の問題があろうか?
目の前のモノが使える・使いたいなら、
名前など呼ばずに水を入れて使えばよい!
それは公案においての「何と呼んでみよ!」という問題の否定である。
問題そのモノを否定して答えることも禅の回答であろう。
解答―問題を解いて答えを出すことや、その答え。
回答―質問や要望・要求に答えることや、その答え。
禅は問題・言葉そのモノに答えるのではなく、
その問題・言葉の禅的意味を把握して禅的に答える、
というものなのだろう。
この「問題」は、問い自体が問題を否定している。
問題文は「名前を呼んではいけない!」
「問い」は「さあ~呼んでみよ!」
名称を知らないなら何と呼んでも正解であろう…が、
名称を知っている者が、言葉したなら全て不正解。
ならば、正解は言葉での表現ではなく行為での体現。
四十 趯倒淨瓶
潙山和尚、始在百丈會中充典座。百丈、將選大潙主人。乃請同 首座對衆下語、出格者可往。百丈遂拈淨瓶、置地上設問云、不得喚作淨瓶、汝喚作甚麼。首座乃云、不可喚作木𣔻也。百丈却問於山。山乃趯倒淨瓶而去。百丈笑云、第一座 輸却山子也。因命之爲開山。
無門曰、潙山一期之勇、爭奈跳百丈圈圚不出、撿點將來、便重不便輕。何故。壍。脱得盤頭、擔起鐵枷。
頌曰
𩗺下笊籬并木杓 當陽一突絶周遮
百丈重關欄不住 脚尖趯出佛如麻
四十 趯倒浄瓶(てきとうじんびん)
潙山(いさん)和尚、始め百丈の会中に在って典座(てんぞ)に充(あ)たる。百丈、将に大潙の主人を選ばんとす。乃ち請じて首座(しゅそ)と同じく衆に対して下語(あぎょ)せしめ、出格の者往くべしと。
百丈、遂に浄瓶(じんびん)を拈じ、地上に置いて問を設けて云く、「喚んで浄瓶と作すことを得ず、汝喚んで甚麼(なん)とか作さん」。
首座乃ち云く、「喚んで木𣔻(ぼくとつ)と作すべからず」。
百丈、却って山に問う。山乃ち浄瓶をテキ倒して去る。
百丈笑って云く、「第一座(ぞ)、山子(さんす)に輸却せらる」と。
因って、之れに命じて開山と為す。
無門曰く、「潙山一期の勇、争奈(いかん)せん百丈の圏圚(けんき)を跳り出でざることを。撿(けん)点し将ち来れば、重きに便りして軽きに便りせず。何が故ぞ。聻(にい)。盤頭(ばんず)を脱得して、鉄枷を担起(たんき)す」。
頌に曰く
笊籬(そうり)并びに木杓(もくしゃく)を𩗺(よう)下して、当陽の一突周遮(しゅうしゃ)を絶す。百丈の重関も欄(さえぎ)り住(とど)めず、脚尖趯出(きゃくせんてきしゅつ)して仏麻の如し。
百丈和尚は大潙山に僧堂を開くにあたって、その住持となるものの選抜試験をおこなうことにした。彼は浄瓶(手を清めるための水を入れておく瓶)を地べたに置いて、みなに言った。
百丈『これを浄瓶と呼んではいかん。さあ、なんとか呼んでみよ!』
すると、首座の善覚が進み出て、
善覚『さあて、木のかけらともいえません』
と言った。百丈は霊祐に、オマエさんはどうだ、と問いかけた。霊祐は浄瓶に歩み寄って蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。
百丈『善覚よ、霊祐の野郎にやられちまったな』
百丈は霊祐を大潙山の住持とした。